風歌姫─ハルピュイア─

灰崎千尋

第一話 邂逅

 今となっては昔のこと、「風歌かぜうたの谷」と呼ばれる大きな渓谷けいこくがあった。


 母の腕が子を包み込むように、高い峰に囲まれたそこには、いつも新しい風が吹き抜けて止むことがない。谷底を流れる清流が大地をたっぷりと潤して緑を育み、実り豊かな土地にはいつしか人が住み着くようになった。しかし川の水はしばしば天の気まぐれによって溢れ、人の住処すみかおかした。そこで人々は、この土地にありあまる動力、風を使って水を汲み上げることにした。しかして谷には風車ふうしゃが建ち並び、川の水位を管理する他、粉挽きや油絞り、砕石などにも使われた。

 春には花の種を運ぶ穏やかな風が、冬には雪を乱吹ふぶかせる冷たい風が。一日たりとも休まず風は吹いた。その風に乗って、時おり歌のようなものが聞こえることがある。谷に住むどの鳥にも似ていない、美しい羽根が町に落ちていることもあった。人々はいつしかこう信じるようになる──「この谷は天使様に守られている」と。




 或る日のこと、一人の若者が懸命に山を登っていた。彼の目当ては、山の高所にしか咲かない小さな花。その花を集めて作った花束が、彼にはどうしても必要だった。だから彼は、崖の淵にやっと見つけたその花へ、躊躇ためらいもなく手を伸ばした。

 ぷちり、と花を摘んだ感触と、ぐらり、と体の支えを失った感覚は、ほとんど同時だった。

 右手にはしっかりと花を握ったまま、若者の体は落ちていく。逆さまに見えた空はどこまでも青い。体に受ける風はこれまでの生涯の中で最も強く感じられ、「嗚呼、風になって僕は死ぬのだ」と彼は覚悟した。

 その刹那、彼の視界は大きな翼の影に遮られたかと思うと、強い横風にふわりと体が持ち上げられた。近づいていたはずの地面はゆっくりと遠ざかり、理由はわからないがとにかく助かったのだと若者は気づいた。その安堵感にこわばっていた体がゆるみ、いつの間にか意識も手放してしまっていた。




 やがて若者は、その耳朶じだをくすぐる歌声によって目を覚ました。


「空にも繋がれず 大地にも縛られない

 汝の名は風

 まわせ まわせ 命のめぐる輪を」


 若者がゆっくり目蓋を開くと、歌い手の姿が目に入った。

 それは彫像のように整った少女の顔をしていた。大きな瞳は透き通る青、薄桃色の唇がゆるやかに弧を描く。ゆったりと波打つ髪は金色こんじきに輝き、乳白色の肌をきらめかせる。その肌よりも白く柔らかな羽毛に包まれた乳房が、ふっくらと丸い。人ならば腕のあるはずの位置には折り畳まれた翼。その羽根は一見すれば純白であるが、虹を糸にして織り込んだかのように様々に色を変える。羽に覆われた股からは鱗の生えた鳥の足が伸び、その爪は大きく鋭い。

 若者の視線に気づいた彼女は歌うのを止め、二三度瞬いて、にっこりと微笑んだ。


「目覚めたのね 翼の無い子

 目覚めたのね 地の上に生きる子

 わたし あなたを見ていたの

 花摘むあなたを 見ていたの」


 その言葉はまるで歌のように響き、若者は陶然とうぜんとした。広げた翼がそっと彼の頬を撫で、思わず若者は「天使様」と呟いた。

 それを聞いた彼女は、ゆるりとかぶりを振る。


「いいえ いいえ

 わたしは 誰の使いでもない

 わたしは わたし

 わたしは 風

 かつて呼ばれた名は 風歌姫ハルピュイア


「ハルピュイア」と若者が鸚鵡おうむ返しにその名を呼ぶと、彼女は嬉しそうにくるる、くるるぅ、と喉を鳴らした。


「ありがとう、ハルピュイア。あなたが助けてくれなかったら僕は……」


 若者はそこまで言ってはたと我に返り、自らの右手を見た。その手の中には一輪の白い花がある。握り込んだままの右手は固く強張こわばり、開こうとするのだがうまくいかない。もう片方の手で指を一本一本ほどいていってようやく血が通い、じんじんと痺れる手のひらに、小さな花が横たわった。


「良かった、花も無事みたいだ」


「山に咲く雪 地に生える雲

 それがそんなに欲しいなら

 わたしが摘んできてあげる

 あなたがまた 身投げしないように」


 風歌姫ハルピュイアがくすくす笑いながら飛び立とうとするのを、若者は慌てて止めた。


「いいんだ、一輪摘めたから。これは僕の手で摘まなきゃ意味がないんだ」


 若者の手に撫でられて、風歌姫ハルピュイアは素直にその翼を閉じたが、不思議そうに小さな花と若者の顔を交互に見つめた。若者は恥ずかしそうに頭を掻いて、その理由を告白することにした。


「僕は或るお嬢さんに恋をしているんだ。美しくて、賢くて、お優しくて、裕福で……なんでも持っているかたなんだ、僕と違ってね。なんにも持っていない僕が捧げられるのは、僕の心だけ。そう言ったらお嬢さんは、『峰雪草ミネユキソウの花束をちょうだい。そうしたらあなたの心が真実だと信じられるわ』とおっしゃった。だから僕は、僕の手で摘んだこの花を、お嬢さんに差し上げたいんだ」


 風歌姫ハルピュイアはそのとき、若者の話していることがよくわからなかった。翼のない人たちは不思議なことをするものだ。面倒なことが好きなのだろうか、だってこんなにきらきらした顔で話すのだから──そんなことを考えていた。

 彼女が小首を傾げながらじっと自分の顔を見ているのに気づいて、若者の顔はいっそう赤くなり、あたふたと立ち上がった。


「僕、そろそろ帰らなくちゃ。ええと、ここはどこなんだろう?」


 改めて若者が辺りを見回してみると、そこは彼が登っていた山の高台だった。開けた野原に柔らかな青草が伸び、若者が寝ころんでいた辺りには、風歌姫ハルピュイアのものだろう白い羽が折り重なって簡易な寝床になっている。

 少し歩を進めると、眼下に彼の住む谷が広がっていた。


「山にいだかれた谷の底 川の流れをべる町

 そこで良いなら 運んであげる

 わたしの風が 送ってあげる」


 風歌姫ハルピュイアがそう歌うと、若者を抱きしめるように風が渦を巻いた。服をはためかせ、右手には確かに峰雪草の花を持って、彼は風歌姫ハルピュイアの方へ振り向いた。


「ねぇハルピュイア、僕たち、また会えるだろうか? 君にお礼がしたいし、君のことをもっと知りたい」


 そう言われた風歌姫ハルピュイアはきょとんと目を丸くして、それから可笑おかしそうに体を震わせて笑った。


「風を縛ることはできない 風と約束はできない

 あなたを助けたのは 風の気まぐれ

 けれどもいつか 同じ風が

 この野に吹くこともあるでしょう」


 彼女は両の翼を広げて、そっと若者の目を覆った。ふんわりと白い羽根は、日の光に似た温かさと匂いがある。


「谷の底に住む子よ 目を閉じて

 その足が再び大地を踏みしめるまで

 峰を見上げる子よ 目を閉じて

 わたしの風があなたのそばを離れるまで」


 風歌姫ハルピュイアがそう歌うと、目を閉じた若者の体がゆっくりと宙に浮いた。彼を包む風は柔らかく、しかし決して外へ放り出したりしない堅牢さも持ち合わせていて、赤子をあやす揺り籠を若者に思い起こさせた。

 しばらくして、若者はその二本の足をしっかりと地に着けた。優しく彼を包み込んでいた風はあっという間に吹き去った。どれくらいのあいだ風に運ばれていたのだか、彼にはわからない。彼が静かに目を開くと、そこは谷で最も大きな風車『一番風車』の前だった。

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