嘘つき拳王のやさしい道場
鵠矢一臣
盗賊団と嘘つき師匠(1)
王都の郊外、八万の人口を支える田畑地帯。緑色のなだらかな凹凸が見渡すかぎり続いている。
その中にぽつんと、いまにも崩れてしまいそうな木造の建物。
二階建てぐらいの高さがある平屋。土台はきちんと造られているようで、掘っ立て小屋というほど頼りない造りではない。しかし外壁は褪せて白く、あちこち反って捲れかかっている。ちょっと指で押したら軽い音を立てて割れてしまいそうなぐらい、木材らしい生気がない。
『拳王のやさしい武術道場』
玄関引戸の脇で、看板が傾いでいる。
引戸の格子に嵌ったすりガラスはすっかり輝きを失って、毛羽立った布地のよう。ところどころ割れたり穴が空いたりもしている。
その向こうから、建物の廃れ具合には似つかわしくない溌剌とした声が飛び出してきた。
「てーりゃてりゃてりゃてりゃてりゃてりゃーーー!」
道場内の声の主は、拳法着姿の少女だった。
雑巾がけの最中らしい。
額には汗。少し長めの犬歯をのぞかせるようにして嬉しそうに上がった口角。
壁際から壁際へ、床板を踏み抜かんばかりに蹴りながら往復を繰り返していく。その速度は桃色のおかっぱ髪が後ろへたなびくほどだ。
舞い上がった埃で空気が白く濁る。
すると道場の奥で横向きに寝転んでいた男がむせた。
リネンの寝間着のまま。水色のボサボサ髪は寝癖で側面が逆立っている。
少女に注意をするでもなく、起き上がるでもなく、眠たげな目をしたまま尻の辺りをポリポリと掻いた。
「師匠ーっ! そーじ終わったぞー!」
「おー、ごくろうさん」
師匠と呼ばれた男は、気のない返事をする。
その肩書にはまるで似つかわしくない容姿。総白髪でもなく、筋骨隆々でもなく、常在戦場とばかりに周囲に気を張り巡らせているわけでもない。思春期たけなわの少年ほどではないにせよ肌には充分に張りがある。少女と歳の離れた兄だと言っても通用しそうなぐらいだ。熟達した達人の雰囲気はみじんもなかった。
「めーしーだぁーーー!」
息付く間もなく、少女はブリキのバケツをひっつかんで隣の炊事場へと駆け込んでいく。
ガチャンガチャンと調理器具でも用意しているような音の後で、ふいにぽっかりと静かな間が生まれた。
外から小鳥のさえずり。
師匠が口だけ開けて欠伸をする。
「な、な……、なんにもねぇーーーっ!!」
静寂をつんざく叫びが炊事場の壁を突き抜けてきた。
それでも男は微動だにしない。
少女が四つん這いでぺたりぺたりと一歩ずつ進みながら戻ってくる。生まれたての子鹿のようにぷるぷると全身を震わせながら。
くりっとした黄金色の目に満々と涙を湛え、徐々に師匠の元へ近づいていく。
「し、シショー。食べ物ゔぁ。らゔぇおのゔぁー」
「おー、どうした?」
「らんにもらいよぉ!」
噴き出した涙が光を屈折させるのか、つぶらな瞳が大きく見える。
師匠は眉一つ動かさず、「そうか」とだけ答えると、うつ伏せに寝転んでしまった。
「師匠。昨日、買い出し行ったよな?」
えっくえっくとしゃくりながら少女が言うと、男の背中がぴくりとこわばる。
「わちが寝てる間に買い出し行くって、お金持って行ったよな?」
師匠は無反応を決め込んでいるようだ。何の反応も返さない。
だが少女は、師匠の脇汗を見逃してはいなかった。みるみる染みが拡がっていく。
「もしかして、また怖いおじさんたちとサイコロ遊びしたのか?」
男の背中がビクビクッと痙攣する。
少女は悟った。なけなしの食費がどうなってしまったのかを。
がくりと突っ伏すと、ぐぅーと盛大に音をたててお腹が鳴った。
それを合図にするように、周囲の空間にただならぬ気配が沸き立たっていく。少女の全身が熱源になっているかのように。
すぐさま沸点に達すると、いきり立った少女は熊のように立ち上がった。
「ふぅがーーーっ!!!」
目から炎を噴き出すような怒りを込めて、思い切り師匠を踏みつける。
だが、くるりと寝返りで避けられてしまった。
空振った足裏が「ダンッ!」と床板を揺らす。
間髪をいれずに、ふんっふんっと師匠の転がった先を追いかけ踏みつけていく。だがなかなか当たらない。
やがてコロコロと転がり続けた師匠は壁際に達した。もう転がる先はない。
勝利を確信し、少女は口元をわずかに緩める。
「サイコロ禁止ってぇ、言っただろーーー!」
思い切り振りかぶり、師匠のドテっ腹めがけて拳を打ち下ろした。
しかしながら師匠は眠たげな半眼を崩さないまま、床を蹴って壁沿いに滑り、するりと躱してしまう。
頭が噴火したみたいに激昂した少女はむきになって連撃を繰り出していく。下段蹴り、正拳突き、チョップ、回し蹴り。さらに目にも留まらぬ連打、連打、連打の嵐。
師匠は寝たまま飛び上がったり、蛇のようにくねったり、エビ反ったり転がったり。表情一つ変えないまま、攻撃をことごとく躱していく。
空振りを続けておよそ半刻、へろへろになったパンチを放つと、少女はそのまま「へばぁ~」と床に倒れ込んでしまった。
「くふぅー、馬鹿シショー……」
腹が減っているわ攻撃が当たらないわで、少女は悔しそうに呟く。
さすがに申し訳ないと思ったのか、師匠は腰を下ろすと眉間に深いシワを作って言った。
「すまない、リコル。だがわかって欲しい。俺たちが肉を食うには、もうサイコロしか方法がなかったんだ」
「ニクぅ?」
「ああ。育ち盛りに肉は必要だからな」がくりと項垂れる。「それなのに、それなのに俺ってやつは……」
小刻みに肩を震わせはじめた。
リコルは起きあがってぺたんこ座りになると、目尻に残っていた涙を拭う。
自分のためを思ってのことだと聞かされて悪い気はしていない。しかしながら少女は知っている。このさも悔しげに「うっうっ」とやっている男が、筋金入りの嘘つきであることを。
「ホントか?」
わずかばかりの期待を込めて、問いかける。
一瞬の間。
顔を上げた師匠は、これでもかというぐらい涙袋を持ち上げて優しい表情に。
「あたりまえだろ」
まっすぐと見つめてきた。
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