嘘吐く人魚と僕は青−マーメイドスキャンダラス−

さに

青の記憶

 記憶のはじまりは、深い海のどこかにある、青い空間だった。辺りを見回すと、月の光が少し差し込んできていて、周りの様子がギリギリ見えた。ここは…海底洞窟?確かに海の中であるはずなのに、息が苦しくない。空気がある。後ろを振り返ると、入り口で水が止まっていた。

 周りはごつごつとした岩の壁に囲まれていて、さながら天然の洞窟といった感じだ。入り口のほうから青い光がほんのり差し込んできているため、入り口付近の様子が少し見えるだけで、奥のほうは暗闇になっていて、全く見えない。海の中だからか、空気が湿っていて、じめじめしている。しかし涼しく、そこそこ過ごしやすい。磯の香りというか、海水の匂いが辺りを満たしている。洞窟の奥のほうから、ぴちゃん、と水が滴る音が聞こえてきた。

 なんでこんなところにいるのかよく分からないが、もたもたしている暇はない。僕の家は門限が厳しくて、十時には絶対に帰らないといけない。けど、さっき腕時計を見たら、すでに門限を破ってしまっていた。大変だ、早く帰らないと…

「ねえ」

誰もいないはずの洞窟の奥から、人の声が聞こえた。暗すぎるせいで、声のする方は何も見えない。誰がいるんだ。怖い。

「ねえってば」

怖いけど、答えないのも悪いような気がして、恐る恐る暗がりに声をかけてみる。

「どうしたの?」

「君は、どうしてここにいるの?」

どうしてって言われたって、気づいたらここにいたってだけなんだから、答えられることは何もない…はずなのに、僕は気がつくと、すらすらと話している。

「実は、僕にも良くわからないんだ。ただ、覚えているのは、海に潜って、魚と遊んでいたこと。それで、波にさらわれたのか、なんだか知らないけど、気がついたらこんなところにいたのさ。」

「ふうん」

 声色から判断して、相手は若い女の人のようだ。どんな人なのか気になるけれど、正直のんびり話をしている暇はない。早く帰らなきゃ。

「ところで、もうそろそろここを出てもいいかな。僕、早く帰らないといけないんだ。」

「ここがどこのなのかもよく分かってないのに、帰るつもりなの?」

「いやまあ、確かにそうなんだけど、もう十時過ぎだから…」

「『じゅうじすぎ』って何?」

今はそんなことどうでもいいんだよ!しかも、なんで十時過ぎが分からないんだ?

「え?えーっと…もう夜の十時を過ぎちゃったってこと。」

「『じゅうじ』って何?」

時間というものが分からないのか…?これじゃ埒が明かない。腕時計見せてみるか?それで満足してもらえるだろうか。

「うーん、そうだなぁ。もう少しこっちに来れる?」

「ん、いいよ。ちょっと待ってて」

ちゃぽん、と水の跳ねる音がした。ぺたぺた音を立てながら声の主がこちらに歩いてくる。

「来たよ。『じゅうじ』のこと、教えて。」

「えっと、これ見える?時計って言うんだ。これの針が、ほら、いま10よりも右にあるんだ。これが10より右に来てしまったら、僕は家に帰らないといけないんだ。わかっ…」

「ふうん、そっか。じゃあ早く帰らないとなんだね。」

 月明かりに照らされて、ようやく見えた声の主、その正体は人魚だった。白い肌と、肩まで伸びた美しい髪から滴る水滴が、月光できらきらと光っている。僕の方を見上げた瞳が美しすぎて、吸い込まれるように見つめてしまう。

「でもね、君には、帰ってもらうわけにはいかないの。」

「え?」

人魚が僕の耳元で囁く。

「●▲■◆…」

突如凄まじい耳鳴りがして、人魚の声がノイズにかき消される。

「えっ…そっ…それはどういう……ぐわっ…」

何を言っているのかはわからない。…この記憶の持ち主には、聞こえていたみたいだけれど。

 人魚が話を終えて、僕から距離を取るように離れる。途端に、目の前の景色が歪んで、足元がふらつく。激しい動悸がして、息が苦しくなる。

「ぐっ…があっ…かはっ……はぁ………」

暗がりの中で妖艶に笑う人魚が、滲んで見える。ここで気を失うわけにはいかないのに、あの言葉の意味を確かめないといけないのに、という気持ちが強く迫ってくる。この人のことを、僕は知っているのかもしれない。忘れてはいけない誰かだった気がする。でも思い出せない。彼女は誰だ!忘れたくない、思い出したい…思い出したいのに……

 目の前から光がなくなっていく。もう、この目眩には抗えないみたいだ。

「おやすみ。」

その声を聞いたのを最後に、記憶は途絶えた。




『私のことなんて、何も覚えていないのね、カツミ…』

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