警察案件――双頭の死神

柚緒駆

第1話 鍵という男

 私は人殺しだ。たぶん、おそらくは。そんな記憶はないし、そんな事実はどこにも存在しない。でもきっと、私は人を殺している。そのはずだ。


 妻は自殺した事になっている。遺書はなかったが、警察は状況からそう判断した。けれど私には納得できない。誰かが妻を追い詰め、背中を押したのではないか。その可能性は否定しきれない。ならば、その誰かとは誰だ。何の前兆も見せず、私に一切気取られる事なく、妻を追い詰め死に至らしめた者。そんな事が可能な者に、私は一人だけ心当たりがある。


 それは、他ならぬ私自身なのではないか。


 私は会社を辞め、なけなしの貯金をはたいて探偵事務所を開業した。確信があった訳ではない。けれど、ここにいれば何かがつかめるかも知れない。私が過去に起こした事件の痕跡を、未来に起こそうとする事件の切っ掛けを、見つける事ができるかも知れない。それは私に残された、唯一の生きる理由と言えた。




 四月の夜風はまだ冷たい。塾の帰り、少女は駅に向かっていた。今日は両親ともに仕事で都合がつかず、車の迎えはない。まあ、いつもの事だ。


 近道のために国道から商店街に入ると、そこは明かりが点いているだけのゴーストタウン。そもそも昼間でも半分くらいの店はシャッターが下りているのだ。この時間帯に人の気配などあるはずもない。十数年前、近隣にショッピングモールができて、商店街は寂れてしまった。そして、そのショッピングモールもすでに撤退している。残されたのは物静かな街の残骸。


 駅まで十分、電車は待ち時間を含めて三十分というところか。家に帰り着くまで一時間かからない程度。車ならもっと早いのにな、と思いながら、最近買った白いワイヤレスイヤホンを耳に入れ、スマホの音楽アプリを起動した。


 もう高校受験まで一年を切っている。時間がない、親は口を開けばそればかり。そんな事は十分にわかっているのに、誰より焦っているのは自分なのに、何でプレッシャーばかりかけてくるんだろう。


 腹の立つ事ばかり考えても仕方ない。少女は思い直した。そうだ、親のレベルに合わせる必要はないのだ。とにかく、いまは良い高校に進めるよう頑張ろう。ひとまず電車の中では、簡単に今日の授業の復習をしておこう。もう商店街の出口はすぐそこ、その向こうの駅舎の様子が見えている。少女の歩く速度が上がった、そのとき。


 後ろから少女の横を追い抜く黒い風。それが黒い商用バンだとわかったのは、急ブレーキの音と共にスライドドアが開いたとき。降りてくる黒尽くめが二人。ニヤけた口元、血走った目、その手に腕をつかまれ、少女はようやく状況を理解した。だが体が恐怖に動かない。悲鳴も上げられない。あっという間に少女はバンに連れ込まれてしまった。


 商店街の駅側出口には車止めがある。バンはスキル音を上げながら乱暴にUターンして、元来た方向に走り出した。だが。


 突然その目の前を、テールをスライドさせながら、白いセダンの側面が塞いだ。メーカーまではわからないが、古そうだ。バンはまた急ブレーキを踏み、クラクションを激しく鳴らした。しかし相手の車は動かない。セダンの運転席のドアがゆっくりと開き、降りて来たのはまだ若い、二十代後半くらいの、上品そうなストライプのスーツに赤いネクタイを締めた身綺麗な男。一見ひょろりとしているものの、その目には不似合いな鋭さがある。ゆっくりとした足取りで黒いバンに近寄ってきた。


「よう、元気だな」

「おい、どけ! この野郎、ぶっ殺すぞ!」


 バンの運転手が身を乗り出して怒鳴ると、男は不意に内ポケットから灰色の小瓶を取り出して、強く振った。スパイシーな香りの粉末が運転手の目にかかる。


「痛ってえっ!」


 顔を押さえ身を仰け反らせた運転手にさらに近付くと、男は蓋の開いた小瓶の匂いを嗅ぎ、何やら苦笑した。


「取引しないか」


 コショウの小瓶を運転手に見せびらかすと、男はニンマリ笑った。


「一人頭五万出せば、このまま見逃がしてやってもいいんだが」

「ふざけん……」


 その顔面に、小瓶を握った手が叩き付けられる鈍い音。


「がぁっ!」


 運転手はアゴを押さえてのたうち回る。


「ふざけてはいないんだけどな」


 男が面白そうにつぶやくと、バンのスライドドアが開き、黒尽くめが二人降りてくる。手にはナイフ。しかし、そこに聞こえるサイレンの音。


「ああ、言い忘れてたが、警察には通報してあるんでね」


 二人の黒尽くめは動揺し、躊躇し、逡巡し、けれど結果的に運転手を置いて逃げ出した。


「いまどき警察を怖がってくれて助かったよ」


 いささか呆れ顔の男は、運転手にニッと歯を見せた。相手は吸血鬼のように真っ赤な目で牙を剥いて、噛み付くかの如くにらみ返している。


「てめえ覚えてやが……ぎゃあっ!」

「学習しないね、おまえも」


 両目を押さえてのたうち回る運転手を横目に、男はコショウの小瓶を内ポケットに戻すと、後部座席に目をやった。少女は自分の体を抱きしめ、ガタガタと震え泣いている。


「あー、大変なとこ悪いんだけど、俺が君を助けたって事は警察に話してくれるかな。じゃないと、イロイロ面倒な事になるんでね……あれ、おーい、聞こえてるかな」


 しかし少女から返事はない。サイレンの音がうるさい。振り返れば、道を塞いだセダンのすぐ向こう側に赤い回転灯が見える。男は一つため息をついた。


 黒いバンが人の気配のない商店街に入って行く場面に偶然出くわして、興味本位で追いかけてみたら何の事はない、柄にもない白馬の王子様だ。まったく運がない。今朝の星座占いは、あまり良くなかったのかも知れないな。まあラッキーアイテムがコショウじゃなかった事だけは間違いないだろう。


 そして男は、星座占いで十二位だったかも知れない少女に向かってこう言った。


「俺の名前はジョウ・クロード。警察にはそう話せばいい」


 振り返ると、身構えた警官が二人、こちらに走ってくる。さて、話を聞いてくれればいいのだが。男はまた一つため息をついた。




――どっちなんだ、わかってるんだろう


 人は常に迷う。どちらを選び、どの道に進むべきか。


――わからないって言ったら?


 正解がわからず、悩み苦しむ。だから。


――殺してやる。おまえも、あいつらも


 五年前、僕の十二歳の誕生日。父さんと母さんは死んだ。警察が言うには、お互いの胸を包丁で突き刺して。でも僕は知っている。本当は二人が殺されたのだという事実を。その理由も何もかも。それはそうだ、何故なら僕が殺したのだから。




 早朝から気温の高かったその日、僕はアイツを尾行した。千香を脅迫する目的で家を出たと思っていたのだけれど、アイツは細身の若い男と、背の高いパンツスーツ姿のモデルみたいな女と合流し、三人で千香の家とはまったく別方向の、繁華街の裏通りに立っていた。誰かを待っているようだ。


 すると路肩に止めてあった赤い軽自動車の後ろに、グロリアだろうか、古そうな丸目の白いセダンが静かに停まった。降りてきたのはストライプのスーツに赤いネクタイで、身綺麗に見える二十代後半くらいの男。女が嬉しそうな声を上げる。


「鍵さーん、いーけないんだ、朝帰り」

「やめてくれませんか、笹桑さん。朝っぱらですよ」


 鍵と呼ばれた男は迷惑そうな顔でビルの入り口にまっすぐ向かう。笹桑という女はまとわりつくように追いかけた。


「ちょっと凄い事件のネタがあるっすよ」

「いや、別に凄い事件は要らないですから」


「ああん、もう待ってくださいよお」


 鍵と笹桑はガラス扉を押し開けてビルの中に消え、アイツと細身の男はしばらく顔を見合わせていたが、やがて後を追った。


 出てくるまで待とうかとも考えたけど、僕もそうヒマじゃない。薄汚れたガラス扉を押し開けて狭苦しい玄関ホールに入ると、郵便受けをざっと見回す。あった、四階だ。鍵探偵事務所。なるほどね、私立探偵か。でも現実の私立探偵にいったい何ができるんだろう。恐喝の片棒でも担ぐのかな。


 油断はしない。でも恐れもしない。何でもできる訳じゃないけど、何もできない訳でもない。準備を整えるんだ。そうすれば、きっと誰にも負けはしない。僕はビルの外に出た。四月の晴れ上がった空は、微笑んでいるように思えた。




 くにみつは三十八歳、電器屋に勤めている。電気屋ではない。電気設備や電気工事専門の会社ではなく、街中の店舗で冷蔵庫やテレビを売る、昔ながらの電器屋だ。もっともいま仕事の大半は、エアコンの取り付け工事なのだが。


「えーっ、国田さん、また来ないんですか」


 一回り以上年下の後輩が、不満げに口を尖らせた。


「あ、ああすまん、イロイロ用事があるんだ」

「そんな事言って、今年に入って一回も参加してないですよ」


 今夜は定例の飲み会だ。一応基本は全員参加なのだが、国田は参加を断った。店長が笑ってこう言う。


「まあそう言うな。国田にだって用事くらいあるんだろうさ」


 他の同僚もニタニタ笑う。


「あれか、やっぱりアニメとか」

「それっぽすぎて冗談にならねえなあ」


 国田は作り笑顔で沈黙している。他の連中は、さっさと飲み会に出かける準備を終わらせた。


「ほいじゃ、行くとしますか」

「おし、今日は飲むぞ」


「国田、事務所の鍵かけといてくれ」

「変な事件だけは起こすなよ」


 笑い声が事務所から出て行く。静まりかえった事務所の中で、国田はホッとため息をついた。


 家に帰り着いたのは八時半。誰もいないワンルームマンションで、小さなテーブルの上にコンビニ弁当を置くと、床に転がっているヘッドホンを装着した。


「ただいま」


 笑顔でそうつぶやきながら。


 ヘッドホンから聞こえてくるのは音楽ではない。映画やドラマの音声でもない。それは生活音。コンセントの内側に埋め込んだ盗聴器が拾う音。


 切っ掛けは偶然。壁のコンセントから火花が出たと、彼女が店に電話をかけてきたのだ。国田がマンションに赴いたところ、積もった埃が湿気を吸ってショートしたらしいとわかった。そこでコンセントを交換するとき、盗聴器付きのコンセントに取替えた。


 いま盗聴はスマホやPC経由が主流になっているものの、電波式は枯れた技術だけあって安定性が高い。問題は電波の到達距離が二百メートルほどしかないという点だが、これは簡単に解決できた。そう、電波の届く範囲内に自分が引っ越せば良い。


 馬雲まぐもは、いま二十五歳。プロのバイオリニストだ。その美しさに国田は一目惚れだった。だが毎日の生活音を聞き続ける事で、その恋は愛に変わった。マンションにいる時間は短いが、スケジュールはほぼ把握している。今日この時間、部屋にいる事は前もってわかっていたのだ。飲み会になど参加している場合ではない。千香と共に時間を過ごす方が、はるかに重要なのだから。それこそが国田の愛であった。


 しかし、この日はいつもと様子が違った。インターホンのチャイム音に続いて、突然聞こえた男の声。


「やあ今晩は。お久しぶり」


 他にも何か話していたようだが、声が小さくて聞き取れなかった。千香のマンションはオートロック式、そのままインターホンを切れば男は入って来れないはずだ。国田はそれを祈っていた。けれど、その祈りも虚しく男は部屋に入ってきた。千香が招き入れたのだ。僕の千香が! そんな! 国田は頭を掻きむしりながら、それでも聞くのをやめられなかった。心臓の鼓動は激しくなり、股間に血がたぎる。次に何が起きるのかを想像し、それを否定しながら期待していた。


 男と千香は小さな声で会話をした。まるで国田の盗聴に気付いてでもいるかのように。だが不意に男の声が大きくなる。


「ふざけるな、そんな話が通じるとでも」


 そこに聞こえたのは、足音か。


「な、何だおまえ、やめ、やめろ! ……ぐぁ」


 何か大きな物が倒れる音、そして静寂。いったい何が起こったんだ、国田が混乱していると、千香の声が耳元でささやいた。


「ねえ、聞こえてるんでしょう。助けてよ」




「……てな事があったのが、三日前だそうです」


 細身の男がペラペラ説明した。背の高い女、笹桑ゆかりが感心した顔で手を叩く。


「すごーい。尾上くん説明上手いんだ、プロになれるよ」


 何のプロだろう、と笹桑の隣に座るかぎ蔵人くらんどは思ったが、いちいち口には出さない。そもそも国田の身に起きた出来事を、何故尾上が説明するのかよくわからなかった。隣り合ってソファに座る二人は、年齢も一回り以上離れているように見える。いったいどんな関係だろう。そんな鍵の疑問を余所に、尾上は照れ臭そうに頭を掻いている。


「いやあ、それほどでも」

「それでそれで。続きをお願い」


 笹桑の合いの手に調子づいたのか、尾上は話の続きを始めた。


「助けてって言われた国田さんは、どうしようかと迷ったものの放ってもおけず、翌朝に馬雲千香さんのマンションを訪れたんです。で、インターホン越しに話をしたんですけど、どうも要領を得ない。挙げ句の果てには、警察を呼びますよと言われる始末。慌てて家に戻ったんですが、果たしてこのまま知らん顔をして良いのやら。もしかしたら馬雲千香さんは、とんでもない事件に巻き込まれているのかも知れない。だとしたら助けられるのは自分しかいないのでは。そう考えた国田さんが、僕に相談してきたのが昨日の事です」


「ほうほう、それからそれから」


「しかし相談を受けたのはいいが、僕とていったいどうしたものか、良い考えも浮かばない。少なくとも警察に頼れる話ではない。そこで知り合いの笹桑さんに相談したところ、頼りになる人がいるって言われて、ここに連れてきていただいた、という訳です」


「そう、そういう訳なんす」


 と笹桑は鍵に向き直った。


「鍵さん、どう思います」

「いや、別にどうも思いませんが」


 鍵はため息をつき、やや冷めたインスタントコーヒーを喉に流し込んだ。そして、いささか言い出しにくそうに国田を見つめる。


「国田さん、まずはお金の話になります。相談料は三万、調査料は五万プラス必要経費」

「え、金を取るのか」


 意外かつ不本意である、とその顔は告げていた。鍵は困ったような表情を浮かべる。


「一応これで生活しているものですから」


 嫌なら出て行け、とは言わない。言えない訳ではなかったが、面倒臭い事は御免だ。ならば下手に出た方が良かろうという判断である。いささか押し出しに欠ける、迫力のない探偵に、国田満夫は渋々うなずいた。


「わかった、払うよ。だから調べてくれないか」


 意外かつ不本意である、というのが鍵の正直なところ。だがもちろん顔には出さない。正式な依頼ともなれば、無下に断る訳にも行かないだろう。その程度の職業意識は鍵にもあった。


「一つだけ確認させてくれませんか」


 背中側にあるブックスタンドのクリアファイルから取り出した契約書を、目の前のテーブルに置きながら鍵はたずねた。


「さっきの説明、あれで全部なのでしょうか」

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