アルカディア

関澤鉄兵

アルカディア

 後方からマラカスが飛んできて咄嗟に受け止めた。マラカスはあちらにもこちらにもある。全部で五個。そのマラカスが一斉に振られるものだから、バス内はかなりやかましい。マラカスを持っていない人も手や座席の裏側を叩き、歌っている。僕も一緒に歌いながら思う。これこそアルカディアだ!

 僕はこの日音楽フェスティバルのために、リーズというイングランド北部の都市に来ていた。お目当てはリバティーンズというロンドンのバンド。日本でも人気だったが、ギターボーカルのピーターの薬物問題により、六年前に解散してしまった。そのとき僕はまだ中学生だった。高校でリバティーンズを知ると、僕はピーターのインタビューが載っている雑誌を買い漁った。彼の一言一言に僕は痺れた。中でも僕が惹かれたのは「アルカディア(理想郷)」という言葉だ。バンドメンバーだけでなく、ファンも含めた大所帯で目指す楽園だというその場所を、僕は夢想し、何度もリバティーンズのライブ映像を観返しては、早く生まれなかったことを悔しがった。

 そんな僕に今年三月朗報が届いた。八月末に音楽フェスティバルでリバティーンズが再結成するというのだ。この機を逃せばもう見られない。来日はない(ピーターが入国できない)。僕はすぐにチケットと宿をおさえた。

 だが母も父も当初、初めての海外旅行で大学生がイギリスに行くのは危険だ、と旅行に反対した。僕がそれでも行くと強硬に主張し、結局は折れたが、それからも母は「水は必ずミネラルウォーターを買って飲むこと」「パスポートはウェストポーチにね」と、細々と注意してきた。空港で別れる時も、母は目に涙を溜めていた。僕は恥ずかしくて、保安検査場の列に並びながら前だけを見ていた。

 リバティーンズのライブは最高だった。何度も映像で観てきた通りだった。帰りはリーズ駅行きのバスに乗った。十列ある席の五列目窓側に座った。僕は疲れ切っていたので、日が沈み真っ暗な平原をぼーっと眺めていた。

 肩を叩かれてハッとした。左を向くと、白人の男がニッコリと笑っていた。肩幅は僕と同じほどだが、ガッチリしていた。鼻毛が異様に伸びて、上唇の上の髭と一体化していた。ボブっていうんだ、と男は手を差し出してきた。握手をして話してみると、彼もリバティーンズのファンだという。ライブの感想や好きな曲を言い合ってから、ボブは思い出したようにスコットランドから来たと言い、僕にどこから来たか訊いた。日本からだというと、ボブは急に興奮しだした。目を見開いて何時間かかったか訊き、僕が十八時間だと答えると立ち上がり、後ろを向いて叫んだ。

「〈十八時間かけてリバティーンズのために来たクレイジーな日本人がいるぞ!〉」

 すると「〈僕も同じくらいかけて香港から来た〉」と言って、後ろの席の男が立ち上がった。アジア系の顔立ちだ。すぐに「〈俺はメキシコからだ〉」という声がして後ろを見ると、通路を挟んで反対側、後ろから三列目の通路側に座った褐色の男が手を振っていた。またすぐに「〈イーストロンドンから来た〉」という声がしてそちらを向くと、最後尾中央に座った黒人の男だった。黒人が笑顔で「〈ここまで三時間だった〉」とつけ加えると、みんなからブーイングを浴びた。

 その後も数人が立ち上がり挨拶し、僕は後ろを向きニコニコしながら眺めていた。それが終わると、ボブが後ろに向かって叫んだ。

「〈リバティーンズを歌おうぜ!〉」

 すぐに最後尾に座った黒人が足踏みを始めた。周囲の人がティラティタティー……、と曲のイントロを口ずさみ始めると、黒人は自分の肩や胸や膝を叩いてリズムをとりだした。先ほどのメキシコ人が手荷物からマラカスを二つ取り出し、両手に持って振り出した。と思ったら、すぐに右手のマラカスを前方に投げた。メキシコ人はまた手荷物からマラカスを取り出し前方に投げた。マラカスは四つ投げられて、最後の一つを僕がキャッチした。肩を叩かれ左を向くと、香港人が右手をあげて笑っていた。眼鏡をかけていて真面目そうだ。僕はニッコリ笑いハイタッチした。

 マラカスがそこら中でシャカシャカ鳴り始めると、それまで静かに座っていた人も合唱に加わった。それでも、しばらくはバス後方だけ騒がしかったが、三曲目に移る頃にはバス前方にも飛び火した。曲はワンコーラスずつ歌われた。一曲終わったと思ったら、すぐに誰かがイントロを口ずさみ始めた。

 バス中が大合唱に包まれる頃には、通路側の席の人が何人も通路に立ち、歌ったり、座席上の荷物置きの縁を叩いたりしだした。ボブは通路を前に行ったり、後ろに行ったりして指揮者のように腕を振り回していた。香港人も後方に移動して、メキシコ人や黒人と肩を組んで歌っていた。大人しそうに見えて僕より積極的だ。みんな笑顔だ。僕は自席でその様子をにんまりと眺めながら、いつまでもこの時が続いて欲しいと願っていた。

 バスを降りると、先ほどまでと打って変わって静かで、急に寂しくなった。下を向いていると肩を組まれ、顔を上げるボブだった。

 駅に向かって歩き出してすぐ、ボブが立ち止まった。ボブは逆方向を指さした。いい店があるという。いい物があるとボブは言い、ポケットを探ると、小さなビニールの袋を取り出した。訳が分からず袋に顔を近づけると、中に白い粉が入っていた。顔を上げるとボブは笑っていた。急に視界がぼんやりとした。母の顔が浮かぶ。動悸がする。どうしよう。ボブは相変わらず笑顔だ。僕はどうすれば。

「〈ごめん〉」僕は嘘をついた。明日朝一番で日本に帰らなければいけないんだ、と。

 ボブは、オーケー、と言って、さっと僕に背中を向けた。その後ろ姿を見つめる。今すぐ走っていくべきだ。今なら間に合う。だが動けなかった。僕はボブの姿が見えなくなっても、しばらくその場にじっとしていた。

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アルカディア 関澤鉄兵 @SekizawaTeppei

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