乙女ゲームの攻略対象、の隣人。

お隣さん

「おはようございます」


 出勤前に自宅の玄関を出ると、ちょうど玄関の鍵を閉めていたお隣さんと出くわした。数年住んでいて初めてのことである。

 何度か遠目に見ることはあったが、挨拶をする距離ではなかった。


 彼の姿を近くで見て、気付いたことがある。

 スーツ姿に、童顔とぱっちりした瞳、スラッとした体躯の容姿には見覚えがあった。


(……藤見ふじみ泰士たいしじゃん)




 久良木くらき千芳ちよには前世の記憶があった。社畜として働いていたことや死の間際が思い出される。最後の記憶は、トラックが迫ってくる場面だった。


 千芳には前世でやりこんでいたゲームがあった。『学校の王子と幸せな夢を』というタイトルの乙女ゲームだ。

 現代日本が舞台の学園もので、エンディングはヒロインと攻略したキャラクターの将来が描かれている。幸せの夢、とは結ばれた二人の将来であると解釈できる。


『学校の王子と幸せな夢を』略してガクユメは、攻略対象が6人存在した。ヒロインと同じ様に学校の生徒が4人、教師が1人、外部の業者が1人という内訳だ。




 藤見は攻略対象のひとりである数学教師だった。


「おはようございます」


 人好きのする笑みを浮かべて接する隣人に、千芳もあいさつを返す。

 互いに出勤する時間のようで、同じエレベーターに乗り込むことになった。


 無言の二人を乗せ、エレベーターは静かに1階へ着き、扉が開く。


 マンションを出るときに軽くお辞儀をして、二人は別々の方向へ歩き出した。電車通勤の千芳は最寄りの駅に向かい、車通勤の藤見は隣接されている駐車場へ向かう。



 千芳は曲がり角の先まで歩き、藤見の気配が遠くなったところで一度足を止める。

 突然のことに驚き、心臓が早鐘を打っていた。


 鼓動を鎮めるために、胸に手を当て、深呼吸を2、3度繰り返す。

 冷静になって考えると、今までもこれからも付き合いと言えば、顔を合わせた際に挨拶をする程度だろう。

 今朝の挨拶も、ありふれた日常の一コマに過ぎない。



 藤見泰士と出会った数日後、仕事終わりのことであった。


(明日は休みだし、お酒飲みながらゲームのストーリー読もう)

 

 そう思いながら自分の部屋の玄関扉に手をかけるのと、隣の扉が開いたのはほぼ同じタイミングだった。

 家から出てきた藤見は目を見開いて少し驚いた後、にこやかな笑みを浮かべる。


「こんばんは」


「こんばんは」


「仕事帰りですか?」


「はい」


「お疲れ様です」


 労いの言葉をかけられ、「いえ」と会釈を返した。ドアノブにかけていた手を手前に引いたところで、「あの」と呼び止められる。

 何かあったのだろうかと振り向くと、彼は自身の頬を人差し指で撫で、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「もしよろしければ、ご一緒にどうですか?」


 ***


「何飲みます?」


「じゃあ、生で」


「はい。すみません、生を2つ」


 藤見の注文にカウンター越しの店員が「はい! 生2つ!」と声を上げた。


 場所は近所の居酒屋だ。客のほとんどは常連客なのか、店員と親しげに会話をしている。


「すみません。突然誘ってしまって」


「いえ。こちらこそ、誘っていただいてありがとうございます」


 仕事終わりの居酒屋って好きなんですよね、と伝えると藤見はホッと表情を緩めた。

 仕事終わりのお酒が好きなのは事実だし、誘ってくれたのは前世で拝んでいたイケメンだし。


 ゲームで見た時のスーツ姿とは違う、緩めの格好をしていた。セットしていない髪型も相まって、プライベートな雰囲気が増している。

 ガクユメでは26歳だったが、現在いくつなのだろうか。容姿に関して抱く印象は前世と似ているが、少し幼い印象を受けた。黒目がちな瞳と、童顔がそう思わせるのかもしれない。


「藤見さんておいくつですか?」


「僕ですか? 今年で26ですよ。この間誕生日だったんです」


「そうなんですか! おめでとうございます。同学年ですね」


「久良木さんも26ですか?」


「はい。再来月で26です」


 26歳ということは、ヒロインが学校にいるんだろうなぁ。

 そうか、私も26になるのか……。やめよう。現実から目をそらそうがそらすまいが恋人がいない事実は変わらない。私の求めるイケメンは画面と紙の向こう側にいる! ……別に寂しくないし。




「俺、高校で教師をしてるんです」


 飲み始めて数十分が経った頃、酔いが回ってきたのか顔を赤くして、机に突っ伏した藤見が話し始めた。目がとろんとしている。

 そんな様子を眺めながら、久良木は耳を傾けた。たいして親しくもない隣人を飲みに誘うくらいだ。よっぽど誰かに聞いてほしい愚痴でもあったのだろう。


「生徒たちから、たいちゃん先生って呼ばれていて。……あ、俺の下の名前、泰士たいしって言うんですけど」


 知ってます。


「親しまれていることはいいんです。いろいろ相談してくれたりもしますし。けど、威厳がないっていうか。同僚の先生方からは、『生徒に舐められているんです。しっかりしてください』って言われて。べつに、僕だって生徒がいけないことをしたらきちんと叱りますし、よっぽど礼儀がなってなきゃ注意しますよ…… うぅ~」


 教師ののお仕事事情には明るくないが、同じ社会人である。周囲の小言や有難いお説教がストレスになるところは共感する。



 その後も、藤見が泣き交じりにこぼす愚痴、というか一人反省会をただ聞いているうちに、彼はぱたりと眠ってしまった。


 千芳はそこそこお酒に強いこともあり、ほろ酔い程度だった。


「藤見さん、起きてください。帰りますよ」


「は~い」


 機嫌よさげに返事をするものの、机に突っ伏したまま上体を起こさない。

 先に会計を済ませて、再び藤見の肩を思い切り揺する。すると、のそっと顔を上げた伏見は、素早く立ち上がり店を出た。


 一人で先を行く藤見を追いかけるように、千芳も店の暖簾をくぐる。背後から「ありごとうがいましたー!」という店員たちの声が聞こえた。


 そのまま一人で歩いていくのかと思ったら、再び力が抜けたように、今度は千芳の肩に体を預けた。

 千芳は仕方ないなぁとため息を吐くと、彼を支えるようにして帰路に着く。成人男性から寄りかかられるのは重くて勘弁願いたいが、なにせ顔が良い。酔いの影響で可愛い言動も見られたのでプラマイゼロ、むしろプラスだ。




「藤見さん、お家に着きましたよ」


 目を覚ますようにと、少し声を張って伝えれば、藤見は「んー」とわずかに目を開けた。


「家でゆっくり休んでください」


 週末とはいえ、明日も仕事に行くのだろうか。千芳の教師に対するイメージは、給料の出ない休日出勤三昧のブラック勤務だ。同じ社会人として素直に尊敬する。


 藤見が自身の家の扉に手をかけたことを確認して、千芳も自身の家の扉に手をかけた。


「久良木さん」


 呼ばれて振り向くと、藤見は酔いのお陰か、上機嫌な笑みを浮かべていた。


「また一緒に飲んでください」


「はい、ぜひ。おやすみなさい」


「おやすみなさい」




 藤見と千芳。お隣さん同士、時折お酒を酌み交わすようになるのだが、それはもう少し先のお話である。




 ◇◇◇ fin. ◇◇◇

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