08. 第二階層とトクタイとどうしようもない未来

 ヒロトはハッとした顔で口を噤む。

「……何か、心当たりがありそうだな」

 リンは小さく呟いて、ヒナの言葉を待つ。

『では、話しますね。ヒロトくんのお父さんは、現在の職歴が空白ホワイトとして登録されています。でも、それは無職を表すものではない。そうですよね?』

「無職ではない? ヒナ、それは……」

『それはカードに登録できないような仕事をしている、という意味です。

 ヒロトの目線は一瞬、逡巡するように揺れる。しかし画面のヒナに目を合わせると、確かに首を縦に振った。

「……そうだよ。これは父さんから貰ったものだ。どうしても人生が辛くなったら、これを使えって」

「君のお父さんが、これを……」

『元々、ヒロト君のお父さんにはちゃんとした職歴があったようです。とある法人向け精密機器メーカーの工場勤務者名簿にIDを確認できました。でも一年前、突然会社を解雇されています。そう、ですよね?』

「……うん」

『それで家族を養うために、お父さんは持っていた技術を使って、仕方なく違法機器の販売業を始めた。IDカードの移動履歴に、への頻繁な移動が記録されていたんです』

「第二階層、か」

 テンプルム・タワーの中で二番目の延べ床面積を誇る第二階層は、『日本このくに最後の汚点』と称されるほどにあらゆる犯罪行為が跋扈する区域で知られている。表社会では出来ないような取引や違法な商品売買の温床として、居住区に暮らす人間からは忌避される存在だ。

『立ち入りこそ制限されていませんが、特に行く理由も見当たらないような場所に足しげく通っていることから推測できたんです。

 お父さんの名誉を傷つけるようなことを言ってしまって、ごめんなさい』

「……いえ、構いませんよ」

「待て、だがそれと退学に何の関係がある?」

 リンの問いかけに、ヒナは語気を強める。

『それが大アリなんです。ヒロトくんのお父さんは何度か警察に相談に訪れていた記録があります。名誉棄損の告訴状を提出するために』

「警察って、僕はそんなの聞いたことない!」

「名誉棄損? それは解雇に関する係争か?」

『いえ。実はそれが、息子さん——つまり、ヒロトくんに対する名誉棄損と侮辱の相談だったんです』

 リンは意味が分からないと言った顔で話に耳を傾ける。ヒロトも同様のようだ。

『ヒロトくん。例えば学校や予備校で誰かに陰口を言われたり、いじめを受けた経験はある?』

「あ、ありません、けど……多分」

『そうですか。けど、あなたのご両親にはあった。いわゆる、嫉妬による怨恨というやつです』

「嫉妬だと? いや、まさか」

 リンの頭の中に、嫌な予想が浮かぶ。

「……嘘だ。僕はそんなの知らない!」

 ヒロトは唾を飛ばして画面の向こうに反論する。

『それも当然です。ご両親はずっとその事実をひた隠しにしていたそうです。ヒロトくんの学業の障害にならないように』

「ヒナ、その嫌がらせっていうのは」

『無言電話、脅迫の手紙、落書き、いわれのない噂。すべて、ヒロト君の進学を邪魔するような内容だったそうです。そして、父親の不当解雇も、おそらく』

「だが、そんなことをして何の意味が……」

「上級市民だよ」

 ヒロトはぽつりと呟く。何かを悟ったように、その声は落ち着いていた。

「父さんはお金もないのに、僕を第九階層の学校に入れてくれようとした。だから僕は誰よりも努力して、その思いに応えようとしたんだ。でも、僕の周りの人間はそんな苦労なんて知らない、お金だけで入学できたような奴らなんだよ。僕は、そんなのだけには負けたくなかった……! 

『それで特待トクタイを勝ち取るまでに至ったはいいが、それが逆に周囲からの嫉妬を生むことになった……。

 最近の子供たちはみんな、このタワーから出るために血を吐いてでも勉強をし続ける。でも、一人の優等生のせいでその夢が叶わなくなると気付いたら、地位も金もある子供は黙ってないでしょうね』

「つまり父親が解雇されたのも、ろくに中身を確かめず持っていた機器を違法だと判断したのも、全て『上』からの圧力だったと言う事なのか……」

 有名な学校、予備校であるほど、在籍している生徒の肩書も有力企業の子息、令嬢が多くなる。その権力を少し翳すだけで、『低層』の市民の生活など簡単に簒奪できてしまうのかもしれない。

『嫌がらせについては一応警察でも捜査しているようですが、十中八九犯人の検挙はできないかと。仮に実行犯を押さえたとしても、それは本体の下請けの下請けの、さらに末端のような存在でしょう。で大元を引っ張り出すのは、ほぼ不可能です』

「だったら、僕はどうすればいいんだ。お金も地位もない家庭の子供だったら、僕はもう終わりなのか……」

 ヒロトにはあまりにも酷な話だっただろう。社会にも出ていない未成年ローティーンに覆しようのない社会構図を教えるなんて、すべきでなかったのかもしれない。リンの心に、些細な後悔が生まれた。

『ヒロトくん、それは違うわ。たとえお金が無くても、力が無くても、あなたという『存在』は他の誰も持っていない。地位や名誉を得ることだけが成功じゃないの。社会の大きな渦に逆らうのは難しいけれど、自分だけの泳ぎ方があるはずよ。人生っていうのは、その技術を死ぬまで探し続けることだから』

「そんなこと言われたって、もう僕には……」  

 言葉尻が萎み、今にも泣きそうなヒロトを前に、リンも何か言おうと口を開く。

 その時だった。


 けたたましいサイレンが鳴り響く。その音は、携帯端末の向こうから聞こえていた。

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