何者

 私は知らない。

 それを知らないことに恐れはない。知らなかったところで日常に問題が生じるわけでもない。

 それでも、

 それでも指先から溢れ出た彼等に疑問を投げずにはいられない。

「貴方は誰?」

「何処から来たの?」

 思えば知らない人ばかりだ。ある人は残虐さに塗れ、ある人は人生への諦念を口走る。そうかと思えば泣き喚き、銃を構え、一身に血を浴びる。

 その誰もに、私の面影は無い。


 私は知っている。

 “物書きは、知らない物を書けない生き物である”と言う人を。

 その通り、だとは思っている。想像するには下準備が必要で、空想は現実を足掛かりとして成立するものだろう。「全くもって現実離れした世界」を描くときであってすらも、現実が如何なるものかを知覚しなければそこから切り離すことが出来ないのだ。

 ……では、あの人達は? 私はあんな人間なのか?

 答えは半分がイエスで、半分がノーだろう。


 私は分っている、筈だ。

 私の延長線上に彼等がいる。

 私は人の心に残るのならば引っ掻き傷を付けたって構わない。私は人生に一定の諦めを持っているし、弱いし、それでも何時だってヒーローになる妄想に事欠かない。

 或いは私が必ず行き着かない先に彼等がいる。

 私は快楽殺人者ではなく、己の正義に忠実ではなく、また他人の人生を掻き乱すほど莫迦者でもない。愚かさのベクトルが違う。私はあくまで人畜無害な愚者である。


 彼等は何者なのだろう。

 それは私であって私ではない。他人という訳でもないが身内というには程遠い。彼等は私の手でしか動かないがしかし、彼等自身の思考で動いている。

 例えば私が苦難を与える。描くのは私だが、彼等は確かな思考を持って動き、それが言葉となって流れ出てゆく。そこに介在する意思は私に在るが私では無い。そもそも、私と彼等の間を明確に区切ろうとする行為がナンセンスなのだろうか。


 いずれ私が筆を置いた時に、彼等も死ぬのだろう。だがそんな彼等が今生きる私と違うとは思えない。私も、誰かの手引きで生き長らえて来たのだから。独りで生きられないのは彼等も私も同じだ。私はただ銘を与えられただけで、私という存在を遍く自然から切り離せない存在なのだから。

 か弱い私の脳内情景では、今も誰かが慟哭する。その衝動の鳴り止む頃に、彼等に対する問いの一応の答えが見つかれば良いのだが。尤も、知らずとも何も困りはしないのだから敢えて考える気も起こらないと言えばその通りである。

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