第3話 僕は子供部屋おじさん
100万貯まった。
29歳で100万。どうせ一般社会から見れば大した額ではないのだろうけれど、今まで演劇一辺倒だった僕にはものすごく頼もしい数字に見える。
10万円を10回も使える。10万使うことなんてそうそうないし、来月も給料は入る。
余裕だ。もとい、今までが危う過ぎた。貯金0円でどう生きていくつもりだったのか。一度の入院で借金生活に入るではないか。
100あれば、とりあえず、いいだろう。
僕はやっと一人前になった気がして、メッセージアプリを開いた。
「100万貯まりました」
返信は即座に返ってきた。
「くれ」
鬼嶋遊子さんは事務所時代の先輩で、彼氏がいる。僕は先輩のことが好きで、先輩はそれを知っている。
先輩にとって僕は、俗にいうキープだろうか。いや、それほどのものでもないだろう。
「あげません」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「10万でいいからくれ」
「あげません」
「じゃあ20万でいい」
「増えてますよ」
「100万か〜。やったねえ。さすが子供部屋おじさんだね」
文字を打つ手が一瞬止まり、「それもう死語ですよ」と返す。
実家住まいだから余裕をもって貯められたことは否定できない。
先輩が意味不明のスタンプを打ってきて、僕は「食費入れてます」と打つ。
「そらそうよ」
「子供部屋おじさんで何が悪いんですか」
「わるくないよ」
「何が悪いんですか」
「ごめんよつまんないこと言って」
僕が子供部屋おじさんだから付き合ってくれないんですか。
言おうとしてやめたけれど、言っても何も起こらないだろう。告白めいたことは今まで何度か言ってきている。
「もう奢ってあげませんからね」
「許してくれよ」
「許します」
「せんきゅ。で、いつ奢ってくれんの?」
「次の金曜どうですか?」
「おっけ」
先輩の彼氏は、僕のことをどう思っているのだろう。
いや、どうとも思っていないか。仲の良い後輩。それ以上でも以下でもない。
◆ ◆ ◆
その晩、風呂場の脱衣所で、僕は洗濯機にずらりと並んだボタンを眺めていた。
洗濯ってどうやるんだ。どのボタンを押せばいいんだろう。親には今さら聞けない。説明書はどこにしまってあるんだろう。
今脱いだ服も、下着も、僕は親に洗ってもらっている。
風呂場の戸を開く。風呂の入れ方はわかる。「自動」のボタンを押すだけだ。
「さすが子供部屋おじさんだね」
体を洗いながら、先輩に言われた言葉を何度も頭の中で繰り返す。
出る必然性がなかったから出なかった。それだけのことだ。親は役者としての活動を理解してくれていたし、立地も良かったから、一人暮らしを始めるメリットが見当たらなかった。
何も間違っていない。実家暮らしのほうが金が貯まる。事実、貯まった。
湯船に浸かって、大きく息をつく。
貯金っていくらあればいいんだ。100万が決して多くないのはわかる。じゃあ、200なのか? 300? ネットに聞けば、きっと「何やりたいか次第」と返ってくるだろう。そりゃそうだ。特に「子どもが何人欲しいか」で全然違う。
これだけ世話になりながら親には申し訳ないけれど、子どもは別に欲しいと思っていない。孫の顔を見せてあげたいという強い気持ちはない。
ただ、鬼嶋先輩なり、まだ見ぬ誰かなり、結婚相手が子供が欲しいと言えば、考えることになるだろう。子どもが嫌いというわけでもないのだ。
まぁ子どもに関してはそんな感じで、積極的な意志はない。じゃあ貯金って……
「違うんじゃないか?」
気がついて、思わずつぶやいた。
今、僕は、貯金がいくらあればいいかで悩んでいるのではない。子供部屋おじさんと言われて傷ついているだけだ。
実家で働いていれば金は貯まる。それは間違いなくて、今度も貯めていこうと考えた。では、一体いくらまで、何のために貯めるのか? 子供部屋おじさんで居続ける理由を探していたのだ。
……やめてしまえばいいのか?
そうだ! きっとそうに違いない。
出ることはできるのだ。何しろ100万ある。引っ越しや初期費用はそれなりにかかるだろうけれど、今の僕なら払える。
役者仲間は一人暮らしが多かった。夜の仕事をやっている奴が多数派だったけれど、普通に昼間の時給1000円少々のバイトで凌いでいる奴もいた。時給1000円で何とかなるなら、時給2000円のバイトにありつけている僕がやっていけないはずはない。
元々一人暮らしに興味はあった。100万貯まったのをきっかけに、実家を出る。いいではないか。そうしよう。
ザバッと湯船を出て、ガシガシと体を拭く。
こういう決断は勢いが大事だ。一晩おいたら絶対面倒くさくなる。
今晩中に両親に話そう。心配はされるだろうけれど反対はされまい。
シフトを増やしてもらえば月20万は稼げる。広い部屋に憧れはない。家賃5万、固定費諸々5万として、10万も残る。十分じゃないか。貯金はまた増やしていけるだろう。
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