第7話
翌朝、何時の電車に乗るか、隆三は迷った。生徒と出会わないようにするためには普段より一時間早い電車に乗る必要がある。しかしそれでは早く着き過ぎる。駅で一時間をつぶすのは大変だ。集合時間との兼合いで言えば、普段乗る電車が最適だった。しかしさすがにそれは憚られる。変装もしていることだし、見破られることはあるまいと考え、隆三は結局、普段より一つ早い電車に乗ることにした。
平日であり、改札口やホームには登校する高校生の姿も多い。隆三は中折れ帽子を目深に被り、マスクをしていた。リュックサックをかるい、スティックを持っているので、登山に行くとすぐ分かる。隆三を見つけた生徒が教室で話題にし、それが教師に知れ、教頭に伝われば、法事で休むという嘘はバレてしまう。それを隆三は恐れた。バレても年休は権利だから、それを登山に使おうが何に使おうが勝手だということはできよう。しかし事由に嘘を書いていたことは正当化しにくいことだった。だが、登山と正直に書いて出せばどうなるだろうか。教頭は渋い顔をし、注意を受けたり、悪くすれば撤回を求められるかも知れない。そんなゴタゴタをさけるために、どうしても年休を取りたい時は冠婚葬祭を理由とすることになるのだ。だから年休は取りにくい。もう一つ、年休が取りにくい理由は、授業の振り替えをしなければならないことだ。大体日に四コマある授業が他の日に回されるので、休みの前後には一日に五コマ、悪くすれば六コマの日が出現することになる。それを厭う思いも年休を取ることへのブレーキとなった。
電車に乗り込んだ隆三は、顔を俯けて座席に座った。暫くして帽子の鍔の下から車内の様子を窺った。幸い車両には彼の学校の生徒の姿はなかった。列車がホームに停まり、乗客が入ってくるたびに隆三は顔を伏せた。そして頃合いを見て、それとなく車内に目を配った。生徒が一人乗り込んできた。その生徒の顔に隆三は見覚えはなかった。彼は感づかれないようにその生徒を注視したが、生徒は隆三に気づいた風はなかった。やむを得ぬこととは言え、こんなことに気をつかう自分を隆三は姑息に感じた。期待していたこの日がこんな風に始まるのを情けなくも思った。学校での種々の不快事を思い、教員という職業を厭わしく感じた。
降車駅のK駅に着いた。生徒たちもここで乗り換えだ。ホームに下りた隆三は下を向いて足早に階段を上り、北口に急いだ。彼は通路で自分を知っている生徒、あるいは出勤する同僚教員とばったり顔を合わせることを何より恐れた。恰好からして弁明の仕様がなかった。
北口に出ると、五十メートルほど離れた所に見覚えのあるマイクロバスが停まっているのが見えた。山の会がいつもチャーターするバスだ。マイクロバスの傍らに頭の剥げた大峰の姿が見えた。大峰は今回の山行のSL(サブリーダー)だった。彼の周囲に三、四人、会のメンバーがいた。隆三は久しぶりに会う大峰に挨拶することに緊張を覚えた。それはこうした場合彼がよく感じるもので、〈力を抜いて、自然に〉といつものように自分に言い聞かせながら近づいていった。側まで来ると隆三はマスクを外した。「お早うございます」と声をかけると、大峰は隆三を見て、大して表情も変えずに、「お早うございます」と返した。隆三は少し失望した。山行に年に数回しか参加しないからな、と彼は思った。しばらくバスの傍らで彼らは談笑したが、その間に参加者が一人、二人と集まってきた。隆三はマスクを外していたが、どこから見られているか分からないと思い、再びマスクを着けた。そしてマスクの理由を訊かれるのを厭ってマイクロバスに乗り込んだ。彼はバスの中でもしばらくはマスクをしていた。
山行の参加者二十名が揃ったところで、マイクロバスは予定通りの時刻に発車した。バスはまもなく都市高速道路に入った。しばらくして前の席から、参加者名簿、班編成、行程表、祖母・傾山系の二万五千分の一の地図、歌の栞などが入ったビニールケースが配られた。そして、チロリアンハットを被った、今回の山行のCL(チーフリーダー)である日下部がマイクを握って前に立った。
「皆さん、お早うございます。日下部です。よろしくお願いします。夏から秋にかけて台風が波状的にやってきて、山にもいろいろ影響を与えておりますが、ようやく台風もシーズンオフを迎えたようです。ただ気になるのは山がどれだけのダメージを受けているかということで、これは現地に行って調べてみなければ分かりません。それによって今回の山行も計画の変更があり得る事は、行程表に書いてある通りです」
日下部は淀みない口調で話し始めた。隆三は日下部と目が合ったので、しっかり聞いているという態度を示して彼の顔を見つめた。
「実は、私はこの夏、ニュージーランドに行ってきました。ニュージーランドは南半球にあるので、日本の夏は真冬なんです。皆さんご存知のように、ニュージーランドにはサザンアルプスと呼ばれる三千メートル級の山脈があります。最高峰はマウント・クック、現地名はアオラキですが、三七〇〇メートルあります。私は山登りに行ったわけではなく、仕事で行ったのですが、せっかくニュージーランドまで来たのだからと、滞在を一日延ばして、ヘリコプターで山と氷河の遊覧飛行をしました。素晴らしい眺めですよ。本物のアルプスに引けをとらない。あそこはスキーもヘリコプターで上に上がってやるんですよ。スキー道具は持っていかなかったから、私はスキーはしなかったけど。スキー道具のレンタルもしているようです。どの程度の道具がレンタルされているかは知りませんが」
日下部は続けて、ニュージーランドでは山頂を目指す登山よりも、「トランピング」という山歩きが盛んであり、そのコースもよく整備されていると、ニュージーランドの山事情を述べ始めた。確かに知っていて損はない知識だが、話し方に気取りが感じられ、隆三は聞き続けることに疲れを覚えた。
窓の外に目をやると、高速道路の高い側壁の切れ目から、朝日を浴びた市街と、その向うに足立山の山容が見えた。いよいよ楽しみにしていたウェストン祭登山行への出発だと隆三は思ったが、心に浮き立つものは感じなかった。謹慎している松山にチェックの電話を入れなければならないことが、隆三の気持ちの重しになっていた。旅の二日間、学校の事は何もかも忘れていたかったが、そうはいかないことが、彼の心を弾まないものにしていた。今晩、松山の家に電話するのは、早くても八時以降でなくてはならない。松山の夜間外出をチェックするには遅くなってから電話しなければ意味がない。松山の夜間外出は休日の前夜が多かった。明日は祭日だから今晩こそ要チェックの日だった。ところが今晩はウェストン祭の前夜祭がある。奉納の神楽が舞われ、竹筒の中で暖められた焼酎を生のまま飲む「カッポ酒」も振る舞われる。キャンプファイヤーも行われる。今回の山行の大きな楽しみの一つだ。それが存分に楽しめない。生徒の家に酔っ払って電話をするわけにいかないから、電話するまでは酒をセーブしていなければならない。しかも電話して、もしも松山が不在の場合はどうするかなど、落着かない不快な思いをしながら、夜が更けるのを待たなければならないのだ。そんな暗鬱な見通しが出発の時点から隆三の気持ちを沈ませていた。
前の座席から参加者の自己紹介が始まった。名前と住所だけを言ってすませる者は殆どおらず、自分の登山暦や好きな山、今回の山行への期待などをそれぞれが述べた。回ってきたマイクを握って立ち上がった隆三も、入会してから五年にもならぬ新参者で、登山の経験も乏しいが、皆に迷惑をかけないように頑張りたいと述べた。そして今回は何よりも祖母山に登りたくて参加したことを告げ、昨年もこのウェストン祭登山に参加したが、天候不良で計画変更となり、祖母山には登れなかったことを言い添えた。今回は是非とも祖母山登頂を成し遂げたいと思っていると述べて話を終えた。今回の山行のメインイベントである祖母山登山については当然ながら期待を述べる参加者が多かった。
途中、バスはコンビニに寄り、参加者は昼食の弁当を買い込んだ。缶ビールを買って飲む者もいるが、午後から二時間余りの山歩きが控えているので、その数は少ない。隆三も飲まないことにした。
地蔵峠の下までバスで行き、昼食を摂ってから登り始めた。地蔵峠は阿蘇の南外輪山にある峠で、眺望の良い場所であったが、雲が出ていて周辺の山しか見えなかった。地蔵峠から南の大矢岳、さらに大矢野岳までを往復するのが一日目の登山コースで、翌日の祖母山登山のための足慣らしのような行程だった。
一行はA 、Bの二班に分かれ、それぞれの班長にはCL、SLがなった。班長は班の先頭を歩いた。SLは三人おり、班長にならなかった二人はそれぞれの班の末尾を歩いた。
隆三はA班の中ごろを歩いた。隆三の前を平井と三木が並んで歩いていた。三木は五十代の女性だが、見た目にはそれより若く見えた。平井は七十七歳の、参加者の中で最年長の老人で、隆三が初めて見る人だった。といってもそれは山行への参加が少ない隆三にとってのことで、平井は他の参加者には馴染の人も多いようで、「伝さん、伝さん」とバスの中にいる時から何度も呼びかけられていた。伝吉という名だった。平井と三木はバスでも並んで座っていた。通路を挟んでいたが、隆三の席と同じ並びだったので、隆三は車中二人と話を交わしながら来たのだった。平井は気さくな人柄のようだった。隆三は三木とは既知の間柄だった。
大峰はSLとして今回も列の末尾を歩いていた。隆三が遅れて末尾に下がれば、その後ろに大峰が付いて、いつもと同じ位置関係になるのだった。隆三は過去に二度、下山の折に膝が痛くなって遅れ、大峰の世話になっていた。大峰はその登山歴の長さを示して、ズック製の旧式のザックを背負っていた。登山者が「カニ族」と呼ばれた三十年ほど前に流行ったものだ。
登山道は一人幅で、尾根に出たり、斜面に下りたりした。たいした高低もなく、楽なコースだった。楢や楓の林の中を行くと、時折、陽光に映える紅葉を下から見上げる光景に出くわした。
大矢野岳の山頂は、それを示す石柱が、登山道脇の林の中に見過ごしてしまいそうに立っていた。
二時間余りを費やす予定が、三十分ほど早く地蔵峠に戻り着きそうな状況となった。復路の途中の休憩で、今晩の交流会での演し物が話題となった。北九州の演し物としては炭坑節がいいだろうという話になり、時間もあるので練習することになった。一同は輪を作ったが、炭坑節の踊りの所作をきちんと知っている者は少ない。その時、「こうじゃないかね」と言って村岡が所作を始めた。チョチョンガチョンチョン、と口で拍子を取って彼女が踊り始めると、皆はその動きをまねて手足を動かした。しばらくそれで動いたが、「ちょっと順番が違うんじゃないの」と言ったのは森野だった。「ショウケで石炭を掬って、モッコを担いで、トロッコを押すという動作でしょう。モッコを担ぐ方が先じゃないの」と森野が言うと、「そうやったかね」と村岡は応じて、やり直した。
村岡と森野は共に五十代後半の女性で、会の中ではリーダーの部類に入る存在だった。隆三は村岡が班長の班に何度か属したが、彼女が先頭に立つと歩速はぐっと上がった。予定時間を三十分以上短縮してしまうのだ。マイペースで歩こうとする隆三は遅れて最後尾になってしまうことが多かった。「五分間休憩します」と叫ぶ村岡の声が前方から聞こえ、隆三がようやく休止地点に着いてザックを降ろし、給水しようとすると、「出発します」と号令する。行程表の時間通りに進めばいいのに、何のために急ぐのかと隆三は不満だった。所要時間を短縮することをリーダーの技量のように思っているのではないかと腹立たしかった。ある時、小休止の折、隆三はザックからバナナの干し物を出して食べたかったのだが、村岡が「出発します」の声を掛けそうなので、給水だけで我慢していたところ、案の定、「出発します」と村岡は号令し、それだけでなく、隆三に向かって笑みをうかべながら、「定免さん、遅れないように」と名指しで注意をした。まだ遅れてもいないのに何を言うか、と隆三は激しい怒りを覚えて言葉が出なかった。そんなことがあったので、隆三は村岡にはしっくり馴染めない思いがあったが、その脚力の強さは認めざるを得なかった。負けん気も人一倍のようだった。
踊りの伴奏として、SLの高島が輪の外に立ち、手を叩いて拍子を取りながら、炭坑節を唄った。山の中で炭坑節を踊るのも一興だと人々は笑い合った。
登山を終えると、一行は阿蘇の高森町に向かい、サウナ、スチームなど種々の風呂を備えた新築の温泉館で汗を流した。風呂上りに生ビールを飲みながら皆で寛いだ時、隆三はCLの日下部に、「明日は祖母山に登れますか」と尋ねた。日下部は湯とビールで紅潮した顔に上機嫌な笑いを浮かべ、「登れますよ」と躊躇いもなく答えた。日下部の隣に座っていた高島が、「向こうに着いたら私が現地を見に行きます」と言葉を添えた。計画変更の可能性が高いと内心考えていた隆三は、日下部の言葉を意外に思ったが、それが本当なら結構なことだった。いろいろ苦労して来た甲斐があったと思った。
ウェストン祭の前夜祭、そして式典が行われる高千穂町の五ヶ所高原に一行が着いたのは午後五時頃だった。宿泊場所になっている公民館に荷物を運び入れた。受け入れ準備をして迎えてくれる地元宮崎の山岳会のメンバー、二、三人が出迎えた。
荷物整理など一段落着くと、人々は式典が行われる三秀台まで三々五々散歩に出た。三秀台は祖母山、阿蘇五岳、九重連山の三秀峰を望見できる丘であり、祖母山登山の出発点でもあった。隆三は丘に立って、一年前の記憶を蘇らせた。昨年は灰色の雲の中に隠れていた祖母山や阿蘇五岳だが、今年はその姿を望み見る事ができた。祖母山にも登れるだろう。来た甲斐はあったのだと、隆三は自分を慰めるように思った。
ウェストンの碑がある台地まで丘を下って行った。会のメンバーの四、五人連れが隆三の前を歩いていた。その中に三木と平井の姿があった。この二人は今度の山行ではいつも一緒のようだった。一行の中で隆三が一番親しいのは大峰だが、どういうわけか今度の山行では彼は隆三の側に近づいて来なかった。何か自分との間に距離を置こうとしているように感じられて隆三は戸惑ったが、そうであれば隆三も強いて大峰に近づくことはしなかった。ここでも俺は一人だな、と隆三は思い、一人には慣れているが、と苦笑した。
ウェストンの碑は高さ九メートル近いコンクリートの柱で、二メートルほどの高さにウェストンの肖像のレリーフが嵌め込まれ、柱の頂には鐘が吊り下げられていた。鐘からは白いロープが垂れ、それを引いて鐘を鳴らした。昨年は碑の前にテントを張り、雨の中で式典が行われたことを隆三は思い出していた。
ウェストンはイギリスの牧師で、一八八八年(明治二十一年)に来日し、日本アルプスを踏破、これを世界に紹介した。日本山岳会の設立を勧めるなど日本の登山界の発展に貢献し、「日本近代登山の父」と称された。長野県の上高地に記念碑があり、そこで毎年、ウェストンを偲ぶ〈ウェストン祭〉が山開きの行事として行われるのだが、戦後になって、その日記から、明治二十三年十一月にウェストンが祖母山に登頂していることが判明し、この地でもウェストン祭が行われるようになったのだ。
前夜祭は三秀台から徒歩で二十分ほどの野菜集送センターで行われた。会場には周囲に特産品や食べ物を売る小店が出た。特設された舞台には祭壇が設けられ、神主が登場すると、「ご起立ください」のアナウンスが流れて人々は立ち上がった。隆三も飲んでいた缶ビールをテーブルに置いて立った。会場は静まり、神主の唱える低い祝詞の声が流れた。神事の間、人々は帽子を脱ぎ、神妙な表情で俯いている。神主は笏を上げ頭を下げる動作を繰り返した。玉串奉奠では高千穂町長以下二十人近くの名前が呼ばれた。参列者はそれぞれ自分が属する団体の代表者が奉奠する時に、代表者に合わせて拍手を打ち、拝礼をした。隆三たち登山関係者は、日本山嶽会宮崎支部長が奉奠する際にそうした。外国人の牧師を祭るのに、祝詞を上げ、玉串を捧げるのも奇妙なものだと隆三は思った。彼は空腹と疲労を覚えていた。これからの時間を飲食と歓談だけで過ごせるならどんなに良いだろうと彼は思った。周囲を見回すと、後方には椅子に座ったままの者が何人かいた。缶ビールを飲んでいる者もいた。隆三も口に渇きを覚え、座って缶ビールを飲もうかと思った。しかし、山の会のメンバーで座っている者はいないはずだった。短い時間なのだから、今はこの場の雰囲気に従っておればいいんだと思い直した。ウェストンと日本古来の神事との結合は宮崎という土地柄が然らしめたことだろう、と隆三は立ち続ける苦痛を紛らすように考えた。
神事は三十分余りで終った。隆三はほっと息を吐いて椅子に座った。そして飲みさしの缶ビールを一気に飲み干した。周りも一斉に賑やかになった。やがて舞台では奉納の神楽が始まった。隆三は酒の肴を買いに席を立った。会場の入口の周囲にはテント掛けの店が並び、地元の婦人たちがうどん、地鶏の炭火焼、田楽、おこわ、山菜御飯などを販売していた。中でも、大きくて厚い豆腐に黒味噌を塗り、串に刺して炉で焙る田楽は人気があり、行列が出来ていた。隆三は面倒とも思ったが、数が少なくて無くなりそうだと知って並ぶことにした。すると顔が少し赤くなった大峰が側に来て、「それ、うまいよ」と声を掛けてきた。「大人気ですね」と隆三が応じると、大峰は口の前でコップを傾ける手つきをして、「焼酎に合うよ」と言って笑った。隆三も「そうですか」と言って笑顔を返した。
大峰が気さくに話しかけてくれたことで、隆三の気持ちも少し楽になった。さぁ、今から楽しむぞ、と自分をけしかけるように思うのだが、謹慎中の松山にチェックの電話を入れなければならないという思いが、忽ち気持ちを萎ませてしまうのだった。
舞台では赤い布を頭に巻き付け、沖縄のエイサーのような装いをした若い男女が、腹に結わえ付けた太鼓を叩きながら踊り始めた。太鼓の強烈な音とリズム、気合いの入った掛け声が会場を圧した。先端を斜めに切った、長さ七十センチほどの青竹を両手で支え持った男たちが会場に入ってきて、これも青竹の一節を輪切りにした酒器に注いで回った。「カッポ酒」の振る舞いだ。竹筒の中には地元の焼酎が生のまま入っていて、焚き火で燗をしてあった。
アルコールが回って、いい気分になった人々は話に花を咲かせ始めた。大峰、日下部、そして九重で時々山岳ガイドのアルバイトをしている高島など、山登りのベテランを中心にして話の輪ができた。
「村岡さんたちの分水嶺踏査はかなり進んでいるようですね」
チロリアンハットの下の顔を赤くした日下部が言った。
「この前の日曜日には荒ケ峠から花尾山、犬ケ峠まで歩きましたよ」
村岡が得意気に応じた。
「いや、僕は会報にも書きましたが、女性パワーはすごいですね。このペースだと年明けには完了するんじゃないですか。森野さんの方もかなり進んでいるんでしょう」
「村岡さんのパワーには敵わないけど、順調に進んでますよ」
森野は村岡に笑いかけながら言った。
「村岡さんのBブロックで九十パーセント近く、森野さんのAブロックで六割強、七割近くが終ってますよね。女性リーダーはすごいですよ。それに比べて僕らはね」
そう言って、日下部は大峰の顔を見た。
「まぁ、いいじゃないですか、我々は我々のペースで行けば」
大峰は禿げ頭のてっぺんまで赤くなった顔を手でつるりと撫ぜて言った。
「一度、お供させてもらったけど、村岡さんのペースは少し早過ぎるよ。もう少し丹念に調べたり、観察をしなけりゃ、勉強にならない。僕はそう思うな」
高島が白髪頭を振りながら言った。高島は七十歳で、一行の中では平井に次ぐ年長だった。批判された村岡は笑顔のまま何も言わなかった。
「来年の三月末までが期限だから、僕らも年明けからはペースを上げるつもりではいますがね」
日下部はそう言って竹の酒器を傾けた。
北九州山友会は今年創立三十周年を迎え、記念事業として、会員の居住区域である山口、福岡両県内にある中央分水嶺の踏査を決めた。分水嶺は相接する河川の流域を分かつ山稜のことで、山岳の地勢を把握するには大切なポイントだった。踏査の中で地図の見方やコンパスの使い方、GPSの操作などを学ぶことも目的にしていた。全体を四ブロックに分け、それぞれのCLは、Aブロックが森野、Bが村岡、Cが大峰、Dが日下部だった。女性リーダーである村岡と森野は登山歴も技量も拮抗しており、何かと張り合う関係にあった。
新参で登山歴も浅い隆三は聞き役に回るほかない。大嶺や高島が九重連山だけで二百回近く登っていること、村岡が年間六十回ほど登山することなどを聞いて驚くばかりだった。隆三は、祖母・傾山系の地図を頭のなかに持っているように精密な高島の話にも圧倒された。六十歳を超えた人たちが多いメンバーの顔を眺めながら、隆三は定年後の自分にこの人たちのような元気さが残っているだろうかと思った。
「定免さん、奥さんも来ればよかったのにね」
と森野が隆三に声をかけた。
「奥さん、何か用事があったみたいね」
と村岡も言った。
「ええ、ちょっと日程的にまずくて」
隆三は曖昧に答えた。自分が来るより妻が来た方がこの人たちには面白かったのかも知れないなと隆三は思った。この会に入ったのは、妻の頼子が会のメンバーと別種の会合で知り合ったことがきっかけで、彼女が入会を決め、隆三もそれに伴って入ったという経緯だった。山友会の人々との連絡も妻の方が密であり、隆三は年に数回山行に参加するほかは日頃の接触はなかった。頼子は陶器やガラス器、布など手作り品を売る小店を開いており、その店の展示会が今回の山行の日程と重なって参加できなかったのだ。
隆三はたまにしかない機会であり、山に関する情報を得、メンバーとの親交も深めようと座に加わっていたが、謹慎している松山に電話を入れる時間が近づいていることが頭から消えず、落着かなかった。その不愉快さを消滅させるために、結果がどうであろうと今すぐにでも電話をしてしまいたかった。松山が不在であれば停学期間が延びるだけだと思った。時計を見ると七時を回ったところだった。夜間外出をチェックするにはやはり早過ぎる。隆三からの電話を受けた後、これで安心と松山が外出してしまうという想像が隆三を抑えていた。せめて八時過ぎまでは待たなければ、と隆三は思った。時間の経過の遅さに彼は苛立ちを覚えた。せっかく年休を取って出かけてきたのに、その最も楽しむべき時間に没入できない自分の性格と境遇に隆三は絶望的なものを感じた。あの時、何かに憑かれたように、遮二無二解除の申請をしようとした自分の気持ちの底には、こんな苦しみをなんとしても避けたいという思いがあったのではないかと、隆三は今にして思うのだった。
ベテランたちの話は、経験に乏しい隆三には、やはり具体的には分からないところがあった。それに皆の中に居れば、思わず酒量も増えて酔ってしまうという危惧もあった。彼は席を立って建物の外に出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます