第5話
隆三は松山の謹慎解除の申請を時田たちとは一緒にしないと頭から決めているわけではなかった。ただ、松山の状態を考えればやはり早すぎる気がした。彼は松山に反省文を書かせ、その内容によって判断しようと考えていた。そして反省文を土曜日のカウンセリングの時に持ってくるように指示していた。それを読んでからの判断なので職員朝礼時での解除申請は無理だった。隆三の心づもりでは、休み明けの月曜日に申請を行い、火曜日に解除という段取りだった。他の二人より一日停学期間が延びるということだ。
金曜日、生徒指導部長の前田が廊下ですれ違う折、「先生は明日、解除申請するんですか」と隆三に訊いてきた。隆三は「まだちょっと無理ですね」と答えた。前田は、「じゃ、先生は解除は申請しないんですね」と確認してきた。隆三は「はい」と答えた。
土曜日の朝だった。隆三は玄関で靴を履こうとしていた。その時不意に、自分が立てている松山の処分解除の予定に狂いがあることに気が付いた。月曜日に処分解除を申請すれば火曜日に解除ということになるが、火曜日は隆三が年休を取っていた日だった。隆三の頭がカッと熱くなった。一月も前に年休の届けを出していた。目的は登山だったが、届けの「事由」の欄には「法事のため」と書いて出した。年次有給休暇は二十日あったが、隆三は例年多くても二、三日しか取らなかった。その一日だった。それを忘れていた。いや、登山のことはずっと頭にあった。ただその日取りと松山の件とが具体的に結びついていなかった。解除に立会えない! 解除に担任が立会わなくてもいいだろうか……それはやはりまずいだろう……。隆三は土間に立ち尽くした。……解除の申請を遅らすか……すると水曜日が祝日で休みだから木曜日の申請となる……すると解除は金曜日となって、停学期間は他の二人よりかなり延びることになる……。まずいな、と隆三は思った。隆三にはそれはとてもまずいことのように感じられた。他の二人は今朝解除を申請する。松山も一緒に申請すれば月曜解除となり、立会うことができる。登山の前に松山の件に決着をつけることができる。いっそそうしようか……。隆三は電車の中で考えることにして家を出た。
電車が目的の駅につくまでの一時間弱の間、隆三はそれが習慣だった読書もせずに考え続けた。考えはなかなかまとまらなかった。松山と母親が八時に来る。職員朝礼は八時半に始まる。隆三がなんとか出した答えは松山が持ってくるはずの反省文を読んで判断しようということだった。内容がよければ朝礼直前になるが解除を申請する。しかし、そんな落着きのない行動はやめた方がよい、解除が遅れることになっても仕方がないではないか、諦めろ、諦めろ、という内心の声も聞こえていた。それが恐らく順当な判断だったのだろうが、計画の突然の齟齬が隆三の心の安定を奪っていた。
安定を欠いた隆三の心のなかでは、停学期間が他の二人より四日延びることがとても大きなミスと感じられた。しかもその原因が自分の年休にあると思うことが彼の気持ちを苦しくした。生徒指導部長に相談しようかとも思った。月曜日に解除を申請するつもりだが、火曜日に年休を取っているのでどうしたらよいかと相談を持ちかけるのだ。もしかすると担任の立会いは免除されるかも知れなかった。しかし虚偽の事由で届け出ている年休に言及することは憚られた。やり取りのなかでボロが出てしまうことが危惧された。
電車を降りて学校まで歩いてくる間に、隆三の気持ちは解除申請を行う方に大きく傾いてしまった。それが結局自分にとって最も負担を軽くする道だという思いが隆三をとらえ、衝き動かすようになっていた。焦りのなかで自分の都合だけが大きく膨らみ、松山の状況への配慮などは掻き消されようとしていた。
母子は時間通りにやって来た。隆三は二人をカウンセラー室に入れた。二言三言、二人と言葉を交わした後、隆三は早速松山から反省文を受け取り、目を通した。乱雑な字で書式も出たら目に書いてあった。平仮名ばかりで漢字が殆ど使われていない。内容的にも極めて不十分だった。母親も松山の謹慎態度には反省が見られないと言った。ところが隆三は由佳のそんな話を途中からうわの空で聞いていた。彼は腕時計を見た。八時十分。解除を申請するにはそろそろこの場を切り上げて職員室に行かなければならない。隆三は今日の予定に話を変えた。喫煙防止のためのカウンセリングは九時から行われる。その後、松山は今日は学校での謹慎となる。一般の生徒が下校して一時間後の時間を隆三は指定して、由佳に迎えにきてほしいと頼んだ。由佳は今日は来客があるので三十分ほど遅れると言った。隆三は了承した。隆三は由佳にこれから処分解除の申請をするつもりだとはさすがに言えなかった。学校で謹慎するにあたっての注意を手短に松山に与え、隆三は、それでは、と腰を上げた。由佳は、もう終わりか、という怪訝な表情を一瞬浮かべたが、これも腰を上げた。二人は松山を残してカウンセラー室を出た。階段を下りながら由佳は、「停学が少しも応えていないみたいですよ」と隆三に言った。そして申し渡しのあった日も夜間外出をしたと告げた。隆三の脳裡を、解除はやはり無理だな、という思いが過った。しかし、解除を申請するという方向にセットされた彼の意志はもう止まらなかった。これは、本人にはその自覚が乏しくても、一種のパニック状態なのだ。強い緊張感とある種デスペレートな気分を彼は覚える。空気が希薄になったように呼吸も少ししづらく感じる。だが、自分が異常状態にあるという自覚は薄い。自分では正常に物事を判断していると思っている。隆三は教師生活の中で何度かこういう状態に陥った経験がある。孤立しがちな環境の中で責任は厳しく追及されるという状況がそうさせるのだろう。
担任が解除を申請すれば、よほどのことがない限り、校長は申請を許諾した。問題を起こした生徒に接しているのは担任であり、担任が一番生徒の状況を把握しているからだ。それが隆三の頭にあった。切迫している彼の意識のなかでは申請と解除が短絡されてしまった。
由佳とエントランスホールで別れた隆三は急かされる気持ちで職員室に戻った。生徒指導部長に早く申請を伝えなければならない。幸い生徒部長は席に居た。昨日は申請しないと言っておいて、朝礼の直前になって申請するというのも体裁の悪いことだったが、そんなことに構っておれない隆三は生徒部長の机の前に進んだ。
「前田先生、突然で申し訳ないんですが、うちのクラスの松山も今日解除の申請をしたいんですが」
「え」
と前田は隆三の顔を見上げた。
「ちょっと日程の都合がありまして」
隆三の声は小さくなった。前田は不可解という表情で眉根を寄せたが、もう朝礼まで時間もないと思ったようで、
「じゃ、先生も今朝の朝礼で解除の申請をするということですね」
と確認の口調になった。隆三は突然の申し出を咎められないことに少しほっとして、「はい」と頷いた。
次は校長だ、と隆三は思った。彼は松山が提出した反省文と反省日誌を携えて校長室に向かった。この時、自分も不十分だと思った反省文の内容については隆三の頭から落ちていた。校長は隆三の申請を聞いたが、「もう少し早く出してくれ」と苦い顔で言った。隆三は頭を下げ、校長室から出た。職員室に入ろうとするところで、出てくる生徒部長と出くわした。
「ああ、校長には先生の方から伝えてもらえましたか」
と前田は訊いた。彼は隆三の突然の申請を校長に伝えに向かおうとしていたのだ。隆三はさっきの頼りない態度を挽回するため、抜かりはないというように得意気に「はい」と頷いた。
自分の席に戻った隆三は落着かなかった。申請に必要な手続きは一応終わったと思ったが、大きな穴が開いているような不安感があった。その癖、隆三の頭には、申請が終わったから次は解除の決定という段取りしか浮かんでなかった。しばらくして校長が隆三の席に近づいてきた。何だろうと隆三は思った。校長は隆三の机の上に松山の反省文を置くと、「先生、これで何か見えますか。何にも見えん」と言った。隆三は「そうですか」と頷いた。自分でもそう思ったことが頭に浮かび、頷くほかなかった。申請は却下された。顔が火照った。隆三の目論見は頓挫したのだ。処分を申し渡すのも、解除するのも校長の権限だった。校長はその権限を行使したのだ。どうしようかと隆三は思った。職員朝礼は二、三分後に迫っていた。生徒部長に申請の撤回を申し出ようかと思った。しかし彼の体は痺れたように動かなかった。考えてみればあんな反省文を出して認められるはずがなかった。手続きを形式的に済ますことだけに気を取られていた自分のおかしさがようやく隆三の頭に浮かんだ。むしろ文書を出さず、口頭で「反省状況は良好ですので、解除をお願いします」と言った方が、あるいは可能性があったかも知れない。時間がないということで、校長も文書の提出は求めなかったかも知れない。やはり平常心を失っていたのだ、やはりこんな無理はせずに、初めの考え通りにしていればよかったのだと憑き物が落ちたようになった隆三は悔いた。
チャイムが鳴って職員朝礼が始まった。司会役の教頭が立って二、三の連絡事項を述べた後、
「生徒部の方から審議事項が出ていますのでご審議をお願いします」
と言った。生徒部長の前田が立ち上がった。
「処分解除の申請が出ていますのでご審議をお願いします」
前田はそう言って、二年生の方からクラス番号順に生徒の氏名を挙げていった。前田の発言が終ると教頭は、
「それでは担任の先生から生徒の状況について報告してもらいます」
と言い、挙げられた生徒の名の順に担任を指名していった。隆三は時田の次に指名された。
「えー、申し訳ありませんが、生徒の反省状況が解除にまでは至っておりませんので、申請を取り下げます」
隆三はそう言って、前田の顔を見て頭を下げた。前田は険しい顔で隆三を見つめていた。隆三はその顔に「申し訳ありません」と言ってもう一度頭を下げた。彼は自分が耳まで赤くなっているのを感じた。教頭が戸惑った。
「申請を取り下げるということですか」
と隆三に訊いた。
「はい。すみません」
と隆三は答えた。教頭は確認するように生徒部長と校長の顔を見た。校長が何か言った。教頭は正面に向き直り、
「担任の判断が短時間で変わったということで、申請を取り下げることになりました」
と言った。「短時間で変わった」という表現に隆三は教頭の皮肉を感じた。席に腰を下ろした隆三はほっと一息ついたが、周囲に目を上げにくかった。真正面の時田は内心嗤っているだろうと思った。松山という生徒は自分にこんな思いをさせる生徒なんだと隆三は思った。日頃、落着くことの大切さを念じているのに、切羽詰った時の己の脆さが苦く思われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます