かみさまのなまえ
秋義
第1話日常の終わり
少年、
ひたひたと累の熱を奪う廊下は、壁と、床と、天井だけのリビングへと続く。
傷ひとつないステンレスがつやめくシンクの置かれたキッチンには空の食器棚。その隣の大きな冷蔵庫からグリーンのペットボトルを取り出すと、その冷蔵庫は役目を失う。
喉を潤した累は端末を取り出すと、愛飲しているミネラルウォーターを1ケース注文し、空気だけを冷やすその箱を睨んでそっとその扉を閉めた。
自室へ入ると、パソコンの大きな画面の中で〈おかえりなさい〉とピンクのツインテールが揺れる。
「ただいま、アスター。ニュースが見たいな」
〈おっけー〉
画面が切り替わると、8月23日18時31分のトピックス、と交通事故、爆発火災、強盗殺人、セクシャルハラスメント問題にアイドルの電撃入籍の話題が並んだ。
「また爆発?最近多くない?」
〈今月で4件目だね!まだどこも原因はわかってないみたい!〉
「けが人が出てないのが奇跡…ま、この辺は関係ないだろうけど」
〈人口が多いところばっかりだもんね!〉
「ってかるんたん結婚…ショックが過ぎる…」
〈好きな人の幸せだよ?応援してあげなきゃ!〉
「いやー、無理…無理よりの無理。知りたくなかった…でもこの笑顔は尊い…相手誰」
〈ふぁいやどっぐのshoだって!目を逸らさないで!〉
「えー、おっさんじゃん」
〈愛に年齢は関係ないよ!〉
「きっと金目当て…いや、るんたんはそんな女じゃない…」
そう、累は深い溜息を吐き顔を覆うと手元のボタンで部屋の照明を落とす。
「アスター、この悲しみを追悼する…るんたんの動画片っ端から流して」
〈おっけー!〉
背もたれに深く寄りかかり、画面の中のるんたんを眺め初めて3時間。気が付くと姿勢は前のめりになり、その目元には涙が浮かんでいた。
〈累、電話だよー〉
「今いいとこ。るんたん武道館の舞台裏」
〈ごめんね、マスターの回線の方が強制力強いからあと5秒で切り替わる!〉
アスターの言葉で累の顔から表情が消える。
「わかってるよ」
〈なら早く回線を切り替えろ〉
先ほどまで耳元で響いていた明るい声や音楽が掻き消え、苛立ちを隠さない男の声が重く響いた。
「何の用ですか」
〈要害山付近で影の発現が報告されて観測員と連絡が途絶えた。様子を見てこい〉
「それは緊急の案件ですか」
〈そうでないなら連絡しない〉
「わかりました」
淡々とした声でそう言うと通信が切られ、累の耳にはるんたんの歌唱が響き、画面の向こうでは先ほどまで必死の表情でダンスの練習をしていた彼女の華やかな笑顔がステージライトに揺れている。
眩しそうにるんたんを見つめるその目元に、もう涙はなかった。ちょうどサビに差し掛かろうかというところで、累は悲しみを嚙み潰すように歪めた口元で、アスター、と呼びかける。
〈はーい?〉
「出かけてくる。もし24時間経って戻らなかったらあいつに良かったねって伝えて」
〈あいつってマスターのこと?〉
「そう。じゃぁ行ってくる」
〈はーい!いってらっしゃーい!〉
アスターのピンクの髪と白い腕が元気いっぱいに揺れるのを目の端に映し、画面の電源を乱暴に落とすと鍵も閉めずに家を出た。
15分後、累は要害山麓の集落で観測員が使用する車を発見し、すぐに見つかった事を喜びながら車の脇にバイクを停めた。
車が無人であることを確認し、捜索の必要を確認した今度は気を落としながらヘルメットに手をかけた。
(近くに居ればいいけど…ってかなんで端末持ってないんだよ)
汗ばんだ髪に指を通しながら辺りを見渡す。とはいえ、辺りに明かりは乏しく、月明かりで見える山影と空よりも濃い闇ばかりが目に映る。バイクに跨り直し、ライトをつけゆるゆると走り出した。
(影の気配があれば、多分そこにいる)
車が向こう側に見えるところまで進んだところで息を呑んだ。頭で考えるよりも先に襲ってきた恐怖に喉が引き攣る。
「なんだこれ…」
ガードレール下に広がる集落が黒い霧に覆われているのが横目にでもありありと見えた。
「ここに突っ込んだ奴は気ぃ狂ってたんじゃないの」
黒い霧に触れていない今でも感じる。恐怖と怨恨。理由のわからないそれはただただ心身の温度を下げていく。
ポケットから端末を取り出し、男に連絡を取ろうと試みるが幾度操作をしてもコール音が鳴らない。
「まじか…」
黒い霧は『影』と呼ばれている。誰もがそう呼ぶわけではなく、その存在を認識している人間たちがそう呼んでいる。
影を視認できる人間は限られる。累はその限られた人間の1人で、電話口の男が言っていた『観測員』も影を観測することを生業にしているのでそこに含まれる。
影は人間の感情に由来し、その内容は様々だがおおよそネガティブな、負の感情を内包している。
視認できるできないに関わらず、生きているものは影に作用される。しかしそのほとんどがなんとなく、というもので問題にはならない事が多い。
ただし、影が濃い場合・実態を伴う場合・視認できる場合の作用は大きい。ただ、そういった事例は極稀だ。
――その極稀が今、累の眼前に広がっている。
集落ひとつ覆うほどの影。影が内包する恐怖と怨恨。
目の当たりにしただけで腹の底が震え、じっとりと汗が湧き喉が渇く。
「特大ブーメランだ」
累は頭をもたげそう呟くと、バイクを置いて集落へ続く坂を下りだした。
集落のほとんどが平屋で、どの窓からも明かりは漏れていない。見渡せる庭には区別がつかないほど草が蔓延り、家屋の中にまで生えているものもある。
(消滅集落になってたのか)
全体の中ほどを過ぎたくらいで立ち止まり、頬を伝う汗を拭いながらぐるりと辺りを見回す。
確かに夜も深いが、それにしても人の気配がない。聞こえてくるのは蛙の鳴き声と耳障りな羽虫の行き来する音だけだ。そうだと理解した途端、震えが芯からくる。
一歩進むごとに恐怖が背を撫でる。何が怖いかわからないまま、心の内が恐怖という感覚に侵されていく。
一呼吸ごとにこの世の全てが憎たらしく思えて、憤りで身の内が焼き切れそうになる。
そういう全てを振り払うように、累のポケットからは自身の足音に紛れる程度にるんたんの声が流れ続けている。
通信という本来最大である役目を失った端末だったが、今の累には大いに役立っていた。
一通り集落内を歩いたが観測員の気配はまるでない。
疲労が募るだけで日付をまたぎ、引き返そうかとしたその時、まるで引力が横から働いたかのように体を引かれ体勢を崩した。
「うわ…っ」
よろけた際目に入った一軒の家。それはひと際新しく綺麗な建物で、ひと際濃い影に包まれていた。
「特A…!」
引き攣った喉が勝手に震えた様に声が出て、指先が地面を削る。
(なんでこんな所に!?なんで今まで気が付かなかった!?無理だ、駄目だ、逃げなきゃ…)
地面を蹴ろうとした瞬間、かちゃり、と玄関の扉が開く音がして心臓が大きく跳ねた。続けて質の悪いスピーカーを通した様な女の声がゆっくりと降ってくる。
「お客さん?いらっしゃい」
明らかに人ではない。万が一に人だったとしても絶対にまともではないその声にドッと音を立てて心臓が跳ね上がる。
―駄目だ、顔を上げるな。
早鐘の様な鼓動の向こうで冷静な自分の声がする。地面についている足が力を失って、呼吸が乱れる。
「うれしい。だれもあそびにきてくれなかったから。おいしいおかしがあるの。いっしょにあそぼう」
「えぇ、ぜひゆっくりしていって」
累の返事を待たずに、女の声はどんどんと累の頭の上へ近づいてくる。
「あそぼう」
「おはなししましょう」
そう言いながら声の主が地面に手をつき覗き込んでくるのがわかった。
「は、え、なんで?」
「なんで?あそぼう?ゲームも、おにんぎょうもあるのよ」
目の端に映る襟にAを模った緑のバッチが見える。地面についている手はがっしりとしていておよそ声の主のものとは思えない。ぽん、と肩に置かれた手はしっかりと累の肩を包み込んだ。
「あ、んた、観測員…」
違和感に抗えず顔を上げた累の驚きに見開いた瞳に映ったのは、短髪の男だった。
「かん…ん?わたし、あやちゃん。あとママ」
がくんと首を傾げて、にっこりと笑う男の口が動き続ける。
「いっつもふたりでさみしかったの。でもさっきパパがかえってきてうれしかったの」
「やっとかぞくがそろったものね」
「うん、おきゃくさんがきてもっとうれしい」
「ママもうれしそうなあやがみれてうれしい」
ゆっくりと動き続ける男の口元を眺めながら、累は段々と冷静になっていくのを感じた。
(ここまで会話ができるほどの知能…交渉できるか)
―観測員の中にはママとあやの人格を持った影。パパ、とは多分、観測員のことだ。この状態での生死は判断できないが、声と表情の気味悪さを除けば、いたって生きた人間の顔色だ。
そこまで考え終わると、ゆっくりと深く息を吸い込んで、楽しそうに口を動かし続けるそれの目を見据えた。
「その人、返してくれ…ませんか」
「いやよ。パパはあげない。かぞくはいっしょにいるものよ」
観測員が、かあやが、か、自分の体を抱きしめる。その薄気味悪さに累は更に冷静さを取り戻していく。
「それは君たちのパパじゃない。本当のパパは別のところにいるんじゃないの?」
「ぱぱだもん」
そう言った表情が怒りに変わり「あなたもわたしたちをいじめるのね」と言うと同時に、累の影に身体が飲み込まれる。
(あぁ、失敗だったか)
影の調査はこれまでもやってきた。
影は人の感情・思念・遺恨。そういうものが視覚化されたものだ。
この田舎なら大した影は発生しない。空気が透明だという事を累はこの土地で初めて知った。
人に障りそうな問題があっても、累が僅かに持っている異能で十分に祓えた。
そんな繰り返しだったからすっかり油断していた、と暗闇のなかで後悔していた。
(アスターに全財産るんたんに課金してって言っておけば良かったな…)
ぼんやりと終わりを待つ累の耳に軽い足音が近づいてくる。
(助けがきた?まさか…まさかだな)
助かるかもしれない、という期待を一瞬で捨て、声を張り上げた。
「逃げて!もしもあなたが人間なら、来ちゃ駄目です!逃げて対Aに連絡してください!」
そう言い切ると同時に白い裾がふわりと頬をくすぐり、白く細い足首が目の前に現れた。
「そんなことしてたら君、死んじゃうじゃない」
声の先には柔らかな笑み。
暗闇の中、白いワンピースの少女が光を纏ってこちらを見下ろしていた。
後に、間宮累はこの時の事をこう語った。
「びっくりしすぎて華の言葉が全然耳に届いてなかったから、死神とかじゃなくて天使が迎えにきてくれるんだ、って思ったよ」
天使のような少女、
「絶対助けるから、もうちょっと頑張って。そのままだと影に飲まれて死んじゃうよ、頑張ってね!」
と言い残して姿を消した。
「え、俺死んでないの」
問いかける先を失った問いは闇に消え、静寂の中で突然現れた少女の姿を思い返し、都合の良い妄想か、と死の瞬間を待つように静かに瞳を閉じた。
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