第8話

 バレントが東の樹海に出発してから三日目の朝。まだ日が昇るか昇らないかほどの時間で、東の空は薄明るくなり始めた。

 街を囲む防御壁の上では、一人の兵士がそわそわともう一人に話しかける。

「な、なぁ? 今日で三日目だよな?」

「調査に出た狩人達のことか。それがどうした?」

「ああ、一日目の夜に焚き火の煙が見えたんだが……それ以外は特にないんだ。もしかしたらさ——」

「大丈夫だって、凄腕ハンター達が数十名チームを組んで行ったんだろ? ナーディオさんにその弟子のシン、クロノ、マーク、そしてあの凄腕のバレントまで。けろっとした顔で帰ってくるに決まってる」

「だ、だといいけどな」

 

 風がざわざわと耳障りの悪い音を立てているのみだった。



 その日の昼過ぎ頃、アーリはループと街に出て、戻ってくるバレント達を出迎える事にした。ロッドの店に荷物を預け、彼女達は五番街へ向かった。

 その日の五番街はいつものように商人や職人達の活気に溢れていた。アーリは東の空と、壁の上にいる警備兵達を見るが、彼らは普段と変わらない日常を送っている。


「バレントは何時に帰ってくるのかな?」

「わからんが帰ってきたら、匂いと蹄の音で私が分かる」 

「じゃあ、八番街に行こうよ。子供達と遊ぶの楽しいよ!」

「む、まぁいいが……」

 ループはしぶしぶといった感じで、無邪気にはしゃぐアーリの後ろへついていく。


「あ、お姉ちゃーん!」

 八番街の渡るなり、裏路地や公園で遊んでいた数名の子供達がアーリに気が付いて近寄ってくる。が、子供達は自分よりも三倍ほどある白狼に驚き、一瞬足を止めた。


「……あ」

 

 本来人間に怖がられる存在の怪物であるループは、ただでさえ街に来るのは好きではなかった。人間の言葉が喋れるからとて、好かれる訳ではない。子供になんて持ってのほかだ。

「やはりこうな——」

「おおかみさーん!」

 一人の子供がループに抱きついたのを皮切りに、子供達は全員ループとアーリを取り囲むように駆け寄ってきた。


「ちょっとま、まて」

 目の色の違う少女と人語を喋る狼。二人のはみ出し者たちは、ここでは受け入れてもらえるらしい。子供達はループの体を撫で回したり、背中に乗ろうとしたりと楽しそうな笑顔を浮かべている。



「あれって……悪魔の……」

「そうよ、怪物なんか連れて……子供達が心配だわ」

 勿論、全ての人間達が彼らを歓迎してくれるわけではない。子供達の親らしき人々は遠巻きにひそひそと話している。

 表情や目線の動きだけでも分かるが、人間の数倍以上の聴覚を持つループと狩人特有の研ぎ澄まされた感覚を持つアーリにはすぐそばで聞いているように聞こえてくる。


 気に掛けないように努力しても鋭く心無い言葉は、彼らの心を刃物のように抉る。


 居心地の悪そうに、だがそれを顔には出さないように子供達と戯れるアーリの横で、子供に乗っかられたままのループはそれに気付いた。

「あまり気にするな。きっと彼らも東の樹海の件で、不安定になってるんだろう」

「う、うん。みんな心配してるんだよね。でも、バレント達が帰ってくるからきっと安心してくれるよね」


 兵士や狩人達の間に流れる緊張が三日間で市民にまで伝染している。凄腕ハンター数十名を必要とするほどの怪物。やっと安定してきた街での暮らしを脅かす未曾有の恐怖がすぐそばにいるかもしれないのだ。

 街の人々がアーリ達に以上に気が気ではないのは少女にも理解できた。



「あ、アーリ! 遊びに来たんだね!」

 茶色く可憐でいい匂いのする髪を靡かせて、一人の少女が子供達にもみくちゃにされるアーリ達に走り寄ってくる。髪を纏めるピンク色のリボンがトレードマークの少女レーラだ。


「レーラ!」

 アーリは子供達の輪から抜け出して、彼女に駆け寄って抱きつく。

 レーラの暖かいハグと石鹸の匂いがアーリを優しく包み込む。先ほど感じた心の棘を一本一本を抜き取ってくれるような温もりがレーラにはあった。


「久しぶりだね、バレントさんのお出迎え?」

「うん、今日戻ってくるはずなの! それまで遊ぼ?」

 アーリは抱きつかれて少し苦しがっているレーラから離れた。

「ごめんね、今日はこれからお勤めがあるんだ」

「お勤め?」

「うん、中央街セントラルでお祈りを捧げるの。神様に怪物を退けてくださいってね」

「そっか……また今度ね!」


 それから暫くアーリ達は子供達と遊んだり、他の街を見て回ったりしたが時間は刻一刻と過ぎていくのみで、夕方になってもバレント達が戻ってくることはなかった。


 五番街の喧騒が収まり始めても、アーリは道端にあるベンチから立ち上がろうとはしない。心配そうに東の空を見上げる彼女の目に映るのは、夕焼けで真っ赤に染まった綺麗な空であった。

「アーリ、今日はもう帰らないと暗くなってしまうぞ」

「で……でもバレントが……」

「きっと……夜遅くに戻ってくるんじゃないか? 今頃樹海を抜けて戻ってきているはずだ」

 苦し紛れの言葉だった。ループには調査に出たバレントのことなど分かるはずもない。口をついて出たのはアーリに心配をかけまいとした嘘だった。

 

「それに風邪を引いてしまったら、帰ってきたバレントも悲しむだろ? さあ、家にもど——」

 ループは耳に感じる蹄の音に口を噤んだ。

 ピクピクと耳を動かすのを見て、アーリはバレントが帰ってきたのだと思った。すぐそばにあった跳ね橋がゆっくりと下がっていく。


「帰ってきたんだ!」

「いや、待て」

 喜ぶアーリとは対照的にループは険しい表情を浮かべ、全身の毛を逆立てている。

「馬は一騎、それとは別の……」ループはその巨躯全身の鼻からしっぽまでに感覚を巡らせる。「何か向かってきている! 東だ! 跳ね橋から離れるぞアーリ!」


 ループの言葉通り、一番街の大型木工加工機が動くような音が壁の外から聞こえ、それは段々と近づいてくる。


 壁からは対怪物用砲の耳を劈く発砲音が鳴り始め、兵士達の怒鳴り声が聞こえる。

 五番街の住む市民達はその音で避難をするために家から飛び出して、中央街の方へ向かう。


 アーリはループの後を追って、跳ね橋から離れるために走った。後ろを振り返ると完全に降りかけた跳ね橋の奥に、オクトホースに跨った兵士が見えた。

 

 そしてその後ろにいる巨大な獅子のような怪物。

 橙色に染まる草原の中を駆けるその怪物の目は、真っ赤な炎のように爛々と輝いている。背中に並んだ爬虫類のような棘と長い尾。獅子の頭部と真っ白な長い牙。


「あ、あれはレオルプトル!」

 足を止めて振り返る。跳ね橋を渡ろうとしている兵士のすぐ後ろで、今にも壁の中に飛び込んできそうな怪物が見える。

 しかし、それはアーリが図鑑で見た図とは大きくかけ離れていた。体を構成する組織の半分ほど、主に四肢や頭部などが黒ずんだ鉄のような素材で形作られており、全ての怪物に共通する特徴の額に埋め込まれているはずのクリスタルも見当たらないのだ。


 混乱の中で避難する市民達の流れに逆らうように、武装した兵士達が駐屯していた中央街から出動してくる。

 それを先導するのは兵士長ジェネスだった。

「全兵士に告ぐ、市民の避難が優先だ! 五番街の住民を中央街へ誘導し、誰一人として負傷者を出すな! 機動部隊は俺に続き、怪物の撃退任務を遂行する」 

 

 アーリとループの横をジェネス率いる武装兵が駆け抜けていく。一陣の風が吹き抜けたように。

「アーリ、怪物のことはいい、あいつらに任せておけ! 今は自分達の安全が優先だ!」

 

 見た事もない怪物の出現と帰らぬ家族。彼女の中ではそれが全く関係の無い事ではないように思えた。


 怒りにも似た力強い感情が、アーリの心に流れ込み、強く支配する。


 悲鳴と蹄の音が混ざり合う街道の真ん中で、右腕に流れる電撃のような感覚が、彼女にこれ以上逃げるなと叫んでいる。


 アーリは家族といる時でさえ、自分だけが持つこの能力ちからがなんであるかを悩み続けてきた。もしかしたら自分は人間では無いのかもしれないとさえ、思い詰める事もあった。呪いであるか、祝福であるのかさえも分からない。

 

「ま、待てアーリ!」

 決意と迷いが入り乱れた表情で自身の右手を見つめる少女。ループにはこの少女が何を考えているのか、すぐにわかった。

 

 アーリは一歩前に踏み出したかと思うと、東の壁に向かって走り出していた。

 でも、この力は誰かを守る事には使える。

 少女の決意は固い。家族の言葉でさえ届かないほどに。

 

 機械の体を持つ怪物は人間の体よりも太い腕を壁の中に突っ込み、その鋭い爪で内側からそれを破壊しようとしている。ギリギリという壁を引っ掻く音が、逃げる市民や立ち向かう兵士達に恐怖を植えつける。


「撃て!」

 ジェネスの雄々しい号令で一斉に銃が放たれる。

 耳を劈く発砲音と視界を奪うほどのマズルフラッシュ。


 怪物はそれをものともせず、依然街を守る壁を破壊しようともがく。黒い部分は固い金属のような物質で出来ているらしく、打ち付けた鉛の弾はカンという虚しい音を立てて地面へ落ちていくのみだった。

 

 怪物は両腕を捩じ込むように壁の出入り口に突っ込み、外側から引っ張って破壊した。


 目前まで迫った脅威。

 兵士達は得体のしれない物と立ち向かう恐怖に恐れを抱き、ある者は逃走しようと後ろを向き、またある者は武器を落としてしまう。

 

「狼狽えるな! 市民を、街を守る盾であり槍の兵団が砕けてしまっては誰がこの街を守るのだ! 立て、立ち向かうのだ!」

 ジェネスは馬から飛び降りると、剣を抜き怪物に向かって走り出す。

 

 兵団長の勇敢な姿に、兵士達は再び銃を握った。


 怪物は単身で乗り込んできた男に、歪な生物では到底あり得ない奇妙な叫び声を浴びせる。

「憎き怪物め! 俺の前に立ったことを——」

「スレッジ・サーペント!」

 剣を振りかざすジェネスの横を金髪の少女が駆け抜ける。彼女の右手は鉄工所の職人達が振り下ろすハンマー——ではなく、鞭のように長く伸びる緑鱗りょくりんとその端に繋がれた巨大なごつごつとした岩のような鈍器になっていた。もっともらしい表現をすれば、フレイルが一番近いのだろうが、今の彼女の右腕はそんな人工的に設計された物ではない。


 アーリが右腕をぐんと振るうと、遠心力が鱗部分を伝って鈍器へと流れる。怪物に目掛けて薙ぎ払われたそれは、目に見えぬほどの速度で側面から顎を捉えた。

 

 怪物の頭は大きく揺れ、ガゴンという鉄工所でも滅多に聞かない鈍い音と地響きと共に怪物は体制を崩した。

 

 勇敢にも戦う少女の登場に驚くジェネスの横を白い何かが通り抜けたかと思うと、それは牙と爪をむき出しにして自分の二倍はあろうかという怪物の剥き出しの首元に飛び掛かった。爪と牙から染み出した緑色のどろりとした液体がレオルプトルの毛皮に、そして傷口の中へ染み込んでいく。

 

 怪物は抵抗しようと頭を振り回すが、白狼はさらに牙を食い込ませていくのみだった。


「ジェネスさん!」

「……助かった、後は任せろ」

 

 ジェネスは暴れる怪物の腕を蹴って飛び上がり、真紅の光を放つ目に剣を深く突き立てた。

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