観覧車

あべせい

観覧車


「相席、お願いできますか?」

「エッ、いいですよ」

 役所の最上階の11Fにあるレストランだ。午後1時を過ぎているが、店内は混雑している。天候がよければ富士山が望めることから、役所の職員だけでなく、役所に用事があって来た者も数多く利用している。

 おれは、2人掛け用の小さなテーブルを選んで腰掛けたが、カウンター席がないため、ひとり客には利用しづらい店ともいえる。相席は仕方ない。

「すいません」

 遠慮がちに向かいの椅子に腰を降ろしたのは、30代半ばの美形だ。人妻だろうが、離婚直前のおれは、いま人妻にはうんざりしている。結婚して5年、愛し合ったつもりでいた妻は、おれの不貞を理由に離婚を突きつけてきた。おれは、浮気はしていない。そのつもりはいつでもあるが、一線はまだ越えたことがない。麗菜とだって、つきあい始めて、まだひと月足らずだ。なのに、妻は……あいつのほうが……。もォいい、協議離婚で話し合いはついている。あとは、役所に届けを出すだけ。すでに別居して、3ヵ月になる。

 Aランチを食べ終え、コーヒーを飲んでいるおれの前で、女性はトレイに載せてきたスパゲティをゆっくり味わうように食べている。おれは、スマホをいじりながら、午後からのセールス地域を考える。

「こんなことをお聞きしていいのか、どうか……」

 ウムッ? おれは、スマホから目を転じて、目の前の女性を見た。おれに話し掛けているらしい。

 しかし、いきなり、「なんでしょうか?」はないだろう。相手は見ず知らずの他人だ。おれの聞き違いということもある。

「わたし、この役所は初めてなンですが……、生活相談にのってくださるところ、ってございますか?」

 女性は、こんどははっきりとおれの眼を見て言った。

「生活相談ですか……」

 なんのことだ? 経済的に苦しいということか。それなら役所は無理だ。本気で相手なンかしてくれない。税金の支払いを少しばかり遅らせてくれるのが、関の山だ。

「困った事が起きてしまって……」

 スパゲティをからめとる彼女のフォークが止まった。おれは、コーヒーカップをわざと音を立てて、カップの受け皿に置く。

「ぼくはセールスマンだから、売るのが専門。悩み事を買うのは、苦手です」

 ジョークのつもりで言ったのだが、彼女には通じないらしく、ニコリともしない。

「娘が帰って来ないンです。もう10日も……」

「エッ」

 誘拐なのか。なら、警察だッ!

「事件ですか……」

 そんなはずはない。こんなところで落ち着いていられるわけがない。

「いいえ、別れた夫が連れていってしまって。ごめんなさい。見ず知らずの方にこんなお話をして。わたしのことはもう解決したのですが、わたしと同じようなことで困っている方が、世間にはたくさんおられるのじゃないかと思いまして……」

 なんの話だ。おれとどういう関係がある。おれは、コーヒーカップを大きく傾け、最後の一口をノドに流し込んで立ち上がった。

「倉敷さん、でしょ?」

「は、はいッ……」

 おれは、突然、自分の名前を呼ばれ、立ったまま、穴があくほど、相手を見下ろした。

「一昨日、わたし、あなたとお会いしています」

 一昨日というと、新車の反応が鈍く、車検勧誘に切り換えて営業した日だ。歩いた地域は、この役所の西側、赤塚近辺だった。しかし、あのとき、こんな美女がいたか?……。

「お隣の登呂さんちの駐車場で、車体カバーをめくって覗いておられました」

 いやなところを見られた。しかし、車のセールスマンには、どうしても必要なことだ。うちの支店でも、そういう行為は、はしたないと言って、やらないヤツがいる。しかし、そういうヤツは成績が悪い。

「登呂さん、ですかッ」

 おれはハッとした。表札の「登呂」を見て、珍しい名前だと思ったから、記憶にある。車は国産の大衆車で、製造から15年もたっていたから、車検ではなくて新車を売り込もうと決め、インターホンを押した。しかし、反応がない。居留守を使っていても、窓の曇りガラス越しに人影の動く気配がしたり、レースのカーテンが揺れるものだ。それもない。

 で、電力メーターを見てやろうと、またもはしたないマネをするため、隣家との境に行ったときだ。隣家の玄関ドアが突然開いて、

「お留守ですよ」

 と、声がした。見ると、モスグリーンのスーツ姿の女性。そうだ、いまこの目の前の女性がそう言うと、すぐさまくるりと背を向けて足早に遠ざかって行った。おれと目は合っていない。だから、忘れていた。きれいな女性だという印象だけがあとに残った。

 おれは、登呂家を訪ねる前に、この女性の家にも、勿論セールスしている。しかし、その家の駐車場には軽の新車があったので、セールスは新車も車検もしばらくは無理だと思い、名刺だけ郵便受けに投函した。彼女はそのおれの名刺を手に取ったに違いない。

「倉敷さん、仕事で街を歩いておられますと、いろんなことに出くわされ、困り事の相談を持ちかけられるのじゃないかと思いまして、お話させていただければと……」

「はァ?……」

 よくわからない。この女性は何が言いたいのだ。

「わたし、この役所の表で、倉敷さんが中に入られるところをお見かけしたものですから、失礼かと思いましたが、あなたについてここまでやって来ました」

 エッ、じゃ、このテーブルに来たのもわざだと言うのか。そんなことはありえないッ。もし、もし、もしもだ。本当にそうだとしたら、この女の魂胆はナンなんダ!

 女性は、食べかけのスパゲティの皿を脇にやると、バッグから名刺入れを取り出し、その1枚をおれの目の前に置いた。おれの眼は、自然とそこに行く。と同時に、内ポケットから、自分の名刺を取り出す体勢になりながら、相手の名刺を読んでいる。サラリーマンの哀しい習性。

 彼女の名刺には、「心の友エンジェル会代表 津山りつ」とある。

「わたし、こういう仕事をさせていただいております。少しでも、みなさまのお役に立ちたいという思いから……」

「エンジェル会ですか?」

 おれはいつの間にか、椅子に再び腰をおろし、彼女の話を聞く体勢になっている。

「津山さん、ご存知でしょうが、ぼくは車のセールスマンです。心の問題は扱いません」

 なら、すぐに席を立って出ていけばいい。なのに、おれは、彼女の視線をまともに受けて、彼女の話相手になろうとしている。なぜ、だ?

 彼女が名刺に並べてA4の文書をテーブルに出した。

 そこには赤塚の隣街である成増近辺の住人の家族構成をはじめ、住まいの種別、趣味、在宅時間帯などがこと細かく記されている。おれも、セールスしながら、話ができた家については、そのとき掴んだ情報をB6サイズのノートに記している。おれにとっては、大切な営業7つ道具の一つだ。

 おれはようやく、彼女の狙いが読めた。しかし、そんなことはできない。犯罪と紙一重の行為だ。しかし、おれは彼女の次の言葉を待っている。

「倉敷さん、あなた、この文書は必要ありませんか?」

 彼女は、おれの眼をじっと見ている。おれは、無言でその文書を手に取り、ザッと目を通した。

「あなたも車の売り込みで、いろんな情報をお持ちだと思います。けれども、これほど詳しくはないでしょう。ですから、これを差し上げたい……」

 「但し、条件がある」というのだろう。しかし、そういうことをして警察の厄介になり、この業界を去った同僚を知っている。「個人情報の秘匿」という法律だ。

「お嬢さんか奥さんかは存知ませんが、津山さん、ぼくはそういう営業はしていません。セールスするご家庭の事情は知らないほうが、楽しい。予め情報があれば成績はあがるだろうけれど、やがて、情報がないとセールス出来ない人間になってしまう。なまけグセがついて、腕が落ちる、ってやつです」

 おれは心にも無いことを言っているのか。ふだん思ってもいないことを口にしている。どうしてだろう。美形を武器に、邪まなことを押しつけようとする、この女に腹が立ってきたのか。

「倉敷さん、わたしはあなたの情報を必要としています。わたしは、ある宗教団体の一員として、信者をふやそうとしています。エンジェル会は発展途上です。心の悩みをもつ人々をお救いしようという、高邁な思想を持つ組織です。それに協力して欲しいとお話しているだけです。わたしが望んでいることは、よくないことでしょうか?」

 津山りつは、おれの目の奥まで届くような強い視線で見つめる。「よくないことでしょうか?」ダッ? よくないッ、悪いことだ。美人だからと言って、許されることではない。

「あなたは赤塚、成増、和光周辺が担当エリア、とうかがっています」

 この女、おれのことを調べたらしい。美形に弱い同僚を捕まえ、しゃべらせたのだろうが、おれをアマく見ると、ケガをするゾ。

「わたしは赤塚を含め、都の西北部一帯を管轄しています。一件の情報に付き、千円差し上げます。悪い話ではないでしょう」

 おれがこれまで売った新車は、287台。その顧客以外に、成約まであとひと押しというCランクの顧客情報が約150件ある。合計すると、4百件余り。それを40万円で買い取るというのか。わけのわからない宗教を勧め、ありったけを寄付させようという魂胆なのだろうが、おれは、宗教は大嫌いだ。とりわけ、得体の知れない新興宗教は好きになれない。

「津山さん、私、もうすぐ顧客と会う約束があります。これで失礼します」

 おれはそう告げると、美形に多少の未練を感じながら、外に出た。

 娘が誘拐されたような話でおれをまず釣り上げ、次に顧客情報を寄越せと言う。バカにするのもいい加減にしろッ。

 役所の表でそう毒づいたが、ああいう美形にたぶらかされたい、という気持ちがふと起きた。しかし、1件千円は安過ぎる。1件1万円なら、おれは承知しただろうに……。なんだ、この心の変化は。


 5日後の火曜日。

 クルマ屋はだいたい水曜が休日になっている。おれは、明日窓口業務の麗奈とデートの約束がある。麗奈は今日急に熱が出たらしく病欠しているから、ちょっと気になっている。あとで電話をするつもりだが、帰社途中に打ったメールでは「明日は、絶対行くからネ」と返ってきたから、心配することはないのだろうが……。

 時刻は午後5時20分。おれが勤める矢花支店の駐車場に、どこかで見たような軽乗用車が留まっている。うちの支店の壁は3方がガラス張りだから、なかのようすは外からよく見える。

 おれは営業マンが使う支店脇の小汚い通用口に行こうとして、ハッとした。接客用ホールの丸テーブルに、あの女性がいたッ。津山りつダ。

 彼女の相手をしているのは、営業課長の呉。女性社員からセクハラおじサンと陰口をたたかれている独身男だ。独身といっても、女房が北海道旅行に行ったきり、半年たっても帰って来ない、とぼやいているトボけた40男だ。逃げられて別居状態なのに、それが正直に言えなくて、格好をつけているのだろうが、麗奈には用心させなくてはいけない。

 おれは、一瞬どうしようかと迷った。彼女のそばに行って、この前の話の続きをして、退社時刻まで時間をつぶすか、と。ところが、そのとき、彼女が接客ホールのドアをふと振り返り、そのドア前を通り過ぎるおれと、ガッチリ目が合った。

 驚いたことに、彼女はすぐにおれに向かって手を上げ、呉に何かを告げてから、おれを手招きする。

 仕方ないッ。ここで引き下がれば、課長に何を言われるか、わからない。時間つぶしダッ。

 おれは顧客用の自動ドアを通りぬけ、セールス鞄を下げたまま、彼女のいるテーブルに行った。

 まず、津山りつに対しては、笑顔をつくり、

「いらっしゃいませ」と言い、課長には無表情で、「ただいま、戻りました」と、腹の中で「このバカがッ」と言いながら、通常の挨拶をした。

「倉敷クン、こちらの奥さまに売り込みを掛けていたンだってね。知らなかったよ。しばらく訪ねてきてくれないから、とおっしゃって、きょうわざわざ来られたンだよ。私はこれまで、こちらの奥さまとは何度もお会いして事情は飲み込んでいるつもりだったけれど、キミの話は一切出なかったから。お客さまを大切にしてくれなきゃ、キミィ、困るよ」

「はッ、はァ……申し訳ありません」

 おれはそう言って頭を下げたまま、上目遣いに彼女の反応を窺った。すると、りつは、薄ら笑いを浮かべながら、呉に対して、

「課長さん、あとは倉敷さんと直接お話させていただきます。さきほどの件は、どうかよろしくお願いします」

「奥さまのご依頼ですから、この呉安治、万難を排して取り組みます。では、私はこれで。倉敷クン、津山さんをよろしく頼むよ。クレグレもね」

 呉は、社内で小バカにされている、相変わらずのおやじギャグを残して立ち去った。

「倉敷さん……」

 おれが無言のままでいると、数分後、りつはテーブルの上に手を伸ばし、呉が置いいったパンフレットを引き寄せた。それは我が社がいま最も力を入れているハイブリッド車のパンフだ。しかし、彼女の家の駐車場には、S社の真新しい軽乗用車があった。1年も経たないうちに、軽から普通車に乗り換えようというのか。ありえない。

 おれは彼女が手前に引き寄せたパンフを、上から平手で覆い隠すようにして押さえた。

「津山さん、ご用件は何ですか? ここは、テーブルとテーブルが離れていますから、よほどの大声を出さない限り、ほかの者に聞かれる恐れはありません。課長とどんな約束をなさったのかは知りませんが、あの男を信用してはいけません。仕事はできても、平気で部下を裏切ります」

「倉敷さん、わたし、この前お話しましたでしょ。信者の方を獲得しなければなりません。でも、そんな話はもうどうでもいいンです。信者獲得の件は課長サンにお預けしました。わたしは、あなたとお近付きになりたい。それだけできょう、ここにやってきました」

 りつは、潤んだような瞳を向ける。おれは、女性のこういう眼に弱い。

「ぼくは明日、用事があります。今夜なら、おつきあいしてもいい……」

 すると、りつはパンフを押さえているおれの右手の上に左手を重ねて、

「わたし、いいお店を知っています。1時間後に……」

 おれはだらしないヤツだ。そう自分を叱りながらも、すでに退社後の妄想を描いている。

 

 きょうは麗奈とデートの日だ。

 昨日の夜、津山りつは、店を指定しておきながら、約束の時刻を20分も過ぎてから電話をかけてきて、急な用事ができていけなくなったと言って、詫びた。妄想をぶち壊されたおれは、腹立ちまぎれに、呉がよくおれたち部下を連れて行く居酒屋に入り、カウンター席の端で、焼酎のお湯割りをがぶ飲みした。

「倉敷さん、ねッ、倉敷さん……」

 そっと肩をたたかれ、耳元で囁かれ、ハッとして目を覚ますと、店員の果菜ちゃんが、カウンターの上を片付けながら、

「寝ているのはかまわないけれど、課長さん、奥の個室でこそこそ妙なことしているわよ」

「エッ、呉課長がッ?」

 果菜は頷く。彼女は女子大の2年生で、真面目でよく働く娘だ。なぜか、倉敷にはよくしてくれる、というより、仕事で役立つ情報を寄越してくれることがある。だから、すぐにおれは課長の動きを偵察する必要を感じ、その個室に向かった。個室といっても、四方が壁で仕切られた完全個室ではない。三方は板壁だが、通路側はすだれで隠しているだけなので、中のようすが見え、声も聞こえる。

 おれは果菜に教えられた個室が斜め前方に見える、4人掛けの空いたテーブル席を見つけ、果菜に頼んでそこにおれのグラスやつまみの小皿を移してもらった。

 呉が相手をしているのは、斜め後ろ姿しか見えないスーツ姿の女性なのだが、予期した通り、それは間違いなく津山りつだった。

 第一、さきほど彼女がおれのスマホに掛けてきた電話が、おかしかった。

「ごめんなさいね。約束を忘れたわけじゃないのよ。しつこいひとがいて、今夜中に顧客情報を売りたい、って。倉敷さんが渋っている例の……、だから、わたしたちのデートはまたにしましょう。メールするから。ねェ、いいでしょ。いいわね……」

 その相手が呉だということは大体予測はできたが、2人がこんな手近な店で会っているとは、想像もしなかった。

 呉が顧客情報を売っているッ! これは明らかに背信行為だ。懲戒解雇につながる重大事案だ。呉はどうしてそんな愚かなことをするのか。そうか。顧客情報といっても、本物でなければ問題ない。ヤツのことだ。偽物を作成して、高値で売りつける魂胆なのだろう。

 しかし、津山りつは承知なのだろうか。情報の真偽を確かめる方法を持っているのか。

 酔いがすっかり醒めた頭で、おれは考えた。2人はいつからのつきあいだろうか、と。

 そういえば、麗菜がこんなことを言っていた。ひと月ほど前の金曜日。

「呉課長って、最近オカシイ。仕事でも家庭でも、効率を考えろ、って。柄にもないことを言っているの。効率、リツ、リツが大事なンだ。リツを大切にすべきだ、なンて、わけがわからないことを言うの」

 ダジャレの好きな呉は、津山りつに入れ込み、リツを連発したのだろう。そうだとすると、2人の仲はひと月以上前からということになる。おれと麗菜のつきあいと同じくらいか。

 2人の声が聞える。

「呉さん、それと資金援助を忘れないで。課長さんなンだから、それ相応のことをしていただかないと、わたしの立場がなくなります」

「それはわかっている。でも、その前に、ぼくたち……ぼくはいま男ヤモメでウジが涌いている。キミの力でウジを退治してもらって、それからゆっくりお金をウジるかな」

 いったい、何を話しているのか、おれにはさっぱりわからない。お金のやりとりがあるのはわかるが、それが何を目的にしているのか、見当がつかなかった……。

 よッ、麗菜が来た。約束の午前11時に、まだ10分もある。ここは、都内にある大規模遊園地の喫茶テラス。

「お天気になって、よかったわ」

「そうだな」

 麗菜はおれより6つ下。別れた、いや別れる女房に比べると、器量は少し落ちるが、笑顔がいい。いつ、どこで好きになったのか、忘れたが、性格がいい。

「こんなことしていて、奥さんのほう、平気なの?」

「離婚に響く、ってか? おれたちはまだ、不貞はしていない。それに、キミとつきあいだしたのは、女房に離婚を突きつけられた後だ。何の問題もない……」

 そのとき、ふと思った。妻はどうして離婚したいと言いだしたのか。おれたちは幸か不幸か、こどもに恵まれなかった。おれは強いて欲しいとは言っていない。しかし、妻はこどもを望んでいたのかも知れない。

「何に乗ろうか。ジュンちゃんの好きな観覧車からにしようか。天気がいいもの……」

 倉敷旬だから、「ジュンちゃん」だろうが、おれをジュンちゃんと呼ぶのは、世界中で麗菜だけだ。女房は、「あんた」としか、呼ばなかった。

 平日のせいか、比較的に園内は空いている。天気のよいきょうのような日は、富士山がよく見えると評判の観覧車だが、待ち人の行列は5、6人だけだ。

 ここの観覧車のゴンドラは、小ぶりの2人乗り。東西の方向に設置され、時計回りに回転するため、ゴンドラの右側の席、すなわち富士がある西向きに腰掛けると富士山が、正面に望める。だから、おれは、観覧車の南側にある乗降口から麗菜と一緒にゴントラに乗り込むと、いつもの通り富士が見える右側の席に腰かける。

 観覧車がゆっくり上昇を始めた。麗菜と膝が触れ合っている。中が狭いせいではない。おれが観覧車を好む楽しみの一つだ。妻とつきあっているときも、よくここに来た。麗菜も、いやがっているようすはない。

 麗菜が振り返って、黄色い声をあげる。

「ジュンちゃん、あれ、富士山でしょ!」

 西のビル群の間から、うっすらと富士山が望める。しかし、おれたちのゴンドラが最高地点に達したそのとき、おれの目は、直下の観覧車の乗降口に釘付けになった。

 別れた、いやまもなく離婚が成立する妻が男と一緒にゴンドラに乗ろうとしている。その男が……呉ダッ! 

 どういうことだ。すると、麗菜がおれの視線を不審に思ったのか、背後の富士から視線を下に転じた。

「あれ、課長じゃない? 女のひとと……。お盛んね、さすがと言いたいけれど、だれ、あの女性? ジュンちゃん、知っている?」

 知るものか、と言いたいところだが、そんな元気はない。衝撃が大きすぎて、適当な言葉が思いつかない。

「美人だけれど、化粧が濃すぎる。でも、どこかで会ったような……」

 麗菜は妻と会っていない。いや、おれは会わせなかった。

 妻と呉の乗ったゴンドラが上昇を始める。それに従って、おれたちのゴンドラは下降に転じた。

「ねえ、ジュンちゃん、こんな噂、知っている?」

「なんだ?……」

 このままだと、おれたちのゴンドラが中間の高さまで降りたとき、席の向きの関係で、富士を背にして東向きに腰掛けている妻と、西向きのおれがガシッと向き合ってしまう。おれは、妻に見られた場合と呉に見られた場合の、どちらが、被害が小さいかを考える。いや、それよりも……。

 麗菜が、話したがっている。

「噂よ。最近、課長がご機嫌でしょ」

「あァ……」

 おれは、生返事しか出来ない。

「それがね、人妻とつきあっているンだって。でも、その人妻って、ふつうの女性じゃないみたい……」

 まさか、おれの女房というのじゃないだろうなッ。おれは、麗菜の眼を見た。

「なんでも、いろんな男の人とつきあって、お金を借りまくっている美人だって。だから、課長は騙されている、って。みんなが言っている。この前も、うちのお店に来て、課長におねだりしていたわよ。噂では、課長はその女性に、もう50万円、注ぎ込んだそうよ」

 その女は、津山りつだ。すると、呉と妻のつきあいは、まだ始まったばかりということなのか。

「麗菜、こんどはキミに富士をゆっくり見て欲しい。ちょっと、席を替わろう」

 おれは、西向きの席から、東向き、すなわち上昇している妻と呉のゴンドラに、背中が向く位置に変わろうと決意した。しかし、ゴンドラ内での席の移動は固く禁じられている。

 乗降口に「観覧中の席の移動は厳禁」と表示があった。しかし、そんなことを言っていられない。

「麗菜、そうしよう」

 カンの鋭い麗菜は、おれの底意を見抜いたのか、

「そうね。ジュンちゃんは、ここでは誰にも会わないほうがいいわよね」

 おれたちは、体をうまくねじり、機械を操作している地上のスタッフの眼をかいくぐるようにして、互いに席を移動した。

 まもなく、妻と呉のゴンドラとおれたちのゴンドラが、一直線に並んだ。と、突然、ゴンドラが急停止!

 なんダッ? 何が起きたッ! おれは富士を背にしたまま、後ろを振り返った。呉と妻がゴンドラ内で、2人とも腰をおろしたばかりのようすだ。バカなッ。あの2人もゴンドラ内で、席を交替したらしい。すなわち、富士を背にして東向きに腰掛けていた妻が、富士の見える西向きに、呉が富士を背にする東向きに腰掛けている。このため、麗菜と課長の視線がガッチリぶつかってしまった。

 妻と呉も、おれたちの存在に、気がついていたのだ。

 と、地上のスタッフがメガホンを手に、おれたちのほうを見上げながら、何か叫んでいる。

「観覧中に席を移動されますと、ゴンドラが自動停止しますッ! 元にお戻りくださーいッ!」

 バカを言うな。せっかく、移動したンだ。もう一度、移動すれば、ゴンドラがもう一度自動停止するだろうがッ。

 そのことが地上スタッフにもわかったのか、ゴンドラは再び動き出す。そのとき、麗菜が、おれに顔を寄せ、ささやく。

「ジュンちゃん、いま思い出した。あの女性……、いいわよね。もォ、あんなひと……。でも、わたしは、課長にはもったいないと思うわ……」

                 (了)

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観覧車 あべせい @abesei

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