第16話

「待て! アーリ!」

「アーリちゃん!」

 信念に突き動かされ走り出したアーリの後ろから、ループとミリナの引き止める声が聞こえるが、彼らの声はすでに遠くなっていた。

 そんなことで少女の足は止まらない。葛藤すら生まれない。

 

 薄闇の中でも、少女の目は標的を捉えていた。先程まで自分達が追いかけて来ていたと思っていた怪物だったが、それは一直線に関所に向かっていた。

「や、やっぱりだ……」

 

 アーリは足を早めた。張り出した枝葉が顔を傷つけても、倒木に足を蹴つまずいても彼女は走った。

 木々の切れ間から見えていた怪物が段々と大きく見えてくる。それは五メートルほどの全長を有していて、やはり四肢と頭部が機械のものになっていた。

 頭部から突き出した悪魔のような角。大木を一撃でなぎ倒すほどの力を有する腕。赤い二つの目。筋肉質で屈強な体を支える短くもしっかりとした脚部。蹄のような足先は地面をしっかりと握り込んでいる。体毛は短く焦げ茶色だ。


 強大な怪物を前に、アーリは考えなしに走り出した訳ではなかった。

「力を貸して! アックス・ペッカー!」


 彼女は右腕を斧に変え、怪物の直ぐ脇に生えていた木を切りつけた。斧を受け止めた大樹がメキメキと音を立てて、ゴリラと牛の特徴を持つ怪物に倒れていく。

 

「これで、止まるは——」

 

 頭部に倒れ込んできた太い樹木を怪物は軽々と片腕で受け止め、鉄の指でそれを意図も容易く砕く。バラバラと落ちていく樹木の欠けらは、秋の枯葉のようになんの抵抗もせず地面を覆い隠す。

 機械を纏う怪物は低い唸り声をあげ、足元にいる小さな生物を睨みつけた。鉄の拳を握り込み、邪魔しようとした物を排除しようと拳を地面もろとも殴りつけようと振り上げる。


 アーリの顔に先程までの勇敢な表情はない。眼前に近づいてくる巨大な拳にいつかの夢で見た光景が、少女の脳内でフラッシュバックする。

 

 足は動かない。先程まで少女を走らせていた正義感や信念は、圧倒的な力の前にどこかへ行ってしまったのだろうか。

 なぜだか、その巨大な怪物の腕の細部に至るまでがやけに目についた。指の関節一本一本を繋ぐ赤い筋肉繊維の様な物、樹皮を殴りつけた時に傷ついたであろう鉄の表面。腕と肩、機械と生き物の境目を繋ぐ管や留め具。


 拳が自分の目の前に突き出された時、少女は我に返った。


「し、シールド・ボア!」

 少女の右手が灰色のつやつやとしたドーム状の盾へと形を変えた。

 円盾のような額を持つことから名前を付けられたシールドボアは、雌を取り合う雄同士の争いでこの額の盾をぶつけ合うことで知られている。金属ではないのだが、突進で大木を砕くほどの強度と威力があった。


 しかし、少女に、彼女の右腕に、エイプロスの拳を止めるだけの力はなかった。鈍く重たい破砕音と空気を揺るがす衝撃に、アーリの体は後ろへ吹き飛ばされた。投げ捨てられた人形のように、彼女は空中で一回転する。

 地面を覆う苔が若干ながらのクッションになり、彼女の体を抱きとめた。しかし、地面に打ち付けられた衝撃と右腕に走る痛みは、彼女が気絶することすら許さない。


「……いっ、たい」

 彼女の右腕にあった盾は、水に浸したクラッカーのようにぼろぼろと崩れ落ち、破片を残すのみとなっている。黒く硬化した右腕には、メキメキとヒビが入っている。

 少女は自分の顔から血の気が引いていく冷たい感覚を覚えた。能力がここまで役に立たなかったのも、どうしようもできない無力感に苛まれたのも初めてのことであった。

 

 眼前にそびえ立つ山の様な怪物は、もう一方の拳を振り上げた。ギリギリと金属の擦れ合う鈍い音が、攻撃の予兆を知らしめている。

 アーリは次の手を考えることが、できなくなっていた。彼女の周りの暗闇の様な真っ黒な映像のみが浮かび上がる。

「……どうしよう」

 少女はそう呟くが、怪物が振り下ろした手を下ろすことはなかった。


 金属の拳が空を切る。

 圧倒的な脅威の前に、少女の生存本能がボロボロに砕けた右手を力なく持ち上げさせる。


 ……

 

 閉じかけた瞳の中に、眩い発火炎が飛び込んできた。


「おらぁ、デカブツ! こっちだ!」

 力強い女の声に、ライフルの発砲音が続く。怪物の目を狙ったであろう射撃は、眉間に当たって小さな爆発を生み出した。

「フレイム弾のお味はどう⁈」


 怪物は驚きと痛みで金切り声をあげる。地面に寝そべる少女から標的を変え、代わりに腰からランタンをぶら下げた褐色肌の女を威嚇する。


「ミリナさん!」

「はやく起きて!」

 呼びかけられても、ミリナは次の弾丸をポケットから取り出して、慣れた手つきで銃に込めている。


 アーリの前に白い狼が飛び出てきた。ループは咥えていた腕甲を少女の膝の上にぽとりと落とし、首からぶら下げたライフルを落とす。


「大丈夫か?」

「……ごめん、なさい」 

 少女の口から出たのは謝罪だった。自分勝手な行動に周りを付き合わせてしまった罪悪感が彼女の心を攻め立てる。

「謝ってる場合じゃない、あのデカブツをなんとか止めるぞ」

「……うん」

 厳しく淡々としたループであった。  

 アーリは立ち上がり、腕甲を付け、銃を手に取った。彼女がハッチを開くと、銃の中に込められた弾丸は黄色いクリスタルが埋め込まれたライトニング弾だった。


「街にアイツを入れない、だろ?」

「うん……絶対に!」

「じゃあ、やるぞ」


 ループは怪物の後ろに回り込むように右へ走っていった。

「まずは動きを止めろ! お前ならできるはずだ!」


 ミリナの射撃を受けている怪物に向けて、アーリは冷たい銃口を向ける。月の光を反射して、キラリと銃身が輝いた。少女の目が黄色い鷹の様な目に変わる。

「外せない……」

 銃を構える彼女は、自分の隣にバレントがいる気がした。そう思うと不思議と冷静になれる気がした。

 無骨なアイアンサイトが覗く先は怪物の体の中心、金属の装甲に覆われていない、心臓がある部分であった。   

「倒れるまで」

 体の七割以上が機械であったとて、怪物である以上多少なりとも血液は、そしてそこに電気が流れるはずだ。

「……目を閉じない」


 呼吸に合わせて揺れる銃身は、少女が息をフッと吐き出すとぴたりと動きを止めた。

 彼女は引き金を引く指に力を込める。

 

 パンッ、と乾いた発砲音が森に木霊し、発火炎が周囲を一瞬照らす。


 弾丸は怪物にめり込み、青白い稲妻を走らせ、怪物の全身の筋繊維を無理矢理に緊張させる。

 先程まで軽やかにその巨躯を動かしていたエイプロスは、動きを緩めた。痙攣に争う様になんとか体を操ろうとしている。だが、ミリナを殴ろうとして隣の木を殴ったのだ、体のコントロールが上手くいっていないことが一眼で分かる。


「ナイス、アーリちゃん!」

 動きを止めた隙に、ミリナは真紅の怪しい光を放つ左目を射抜く。着弾した弾丸は、機械の内部で爆発を生んだ。ガラスのように砕けた赤い目が怪物の鼻横を通って地面へ落ちていく。

「ありがとう! ミリナさん!」

 ループは慌てふためく怪物の脚に飛びかかる。剥き出しの管を爪が切り裂き、強固な顎が関節の赤い筋肉を引き千切る。

 管からは蒸気が吹き出し、切れた筋繊維はブラブラと重力によって垂れ下がっている。

 五メートル級の怪物は体重を支える要である関節の一部を破壊され、がくりと膝を付いた。地面が大きく揺れる。

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