第3話 「私の恋人になってくれませんか」

 その日も僕は、いつものように一人ぼっちの学校生活を営んでいた。

 ぼんやりと授業を聞いて、放課後になったらすぐ帰る。

 きっと今日もそうなる

 そうなるはず、だったのだけど――


「――黒木くん、ちょっと良い?」


 ――そんな僕の日常は、背後から突然かけられた声によってあっけなく変わっていった。

 その声はかわいらしく、特に聞き覚えのある音をしていた。

 ――白石さんだ。

 意外なことに彼女は僕の名前を憶えてくれていたみたいで、しっかりと名字で呼ばれた僕は心臓が跳ねるような思いと一緒になんともいえない多幸感を感じていた。

 ――白石さん、ちゃんと話したのは入学したときだけなのに覚えていてくれたんだ。

 ――いや、そもそもなんで僕を呼び止めたりなんかしたんだ?

 ――とてもかわいい。画面の向こうにいるときも素敵だけど、こうやって生で見るとなにかオーラみたいなものが違うな――

 あちらこちらへと散らばった思考で軽いパニック状態になりかける。

 頭の中はとりとめのない思考でいっぱいだ。


「し、白石さん、なんですか?」


 変なことを言ってしまいそうな自分を抑え、しどろもどろになりながらもそう返す。


「まったく、入学式の時も話しかけたじゃん」


 白石さんがクスリと笑った。

 その表情がどこか寂しげなのが気にかかる。


「あの、白石さん――」


 なにか嫌なことでもあったんですか。

 彼女にそう言おうとして、僕は彼女の顔が耳の辺りまで近づいていることに気づいた。


「!」

「――屋上まで、一緒に来てくれる?」


 屋上。

 屋上まで、一緒に。

 ――屋上、まで、一緒、……に?!?!?!

 ゆでだこのようになった頭の中でその単語がリフレインする。


「ダメ?」


 トドメと言わんばかりに、白石さんが上目遣いで覗き込んできた。

 くそっ! 推しのあいどるからのお願いなんてただでさえ断れないのに、そんな顔までされてしまったら――!


「……わ、わかりました」


 こうしてあっけなく折れてしまった僕は、これは妄想なのか現実なのかよくわからなくなったような気持ちで、白石さんと一緒に屋上へと向かうのだった。

 ――明日、死んでないよな?


◇ ◇ ◇


 ギシリ、と重い金属音を伴って高校の屋上に出た。

 周囲にしっかりとフェンスがほどこされた屋上は、それでも通行止めされてしまっているというのもあってひと気がない。

 あまり掃除もされていないのか、すっかりカピカピになってしまった桜の花びらが辺りに散らばって、ほかの溝に入り込んでいるゴミと一体化しつつあった。

 屋上からは運動場は見えて、いつもとは少し違う表情を僕たちに見せる。

 ちょうど放課後と部活の間ごろの時間だからか、運動場は珍しく閑散としている。

 とはいえ、すぐに部活の人たちでにぎやかになるのだろう。

 まっさらな運動場の土に白い石灰石のレールが敷かれていく光景を見て、僕はそう思った。


「――それで、黒木くん」


 白石さんはエアコンの室外機にどっかりと座りながら口を開いた。

 片手にはスマホを持っていて、I-tubeのアプリが見える。

 ――その時僕は目を疑った。

 だって、あまりにも見慣れたアカウントがそこに乗っていたから。


「そ、それって……」

「黒木くんってさ」


 白石さんがにっこりと笑う。


「Vtuber、やってるんだ?」


 ――時間がひどく遅くなったように感じた。

 Vtuberをやっていることは誰にも言っていない。

 学校のみんなどころか、家族にだって。


「……一体、どこで知ったんですか?」


 白石さんの笑みが深くなる。

 いつもはかわいらしいはずのその笑顔が、今はとてつもなく恐ろしい。


「偶然だよ、偶然。Vtuberを勉強しようって思ったら、間違ってタップしちゃって」


 そしたら知ってる声が聞こえたんだからビックリしたよー、と白石さんは笑った。


「……あの、それで――」

「――それでね、コメントしちゃったんだ」


 耳を疑った。

 白石さんが、コメント?

 見られているという事実でさえ理解できないというのに、コメントを?


「コメント、ですか……?」

「そうコメント。ほら、これこれ」


 白石さんがスマホをずいと近づける。

 その右上には、「セレネ」というアカウント名が。

 いつも僕の配信を見てくれる常連のひとりだ。

 何度も何度も目をこすって、見間違いじゃないのか確認する。

 それでもその三文字が変わってくれる気配はない。

 ――ということは、つまり。


「もしかして、白石さんが、セレネさん、だった……?」

「正解!」


 白石さんはとても嬉しそうに言った。

 普通の状態だったら思わず僕もつられてしまいそうな素敵な笑顔だ。

 だけど今の状態はあまりにも奇妙で、そのせいか彼女の笑顔もどこか不気味にしか思えなかった。

 彼女がなにをしたいのか、どういうつもりなのかがまったくわからない。

 もちろん、ただ僕の秘密を知っているから自慢したかっただけなのかもしれないけれど、それにしても行動がおかしい。

 わざわざ屋上に連れて行くのもわからなければ、自分のアカウントを見せびらかしたのも意味がわからない。

 だって彼女は有名人だ。

 プライベートのアカウントをさらすだなんて、普通――


「……ふふっ、これで知られちゃったな~」


 ――白石さんがにやにやと僕を見つめる。


「な、なにを……?」


 嘘だ。本当はわかっている。

 けれど、僕が予想しているものが正解なのかまだ確証が持てない。


「私の裏垢」


 さも当然と言わんばかりに白石さんが答える。

 ――当たっていた。


「当然さ。私は芸能人だからこういうアカウントって隠しているんだよ」

「は、はい……」

「だからさ、もしこういうのが知られちゃったらとてもマズいんだよね。最悪消しても色々保存されているかもしれないし」

「そ、それは……」


 そう、たしかにそうだ。

 無論、僕はそんな風に彼女の情報を使うつもりはない。

 けれど、白石さんに対して、そしてほかの人々に対してそれを証明するのはひどく難しいことなのだ。


「だからさ」


 白石さんが室外機からぴょんと飛び降りて僕の目の前へと歩いた。

 ただそれだけだというのに、彼女のオーラはそれを素晴らしいコンサート会場でのパフォーマンスであるかのように演出する。

 降りる姿も歩く姿も、すべてが知的でかわいらしく、そして美しい。


「――私のお願い、聞いてくれない?」


 彼女のお願い。

 一体どういうものなのか、僕にはまったくわからない。

 けれど、それを飲まなければ白石さんには信用してもらえないだろう。

 僕はそう思って、それでも何分も悩みぬきながら答えた。


「……はい」


 白石さんが嬉しそうに笑う。

 不意に彼女の顔が近づくと、次にやわらかな感触が唇を襲って――


「――!」


 ――白石さんから、キス、された。


「え、ど、どどど、どうしてっ!?」


 動揺が抑えきれずに声が裏返る。

 それくらい彼女の行動は唐突なものだった。


「あ、その反応だと、もしかしてファーストキス?」

「そ、そそ、そうですけどっ! それはどうでもよくて……こ、これはお願いとどう……?」

「関係あるかってこと?」

「そう、そうです!」

「そうか、それはねー……」


 白石さんが僕の目を見つめる。

 恋する乙女のような、獲物を見つけた蛇のような、ひどく澄んだ瞳だった。


「……私の恋人に、なってくれませんか」


 そう言って白石さんは僕に抱きつく。

 僕はといえば、今目の前で起きていることにまったく追いつけず、ただ呆然と景色を眺めていた。

 雲がのどかに浮く青空。暖かくも湿気をはらみはじめた空気。

 地面に散った桜の花びらが、この奇妙な告白を象徴しているような気がした。

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