第8話 遺書
死神様が増えて行く。死神様が増えて行く。まだ増えるのだろうか。十瑠は布団の中で天井を見つめている。部屋の照明は点いていない。それでも十瑠の目には、天井の隅を蠢くモノたちが映っていた。
「十瑠お嬢様」
障子の外から戸女の声。一拍置いて障子が開くと、戸女の顔は逆光で見えない。廊下の貧弱な蛍光灯でも、十瑠の目には強い光なのだ。
「またこんな真っ暗な中で」
戸女は柱のリモコンで、シーリングライトを点灯させる。十瑠は眩しそうに文句を言った。
「暗い方が見える事もあるのに」
しかし戸女は意に介さない。
「お膳をお持ち致しました。さあさ、お召し上がりください」
布団の脇に置かれたのは、漆器の碗が二つと箸が乗った、漆塗りの膳。体を起こした十瑠の顔が暗くなる。
「たまにはピザとかハンバーグとか食べたい」
「小麦粉はアレルギーがございましょう。それにお肉を食べると、いつもお腹が痛くなるではありませんか」
「だからって毎日お粥とお吸い物じゃ倒れる」
「今日は山菜雑炊でございますよ」
「そういう事じゃなくて」
小さなため息をつくと、十瑠はまた天井を見上げた。
「ねえ、戸女さん」
「何でございますか」
戸女は膳に乗った碗の蓋を取っている。十瑠は蠢く毛玉を数えた。
「随分増えてるよ、死神様」
「おやめください、縁起でもない」
「だけど」
「気のせいでございますよ。ささ、お食事をなさってください。そして食べたら、すぐお休みください」
「食べてすぐ寝たら牛になるのに」
十瑠は不満げな顔で箸を手に取った。
市警では数坂修平を中心とした刑事たちが、祈部三太郎の部屋から押収したPCを囲んで頭をひねっていた。液晶ディスプレイに映し出されるメモ帳の遺書。投機の失敗、会社の資金流用や横領についてなどが書き連ねられた最後、延々と改行の空白が並んだ果てに、こう書かれていた。
――探偵に殺される
これをどう理解すべきなのだろう。現場にいた探偵、鍵と言ったか、あの男に殺される危険性を感じ取って、慌てて書き加えたのだろうか。三太郎を殺した鍵は、この事に気付かなかったのかも知れない。
いや、やはり何かおかしい。
確かに自分たちが現場に到着したとき、メモ帳のカーソル位置は文章頭にあった。つまりずっと下までスクロールしなければ、画面の外にあった末尾に何が書かれてあるかは見えない。最後に書き加えられた一言に、犯人が気付かなかった可能性はなくはない。
だが、それなら最後以外の文章は何だ。最後の一言以外の部分は、いわば「普通の遺書」の文面になっている。これは誰が書いたのだ。犯人が自殺を偽装するために書いたのなら筋は通る。ただ、それでは最後の一文は誰が書いたのか。
もしこの文面を三太郎が書いたのであれば、三太郎は自殺を考えていた、もしくはそれを装う必要性に迫られていたはずだ。なのに最後にそれをひっくり返し、自分を殺す犯人を指し示している。支離滅裂と言って良い。何らかの精神的な問題を抱えていたのではないかとすら思える。
三太郎は凶器を突きつけられて、遺書を書くよう脅されていたのではないか。そして犯人に言われた通りの文面を書いた後、隙を見て最後の一文を書いた。筋は通っているように思える。ただし、三太郎の死体には抵抗した痕跡が残っていない。暴れた跡も、逃げようとした跡も部屋にはなかった。この事実と矛盾するのではないか。
そこまで刑事たちの話が進んだとき、部屋の内線が鳴った。電話を取った若い刑事が、困惑した顔で数坂に内容を伝える。
「県警の捜査一課だと?」
数坂も戸惑った様子を見せた。
祈部六道は死んでいる。捜すまでもなく。霜松市松が私立探偵鍵蔵人に、規定の倍額の料金を提示して招き寄せたのも、それが故である。
六道を殺す前、「彼ら」は万が一の可能性を考えた。盗聴の類いが行われていないか、徹底的に調査したのだ。結果、マンションのコンセントに盗聴器が仕掛けられている事を知った。取り外すのは簡単である。だが元を絶たねば意味がない。「彼ら」の計画を知っている可能性があるからだ。
そこで「彼ら」は一計を案じた。一網打尽を狙おうと。あえて六道を殺す様子を聞かせれば、きっと盗聴相手は動くだろう。その予想通り、相手、国田満夫は動いた。ただし、私立探偵を巻き込んで。
単純に考えれば、探偵も殺してしまえば話が早い。だが、いかに自殺に見せかけたところで、国田と探偵の死が連続すれば、どうしても疑う者が出て来る。ならばどうする。簡単だ。探偵は国田と無関係な別の事件に関わって死ねば良い。「彼ら」は霜松市松に相談を持ちかけた。
そんなタイミングに合わせたかのように、祈部豊楽が六道の行方を心配し始めた。行方を知っているくせにである。しかし、これは絶好の機会。そこで霜松市松は鍵蔵人を豊楽に推薦し、自ら依頼に出かけたのだった。
祈部六道は死んでいる。捜すまでもなく。霜松市松に対して祈部豊楽が、誰か六道を捜せる者に心当たりはないかとたずねたのも、それが故である。
六道が姿を消したその日の夜遅く、祈部邸の母屋の一番北側奥にある豊楽の寝室に、六道の死体が放り込まれた。首の後ろに彫刻刀を突き立てられた死体が。誰の仕業かはわからない。防犯カメラなど設置していないからだ。だが、これが豊楽に天啓を与えた。
老人は一計を案じ、一石二鳥を狙おうと計画した。この六道の死を利用すれば、三太郎を排除できるだろう。その目論見通り、三太郎殺害は成功した。犯人役の私立探偵も用意済みだ。
単純に考えれば、探偵が警察に捕まれば話は終わる。しかし、いかに探偵の事を遺書に書き加えたところで、証拠としては弱い。あまりこちらが動いては、かえって警察に疑われる可能性が出て来る。ならばどうする。簡単だ。探偵が「自殺」する方向に話を持って行けば良いのだ。
そんなタイミングに合わせたかのように、馬雲千香と八乃野いずるがやって来た。六道の死に対する解答がそこに見えた。しかし、これは間が悪い。そこで祈部豊楽は次の手を考えているのだが、まだそれを思いつけずにいた。
「では、また後ほど食器を取りに参りますので」
十瑠の部屋から出て障子を閉めると、京川戸女は静かに立ち上がった。その顔が、不意に振り返る。
屋敷の東側の廊下。人の影は見えない。だが、気配を感じた。こちらを見つめる暗い気配を。気のせいだろうか。いや、それが誰の気配であるか察しはついている。
誰かに話すべきなのだろうか。しかし、誰に話せば良いのだろう、こんな狂った事を。
祈部の家に奉公に上がってから、もう六十年近くになる。その間にイロイロな事を体験し、イロイロなものを見てきた。本当にイロイロなものを。けれど、いまのこの状況は、とりわけ異常であると言える。
こんな事はあってはならない。何としても十瑠だけは守らねばならない。祈部の家のために、この身に代えても。
とは言え、いまなすべき事が何なのか、皆目見当もつかない。戸女は途方に暮れながら、足音を消して十瑠の部屋から離れた。
窓のない部屋。室温は年中ずっと二十度で一定。祈部四界の趣味は、洋酒のコレクション。部屋には三方に棚が据え付けられ、ぐるりと洋酒の瓶が並ぶ。メインはウイスキーとブランデー。ラム酒とウォッカも少しある。テキーラもある。ジンは先般飲んでしまった。ワインは好みではない。何が嫌だと言って、面倒臭いのだ。清酒といいワインといい、醸造酒は雑に保存すると簡単に風味が変わってしまうから。
無論、金にあかせてワインセラーを作るくらいは造作も無いが、そうなってはもう趣味とは呼べない。酒の奴隷である。気楽に簡単に継続できてこその趣味ではないか。四界はそう信じていた。なればこその蒸留酒である。とは言いながら、焼酎や泡盛はコレクションに入っていない。洋酒ではないという理由で。こだわりがあるようなないような、そんな中途半端を楽しんでいた。
そのとき、四界の部屋の扉がノックされた。来た。怖い物知らずの馬鹿が。
「開いてるぞ、入ってこい」
何が「私の知る限り、一番美味しいワインを持ってきたんです」だ。何が「一番美味しいブランデーと飲み比べてみませんか」だ。
わかっているぞ、どうせ何か企んでいるのだろう。その生意気な仮面を引っ剥がしてやる。そう考えながら待ち構えていたのだが、いつまで待ってもドアが開かない。何をしているのだ。
苛立った四界は自らドアに向かった。そして静かに開くと、外に向かって声をかける。
「おい、何をして……」
その瞬間、四界の身体は部屋から強引に引っ張り出され、そのまま隣室の開いたドアの中に引きずり込まれた。六道の防音室の中へ。
「数坂さん」
ささやくような小さな声。
「あの死体、何で仰け反ってたんでしょう」
女刑事は、両手を後頭部に回す。
「だって自分の首筋に千枚通しを刺したんですよ。普通なら、こう、背中が丸まりませんか」
鍵蔵人は、あのときの多登キラリを思い出していた。彼が三太郎の死体を見たときに感じた違和感の正体こそが、これだったのだ。
そんな鍵の顔を、横からのぞき込むのは笹桑ゆかり。
「何考えてるんすか」
「何だっていいでしょう」
「ズバリ、女っすね」
反応に困る。女の事を考えていたのは間違いないからだ。笹桑はそんな鍵を見て、己の額をパチンと打った。
「あちゃー、やっぱ女っすか。誰っすか。あの可愛い刑事さんすか」
心を読まれたような気がして、鍵の鼓動は少し早くなった。
「な、何でそんな事を」
「いやいや、わかるんすよ。鍵さんみたいな朴念仁タイプがロリコン方向に走るのも」
「あのね。よくそこまで失礼な事を」
「でも大丈夫、私は寛大っすから、イメージしただけで浮気とか言いませんから。許したげます」
「だから、何で許してもらわなきゃ」
「で、事件の事は何かわかりました?」
いきなり話が変わって、鍵は面食らう。この女と話すと、いつもこうだ。
「何の事件ですか」
仏頂面になる鍵に、笑顔の笹桑は当たり前のように言った。
「そりゃもちろん、祈部三太郎の自殺っすよ。興味あるんすよね?」
「ありません。あれは警察案件です。守備範囲外ですよ」
これには笹桑も意外な顔を見せる。
「あれ? もしかしてアレ、自殺じゃないんすか」
「ええ、殺人事件です。だから関わりません」
「でもでも、遺書だってあるっすよ」
「パソコンの中にね。つまりパソコンが使える人なら誰だって書ける訳です」
「じゃ、この家でパソコンが使える人が犯人すか」
「犯人が家の中にいるという確証はありません」
「じゃあ、外から犯人がやって来たって事……それ、考えにくくないすか」
確かに、鍵自身も外部の犯行には否定的だ。ことに衝動殺人や快楽殺人なら、その蓋然性は低い。だが怨恨に基づく計画的殺人ならば話は変わる。とは言え、これは警察案件である。探偵が首を突っ込む仕事ではない。
「可能性の話をし始めたら、キリがありませんよ」
そう、可能性だけを考えるのなら、ついさっきここに来た人間が犯人だという可能性だって、ない訳ではないのだ。
「初めまして。八乃野いずると言います。さっき来たばかりなんですけど」
鍵は、脳裏に八乃野いずるとの初対面を思い浮かべた。幸薄そうな雰囲気に、薄っぺらい笑顔。
「豊楽さんから聞きました。六道さんを捜しに来た探偵さんなんですよね」
いずるはそうたずねた。だが、その口ぶりから鍵は感じていた。彼は六道の行方にあまり興味がないのではないかと。
「どうですか、六道さんは見つかりそうですか」
根拠がある訳ではない。だがこの言葉にしても、熱意も何も感じなかった。なのに。
「ところで。三太郎さんの死について、どう思いますか」
このときには人間的な好奇心を向けられていると感じた。その感覚が正しければ、いずるは三太郎の死には興味があるのだ。何の差だろう。三太郎の死が自殺だろうと鍵が答えたとき、彼はこう言った。
「あなたもそう思うんですか」
この「意外だ」とでも言いたげな言葉は何だ。いったい三太郎の死の何が少年を惹き付けているのか。六道が嫌いだったとか、三太郎とは馬が合ったとか、そういう話なら簡単なのだが。
「また何か面白いお話があったら聞かせてくださいね、それじゃ」
それは上っ面だけの社交辞令。いずるは鍵の話など聞きたいとは思っていない。三太郎の死には興味があるのに、鍵の話には興味がない。何故だろう。それは真相を知っているから? それとも真相を自ら探りたいと考えているから?
やめよう。鍵は一つため息をついた。自分の依頼された仕事は六道の行方を捜す事だ。それ以外を考えても意味がない。それよりも。
――ここにはセクハラって言葉がないですから
どちらかと言えば、ななみのこの言葉の方が解答には近いかも知れない。明日にでも四界あたりを問い詰めてみようか。彼なら簡単に話すような気がする。
「まーた女の子の事を考えてるっすね。今度は誰っすか」
笹桑が、鍵の顔をのぞき込む。思わず視線をそらせた、そのとき。
「探偵さん、探偵さん!」
障子の向こうから聞こえたのは、ななみの声。慌てて引き開けると、パジャマ姿のななみが息を切らせている。
「四界さんが、四界さんが」
明るい時間帯なら、ななみの顔は蒼白に見えたろう。その様子から探偵は事態を察した。
「どこですか、部屋?」
ななみが震えながらうなずく。鍵は思わず走り出し、笹桑も慌てて飛び出した。
母屋から見て南側の離れ、二つの扉が並んでいる。手前の防音扉は六道の部屋、その奥の木製のドアが四界の部屋。そこは開け放たれ、ワイシャツ姿の霜松市松が前に立っていた。
「霜松さん」
駆け寄る鍵に、霜松市松は無言で落ち着いた顔を向けた。鍵が入り口から慎重に部屋の中をのぞき込むと、壁一面に洋酒の瓶が並んでいる。封を切っていない物と半分くらい減っている物が混在していた。その酒瓶たちに見守られる様に、ベッドの上には寝間着姿の四界が、うつ伏せで横たわる。首の後ろにアイスピックを刺して。
「死んでるんですか」
鍵の問いに、霜松市松はうなずく。
「おそらくは」
「自殺?」
「さあ、そこまではわかりません。ですが三太郎さんと同じ死に方ですし」
同じ死に方。果たしてそうなのだろうか。
「警察へは」
「私が連絡しました。じきに来るでしょう」
そこに、いくつもの足音が近付いて来る。先頭にはななみが、そして豊楽と戸女、九南が走る。その少し後ろには八乃野いずるが歩き、最後の背の高い女は写真で見て知っていた。馬雲千香だ。ジャージ姿の馬雲千香以外はみな寝間着。豊楽など、ボサボサの髪のままで駆けつけて来ている。
そのままの勢いで部屋に入ろうとした豊楽を、霜松市松が止めた。
「いけません、入っては……」
「黙れ!」
その憤怒の形相は、あの好々爺と同一人物とは思えないほどの鬼の顔。霜松市松が思わず後ずさり、祈部豊楽は四界の部屋に入った。ベッドに横たわる四界をしばし呆然と見つめ、静かに膝をついてつぶやく。
「おまえまでも、か」
その背中は、急に小さくなったように見えた。
夜の向こうから聞こえるサイレンの音。警察が到着したのだろう。できれば退散したいところだが、どうせ後で事情を聞かれる。ここにいた方が面倒がないか。鍵はそう考えて壁にもたれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます