風歌姫─ハルピュイア─
灰崎千尋
第一話 邂逅
今となっては昔のこと、「
母の腕が子を包み込むように、高い峰に囲まれたそこには、いつも新しい風が吹き抜けて止むことがない。谷底を流れる清流が大地をたっぷりと潤して緑を育み、実り豊かな土地にはいつしか人が住み着くようになった。しかし川の水はしばしば天の気まぐれによって溢れ、人の
春には花の種を運ぶ穏やかな風が、冬には雪を
或る日のこと、一人の若者が懸命に山を登っていた。彼の目当ては、山の高所にしか咲かない小さな花。その花を集めて作った花束が、彼にはどうしても必要だった。だから彼は、崖の淵にやっと見つけたその花へ、
ぷちり、と花を摘んだ感触と、ぐらり、と体の支えを失った感覚は、ほとんど同時だった。
右手にはしっかりと花を握ったまま、若者の体は落ちていく。逆さまに見えた空はどこまでも青い。体に受ける風はこれまでの生涯の中で最も強く感じられ、「嗚呼、風になって僕は死ぬのだ」と彼は覚悟した。
その刹那、彼の視界は大きな翼の影に遮られたかと思うと、強い横風にふわりと体が持ち上げられた。近づいていたはずの地面はゆっくりと遠ざかり、理由はわからないがとにかく助かったのだと若者は気づいた。その安堵感にこわばっていた体がゆるみ、いつの間にか意識も手放してしまっていた。
やがて若者は、その
「空にも繋がれず 大地にも縛られない
汝の名は風
まわせ まわせ 命のめぐる輪を」
若者がゆっくり目蓋を開くと、歌い手の姿が目に入った。
それは彫像のように整った少女の顔をしていた。大きな瞳は透き通る青、薄桃色の唇がゆるやかに弧を描く。ゆったりと波打つ髪は
若者の視線に気づいた彼女は歌うのを止め、二三度瞬いて、にっこりと微笑んだ。
「目覚めたのね 翼の無い子
目覚めたのね 地の上に生きる子
わたし あなたを見ていたの
花摘むあなたを 見ていたの」
その言葉はまるで歌のように響き、若者は
それを聞いた彼女は、ゆるりとかぶりを振る。
「いいえ いいえ
わたしは 誰の使いでもない
わたしは わたし
わたしは 風
かつて呼ばれた名は
「ハルピュイア」と若者が
「ありがとう、ハルピュイア。あなたが助けてくれなかったら僕は……」
若者はそこまで言ってはたと我に返り、自らの右手を見た。その手の中には一輪の白い花がある。握り込んだままの右手は固く
「良かった、花も無事みたいだ」
「山に咲く雪 地に生える雲
それがそんなに欲しいなら
わたしが摘んできてあげる
あなたがまた 身投げしないように」
「いいんだ、一輪摘めたから。これは僕の手で摘まなきゃ意味がないんだ」
若者の手に撫でられて、
「僕は或るお嬢さんに恋をしているんだ。美しくて、賢くて、お優しくて、裕福で……なんでも持っている
彼女が小首を傾げながらじっと自分の顔を見ているのに気づいて、若者の顔はいっそう赤くなり、あたふたと立ち上がった。
「僕、そろそろ帰らなくちゃ。ええと、ここはどこなんだろう?」
改めて若者が辺りを見回してみると、そこは彼が登っていた山の高台だった。開けた野原に柔らかな青草が伸び、若者が寝ころんでいた辺りには、
少し歩を進めると、眼下に彼の住む谷が広がっていた。
「山に
そこで良いなら 運んであげる
わたしの風が 送ってあげる」
「ねぇハルピュイア、僕たち、また会えるだろうか? 君にお礼がしたいし、君のことをもっと知りたい」
そう言われた
「風を縛ることはできない 風と約束はできない
あなたを助けたのは 風の気まぐれ
けれどもいつか 同じ風が
この野に吹くこともあるでしょう」
彼女は両の翼を広げて、そっと若者の目を覆った。ふんわりと白い羽根は、日の光に似た温かさと匂いがある。
「谷の底に住む子よ 目を閉じて
その足が再び大地を踏みしめるまで
峰を見上げる子よ 目を閉じて
わたしの風があなたのそばを離れるまで」
しばらくして、若者はその二本の足をしっかりと地に着けた。優しく彼を包み込んでいた風はあっという間に吹き去った。どれくらいのあいだ風に運ばれていたのだか、彼にはわからない。彼が静かに目を開くと、そこは谷で最も大きな風車『一番風車』の前だった。
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