第37話

 静かなアーリの部屋の中は本棚に入りきらない本が、床に置きっ放しになっている。机の上には少女が趣味で描いた描きかけの絵が置かれ、外から入り込む橙色の陽の下に照らされている。

 久々に家に戻ってきたアーリは、長旅で疲れた体を自分のベッドの上に横たえ、持ち帰ってきた母親の古ぼけた日記に目を通していた。

 一度読んだはずなの、他愛も無い日常を書き記した文字一つ一つが、自分の母親の言葉の様に彼女の内側に染み渡っていくのを感じる。

「……どこ、行っちゃったの、お母さん」

 少女はその日記に向けてか細く呟いた。

 しかし、本は勿論ただの紙だ、返事をする訳がなかった。少女の呟きは本の中へ、そして部屋中へ虚しく消えていく。

 

 しばらく少女がそうしていると、部屋の扉が二度、コツコツとノックされた。

「アーリ、入っていいか?」バレントの声がそれに続いた。

 アーリはベッドの上で体を起こし、返事を返す。「うん、いいよ」

 一呼吸置いて、ドアが開き、少し疲れた顔をしたバレントが入ってくる。彼は入ってくるなり、少女の枕元に置いてあった古ぼけた赤い表紙の本を見つけた。

「メルラの日記か」バレントは机の前に置かれた木の椅子に腰掛ける。「俺にも読ませて貰えないか?」

 アーリは無言で頷くと、バレントの無骨な手の中に、日記を差し出した。

「結構古いんだな」彼はそれを受け取ると、古ぼけた表紙を、一度撫でた。「あいつは、かなりの間一人でいたんだろう」

 静かにページを読み進めながら、なんとかアーリと会話をしようとしている。

「体調はどうだ? かなり能力を酷使していた上に、長旅で疲れているんじゃないか」

「うーん、ちょっと……だけ疲れたかも。でも、いつもよりは大丈夫かな」

「そうか」バレントはページから目を一瞬離し、アーリを見た。「……助けに来てくれて、ありがとうな。あのままだったら俺は、アイツらに殺されていたかもしれない。本当だったら、危険な事に首を突っ込んだお前を叱らなければいけないのだが……俺にはその権利はない、感謝することしかできない。本当にありがとうな」

「ううん、いいの、バレントは家族だから。危なくっても、助けなきゃって。逆だったら、バレントは絶対来るでしょ?」

「ああ」バレントはまた、静かにページをめくり出した。

 普段はあまり干渉してこないバレントの事だ、なにか話したい事があるのだろうとアーリは思った。だが、聞くのも野暮だとも思ったので、静かにベッドの上に座って別の本を読んでいた。


 少女の視界の端に映るバレントは、しばらく静かに日記を読んでいたが、次第に生唾を何度も飲み込んだり、何度も必要以上に座り直したり、脚を組み直したりとなにか忙しない様子だ。かと思うと、ゆっくりと重たい口を開いた。

「……あ、あのな」

 それだけ言うとバレントはまた口を噤んでしまった。何か言いたげな表情をしているが、目線は日記に落としたままだ。

「ん、どうしたの?」

 アーリの問いかけに、バレントは少し悩んでから顔を上げて話し始めた。

「アーリは……父親や母親に会いたいか?」

 それは少女自身も悩んでいた質問だった。確かに幼い頃はすぐにでも会いたいとは、思ってはいたし、会えたならば何を伝えたいか、何を話したいか毎日悩んでいた。

 あの場所で偽の母親を見た時でさえ、飛び上がるほど嬉しかった。本当の両親に会えたなら、本当の幸せを感じられるかもしれない。

 だが、もしかしたらバレントは、それを望んではいないのかもしれない。アーリは彼の短い質問からそんな雰囲気も感じ取っていた。しかし、彼の表情からは、会わせたくないというより、会わせてもいいのだろうかという迷いが感じ取れる。


 アーリは手にしていた本を置き、しばらく悩んでいたが、ゆっくりと言葉を考えながら喋り出した。

「……会い、たい……かな? 会えるなら、だけど」

 バレントは小さくため息をつくと、

「そうか、アーリ、お前に伝えておかなければいけない事がある」そう言うとバレントは日記に挟まっていた写真を取り出した。「俺が知っている事を話そう。お前の母親が俺の妹だと言う事は、知っているな?」

「うん、メルラ・レンクラーって言うんだよね。写真を見た時から似てるなって」

 アーリは写真を覗き込み、バレントと見比べた。そっくりとは言い難いが、目や口元などいくつか二人の特徴が、似ているのが分かった。

「だから、ここにいても私は安心できるのかな?」

「かもな。それで……」バレントは写真の中に映る男性を指差した。「父親については、なにか覚えているか?」

「お父さんの事……?」

 アーリは自分の父親についてはほとんど覚えがなかった。写真を見ても、記憶の中に思い当たる顔がなかった。遊んだり、話したりした記憶は朧げに残っているのだが、声や顔などは覚えていない。

 アーリは少し考えてから、ゆっくりと顔を振った。

「そうか……」バレントは顔を一瞬背け、言葉を選んで喋り出す。「……あのな、お前の父親はルークズ・オーソリティという組織に所属していたんだ。元々、街を仕切っていたれんちゅ……グループ、だな。名前はエレンボス・ニュクレスクといった」

「エレンボス……ニュクレスク……」

 戸惑うアーリを他所に、バレントは本棚から一冊の古ぼけた本を取り出し、少女に差し出した。

 元々は青色だったのだが、年季が入って紺色に近くなっている本の表紙には、「ハーゲンティ・マレフィキウム図鑑」と書かれ、その下にはエレンボス・ニュクレスク著と記載されている。

「これに覚えはあるな?」

「……この本を書いた人、なの? 私のお父さんが?」

「ああ、エレンボスが書いた本だ」バレントはもう一度、ゆっくり席に着き、座り直す。「……それと同時に、怪物を作り出した人物でもあるんだ」

「え……っと……」

 突然の突きつけられた事実にアーリの心は揺らぐ。訳が分からなかった。顔も声も覚えていない自分の父親が、そんな事をしていたのかと困惑した。

 嘘だと思ったが、バレントは嘘をつくのが苦手だ、顔も目もまっすぐアーリに向けている。

 街を襲う怪物が、自分の父によって生み出された物という事実。そして怪物のせいで、多くの人が死んだり、傷つけられたりしているという責任。それらが彼女の心をナイフのように刺してくるようだ。

「……なんで、教えて、くれなかったの?」

 怒りや悲しみ、困惑など、様々な感情が綯い交ぜになった質問をバレントに投げつける。そして、言葉とは裏腹に教えてくれないほうが良かったとも思った。

 バレントは自分の中に溜め込んでいた物を、吐き出すように喋り続ける。

「……その……黙っていて、悪かったな」バレントは決まり悪そうに、頭を掻き毟る。「だが、お前には一切責任がない、そして、決してあいつは悪い人間ではなかった。怪物を生み出すのは、エレンボス自身が望んだ事ではなかったんだ。自分がやってしまった事を後悔していた、死ぬ寸前までな。その証拠がその本だ、それを書く事によって自分の償いとしていたんだと、俺は思う」

 バレントはトントンと本の表紙を指で叩いた

「……そっか」アーリは視線を落とし、またある事を思いついてしまった。「ば、バレントは、お父さんを殺したの?」

 この質問は、正直聞かない方が良かったと、少女は言ってから思った。自分の父親代わりが、父親を殺したなんて、言いたい訳がない。


 しかし、バレントは首を横に振った。

「殺していない。アイツは俺に全てを喋った後……自分で命を絶ったんだ」バレントは淡々とした口調でそう言った。「そして、お前の父親は、オーソリティを裏切ってまで、もう一つの発明をした。それがお前の扱う能力だ」

「……そっか、この力はお父さんがくれたんだ」

「そうだ、アーリなら……アイツが変えてしまった世界を戻せるかもしれないと、そうでなくてもお前が苦難に立ち向かえるための力だと、全てをお前に託したんだ」

 アーリは右手を握り込む。未だに自分の手に残る縦一本の手術痕が、指の中に隠れていく。自分の手のひらが暖かい感覚を覚える。父親の温かみなのだろうか、とアーリはそう思った。


「そして、その力を恐れたルークズ・オーソリティに追われたお前を助けるために、メルラはお前を逃した。相当な覚悟を決めて出て行ったメルラは、それ以降街には戻って来ていない」

「そっか……お母さんもお父さんも、だからいないんだね……」

「別に今すぐ、全てを理解する必要もない。ただ、お前には知っておいて欲しかったんだ」

 バレントの口から語られた事実を、アーリは全て飲み込む事はできなかった。理解できない訳でもなく、嘘だとも思わなかった、バレントは嘘をつくのが苦手なのは知っていたからだ。

 急に叩きつけられた残酷なまでの真実は、ただただ強大で刺々しく、少女の幼い心に収めるには難しすぎた。

 しかし、全てを忘れてしまうにはあまりに責任が重たすぎた。

 

 その後、暫く部屋には、沈黙が流れた。重たすぎる沈黙だった。ずっしりと大柄な男に肩を抑え付けられているような、空気自体が重量を帯びていくような沈黙だ。

 アーリは布団を抱き、母の日記と父の図鑑を手の中に抱きかかえていた。

 泣きも、怒りもしない。ただじっと、二冊の本を見つめて、バレントの喋った内容を、頭の中で噛み砕いているようだ。

 バレントは居心地悪そうに部屋を見渡したり、自分の膝を指で撫でたりしている。

 

 窓の外に広がる夕方頃の森は、右半分を橙色に染められている。鳥類の鳴き声が夕暮れに木霊し、もの寂しげな旋律を奏でている。

 もうすぐ冬が訪れるのだろうか、鳥達はどこかへ飛んでいく。


 静寂を破るように、階下から元気な声が響いてくる。

「バレントさーん! アーリちゃーん! ごはんだよー!」

 ミリナの声だ。その声に気づくと同時に、部屋の外からは夕食のいい匂いが漂ってくる。

「アーリ、飯の時間だ」

「うん、先に行ってて」

「ああ」バレントはそう短く返事を返すと、立ち上がって静かに部屋を出て行った。


 一人残されたアーリは、ベッドの上に置かれた赤と青の本を机に起き、写真を手にって見つめた。


 どこか現実離れしている写真の中の出来事、自分の知らなかった両親の事、そして自分の類稀なる力。それら全てがバレントの話によって繋がったのだ。


 複雑な話だが知れてよかった、少女はそう思い、部屋を出て行った。

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