やり直し時計

志堂 努

やり直し時計

 まさか机が壊れるとは思っていなかった。中古店で格安の五百円で買ったものだったが、数ヵ月で壊れるとは。あのとき、もう二百円出して隣のやつを買っておくべきだったのかもしれない。

 代わりのものを買わなければいけないが、先週バイトをやめた私には机なんかにかけるほどのお金もない。やっぱり、今回も中古店で安いものを探そう。

 私はあのときとは別の中古店の扉をくぐった。

 五百円以上で千円未満……いや、八百円以内のものがあればいい。

 雑多に商品が置かれた、狭い通路を幅細くして歩き回る。あった、机。しかし、

「千二百円か……高いな。違うのにしよう」

 そうして奥へ奥へと進んでいく。

 すると、一つ。棚に不思議と目をひく時計を見つけた。なんの変哲もない、手のひらに収まる程度の置時計。文字盤の下でカチカチと音をたてながら小さな振り子が揺れる。

 私はそれを手に取った。前から、横から、後ろから、そして裏をまじまじと見る。裏に九百円と判を押された値札がついていた。

「……九百円か」

 財布のなかには千円札が三枚、小銭がじゃらじゃら入っている。それを脳裏に浮かべ、レジへと進んだ。

 自分のおかしな行動に気づき、我に返ったときにはもう外気が体にふきつけていた。ちなみに購入したものはその時計だけ。肝心な机を買っていない。が、また店員に顔を合わせるなんて私にはできない。

 私は手にある時計を見下ろして、大きな息をついた。

 なんでこんなものを買ってしまったのだろうか。私は私が馬鹿なんじゃないかと思う。時計に九百円。しかも、今現在として必要としていない。家では元気に動く時計が壁にぶら下がって、私の帰宅を待っているというのに。

 今日の晩飯はもやしにしよう。

 私はほてほてと帰路についた。




 街から外れた住宅街の奥。築云十年の二階建てアパートが私の家だ。部屋がある二階に上がるための階段はギシギシ鳴り、いつ底が抜けてもおかしくない。玄関をあければキイと高い音がして、畳も少しの振動で軋む。それでも仕方ないと思えるのは、激安なうえ、小さい風呂とトイレがついているからだ。

 私は靴を脱ぎ捨てて、音のする畳に座った。横にぽいっと時計を置いて、ハードカバーの小説を手に取った。これは実家から持ってきていたもの。読書でもしたら少しは気分も楽しくなるかもしれないと思い、帰ったらすぐに読めるようにひっぱり出しておいたのだ。

 表紙を開いてペラペラめくっていると、はらり一枚の写真が飛び出てきた。

「これは……中学校の写真か。懐かしいな」

 中学校の卒業式。よくあるような、最後みんなで集まって撮るクラス写真だ。

 私は自分の顔よりも、ある女子生徒の顔を先に見つけた。花のような笑顔を咲かした彼女、名前は佐々木由美という。なにを隠そう私の初恋相手である。

 それなりに仲良くしていたが高校は別だったから、卒業してしまえばそれきりだった。

 連絡先を聞いていたり、あの最後のチャンスを逃さずいたら、関係は変わっていただろうか。といっても、もはやタラレバでしかないのだが。

 苦い思いを踏みつぶしたくて、私はあの時計の下に写真を潜り込ませた。

 過去を振り返るのは億劫でしかない。もうやる気をなくした。なにもしたくない。

 私は枕を手繰り寄せて、頭を沈めた。こんなときは寝るに限る。寝るのは昔から得意だ。ほら、すぐに意識は宙に浮いていった。




「卒業生、起立」

 マイクを通して、しわがれた声が体育館に響きわたる。私はこの声を知っている。中学時代の教頭先生の声だ。そしてこれは卒業式だ。もしかしたら、寝る前にあんな写真を見たからかもしれない。夢に出てきてしまったようだ。

 私は周りに遅れて、椅子から立ち上がった。つられるようにして、列になり、私は体育館を出ていった。

 体育館を出れば、どんどん列は崩れていき、生徒同士が好き勝手に話しながら各教室に戻っていく。

 私は静かに懐かしの席についた。

「あれ? 由美、もしかして泣いてた?」

「泣いてないよぉ」

 きゃっきゃっと茶化されながら佐々木さんがやって来て隣の席が埋まる。最後の時、私は彼女の隣席だった。

 笑う顔、真剣に話を聞く顔、眠そうな顔。横から見たたくさんの顔を思いだし、妙にドキドキしてきた。頬が、頭までも熱くなっていくのが自分でもわかる。

「ねえ、藤堂君」

 ふと自分の名字を呼ばれ、私は上ずりそうな声を抑えて顔を向けた。真っ正面から見る佐々木さんはあのときの可愛さのままだった。

「私、そんなに泣いてたのわかる?」

 佐々木さんが自身の目元を指差して、私に聞いてくる。

「いや、大丈夫じゃないかな」

 爆発しそうな心臓を押さえながら、私はそう返した。「よかった」と佐々木さんが笑う。

 これも覚えている。あのとき同じ展開だ。この後、みんなが一言ずつ最後の挨拶して、先生の話を聞いて、あの写真を撮る。そして、「藤堂君、バイバイ」と佐々木さんに言われ、私も「じゃあ」と言って、全てが終わった。

 もしも、このときに話を続けていたら、展開は変わるのだろうか。ちょっと試してみようか。どうせ夢だ。なにをしようが困ることはない。

 そう決めれば、今度はさっきとは違うドキドキに手が震えてきた。

 どうしようか、なんと切り出そうか。刻一刻とその時が迫る。出席番号順に一人、一人前に出て話をしている。

 ああ、どうしよう。

 佐々木さんまで席を立った。なにか言っているのはわかるが、あまりにも遠く感じて聞こえない。記憶でしかないが、楽しかった、みんなありがとう、みたいなことを言っていた気がする。

 佐々木さんが席に戻ってきた。私まであと五人。でも、私はそれどころじゃない。

 なのに、あれよあれよと私の番がやって来た。ふらふらと前に出て、

「今まで、ありがとうございました」

 それだけ言っておいた。

 とりあえず電話番号は聞いておこうか。せっかくだ。遊ぶ約束でも取り付けてしまおうか。彼女が好きなものはなんだろう。確か、ケーキが好きだと言っていた覚えがある。それでいこう。

 私は一人、心のなかで頷いた。

 いつのまにか先生が目に涙を浮かべて話していた。周りからも鼻をすする音がする。意外にも先生の長い話の終盤にまでになっていたもよう。刻一刻とその時が迫る。

 早く来い。

 私はまだかまだかと待ちわびていた。

「じゃあ、最後にみんなで写真を撮りましょう」

 先生の合図で一斉に席を立つ。教室の後ろ側に机を寄せて、空間を作る。その時、気持ちがはやる私は先手を打つことにした。

 机を下げ終わって、隙間をぬって前に出ようとしていた佐々木さんを呼び止める。周りにあまり聞かれないように、そっと。

「佐々木さん」

「ん? どうしたの?」

「あとで一緒に写真撮らない?」

 手に力がこもって、拳を握る。

「いいよ」

 佐々木さんが笑顔を添えて返してくれた。握った拳が小さなガッツポーズに変わった。

 たたっと軽い足音で、佐々木さんは友達のところへかけていった。ふんわりと女の子らしい甘い匂いが鼻を掠める。夢だと忘れてしまいそうなほど、あの頃の気持ちが全身を占めた。

 他の生徒の顔がぼやけてわからないほど、私の世界には佐々木さんだけが輝いていた。私は端っこに並んで、右耳でシャッター音を聞いた。

 写真を撮り終えれば、そのあとは存外あっけない。席を戻して、最後の挨拶をして解散だ。別れを惜しんでなかなか教室を出ない者もいるが、部活の後輩たちのもとへとそそくさと出ていく者もいる。あのときの私はどちらでもなく、そのまま帰宅コースの一人だった。

 しかし、今の私には約束がある。

 席に座ったまま、人が少なくなるのを待っていた。佐々木さんは友達と最後の写真を撮って、手を振っている。

 もう少しだ。もう少しだ。

 佐々木さんにも後輩が待っているだろう。私に与えてもらえる時間は限られている。 右手のひらで左手のこうをさすりながら、頭のなかでぐるぐるシミュレーションを重ねていた。

「藤堂君。おまたせ」

 来た。佐々木さんが横に立っていた。

「あっ、うん」

 鞄からカメラを取り出そうとして、一度落とした。震える手を心のなかで叱咤する。

 カメラを手に、二人が収まるようにぐっと腕を伸ばすと、ふいに佐々木さんが顔を寄せるように身をかがめた。佐々木さんの香りを強く感じる。

 写真を撮るためにこういう体勢になるのは当然のことだが、私の心中は暴走してどうかしそうだった。

 震える指でなんとかシャッターを押す。その音に少し、心を撫で下ろしながら佐々木さんを横目で見た。

「あ……あの、連絡先教えて欲しいんだけど。で、もしよかったら遊びにでも行かない?」

「え?」

「美味しいケーキ屋さん知ってるんだ」

 後半早口になってしまったが、私は言い切った。まさかの提案と言わんばかりに、佐々木さんの顔がぽかんとしている。そんな顔も可愛いと私は思った。

 私たちのいる教室の隅だけ時間が止まったようだった。

 周りではまだ談笑している生徒もいる。廊下から走る足音や、はしゃぐ声もするが、大分遠くに聞こえた。

「うん、いいよ。たくさん遊ぼう!」

 佐々木さんの髪の毛が跳ねては揺れる。りんごをあてたような頬がぷっくりしていた。




「よし!」

 嬉しさに思わず声をあげて、今度は大きなガッツポーズをしたが、腕を撫でたのは冷たい空気だった。

 はっとして目を開ければ、そこには雨漏りの痕が広がった天井があった。あの匂いとはほど遠い、湿った臭いが鼻をつめる。

「そうだ……夢だった」

 言葉にし難い、無念さに私はあげていた腕で目を覆った。あれが事実だったらどれだけいいだろうか。

 一つため息をつくと、ポケットのなかでスマートフォンが短く振動を伝えた。のそのそと起き上がって、頭をかきむしってからそれを取り出す。

 私に連絡をしてくる人物なんて一握りしかいない。どうせ母親だろうし、そんな重要なことでもないだろうと画面を表示して、私は目を見張った。

 佐々木由美。

 メッセージアプリの通知に載っけられている名前は確かにそれだった。画面を消して、再度つける。それをもう一度。何度見直しても、それは変わらなくて。

 私は立ち上がった。ギュッギュッと音がなるのも構わず、畳の上をあっちからこっちへ行ったり来たり。脳内の混乱を沈めようと懸命だった。

「よし、ひらくぞ。ひらくぞ」

 自分に話しかけながら、その表示をタップした。私はたまった唾を飲みこんだ。

 パスコード入力。そう指示する画面が現れた。

「ああ、そうだった」

 なんとも焦らされている気分だ。何故彼女が私の連絡先を知っているのかわからないが、とにかく内容が気になってしょうがない。

 私は手早く番号をたどり、やっとそのメッセージを確認した。

 「今度の休みはどこ行く?」と一言、書き込まれていた。しかも、それだけじゃない。遡れば、ずっとやり取りをしていた形跡が残されている。こんなの私には覚えがない。一筋、こめかみから顎に向けて汗が流れた。

 思い付くことは一つだけ。あの夢だ。あの夢が現実に反映されている。そうとしか考えられそうになかった。

 しかし、どうしてだ。どういうことだ。なにが起きているのだ。

「あっ、時計だ」

 私はがっと置時計を見た。そっと足をすりながら近づき、膝をつく。おぞろおぞろ時計を持ち上げ、その下の写真を手に取った。

 臭いものを遠ざけるときのような格好で、目をすぼめてその写真を見た。

「は? 嘘だろ!」

 今度はこれでもかというほどの至近距離に顔を近づけた。

 そこにある二つの笑顔。緊張しすぎてぎこちない笑みに、花のような笑み。私と彼女、佐々木さんだ。

 この時計が、やり直したいという私の気持ちに応えてくれたとでも言うのか。そうなら私はすこぶるいい買い物をしたのではないだろうか。

 勝手に笑いが腹の底からこみ上げてきた。口をおさえて堪えようとしても、無理だ。こんなの笑うしかないだろう。

 おっと、そんなことしている場合じゃない。次だ次。

 私は部屋の角に置いてある段ボールを引きずり寄せる。次にやり直したいところの写真を探さなければならない。

 そうだな、次は仕事だ。就職活動に失敗したから、今こうしてお金に困っているのだから、そこをやり直せばいい。そうすれば、この状況から脱することができるはずだ。

 県、市、町と公務員試験にことごとく失敗して、アルバイト生活。そのバイトもなかなか続かなくて、今に至る。

 なんの職業がいいだろう。いっそ、収入のいい仕事を……いや、まずは自分のできる範囲で考えよう。いざとなれば、またこの時計でどうにかできるし。

 そういえば、とスマートフォンを手にとった。佐々木さんに返信しようとしてやっぱやめた。畳に放り投げる。職業やり直せば、きっと所持金もかわるだろうし、そのあとにしよう。

 私は先程同様、見つけ出した当時の写真を置時計の下に敷いた。

「頼むよ、時計君」

 時計の頭を撫でて、寝転んだ。

 起きたばかりの上、興奮していることもあって、ちょっと寝付くのに時間かかりそうだ。まあいい。ゆっくり意識を落としていった。




 文字が羅列した数ページにおよぶ問題用紙と楕円だらけの解答用紙を私は見下ろしていた。この問題文には覚えがある。公務員試験のものだ。

 よし、きた。

 つい顔がにやけた。これで、受かればきっと私の人生も変わる。

 しかし、一つ誤算があった──全然答えがわからない──。それもそうだ。大学に行きたくないからで就職を選んで、流れで公務員試験を受けただけだ。当時もわからなくて、それからも勉強してなかったのにわかるはずがなかった。

 なんで、そんなことも考えなかったんだろうか。私は鉛筆をおいて、頭を抱えた。これでは、全く意味がない。

 周りにはそそくさとマークを塗りつぶしている他の受験者。カンニングも出来ないし、もはや詰みだった。

 考えろ、考えるしかない。

 刻々と時間は過ぎていく。私はカチカチという時計の音だけをBGMに考え続けた。

 そうだ。

 私はいいことを思い付いた。もう一度やり直せばいいんだ。ただ夢から覚める前にやらなければならないことがある。それは、この問題を覚えて戻るということだ。

 覚えて戻って、その答えを調べて、またここにくればいい。

 といっても、私の頭じゃ覚えられる範囲も限られている。でも、やらなければ。それしか方法がないのだから。

 私は意を決して、問題用紙をめくった。

 ああ、全然わからない。そもそもこの量を覚えるということ自体無理だった。

 いよいよ、詰んだか。いや、まだ諦めるには早い。写真だ。写真という手があった。

 現実の写真が変わるなら、問題を簡易的にまとめて、それを撮っておけば戻ってからも見えるんじゃないか。なんと、私は頭がいいんだ。

 そうなれば今からの時間は最終ページの裏、白紙のところにまとめていく作業だ。私は嬉々として鉛筆を手にとった。

 全部書くには少し狭いが、自分がわかればいいだけだ。とにかく簡潔にまとめていく。

 私にはまとめる才能があるのではないかと自画自賛しながら、鉛筆を動かし続けた。

「そこまで。鉛筆を置いてください」

 試験官の声で、カラカラと一斉に鉛筆が置かれる。

 続いて配られたのは、適性試験の用紙。これは勉強とかの問題ではない。それでも、これにもいい考えがある。終わってからしっかり答えを出す。そして、ある程度の番号を覚えておけばいい。

 なかなか相当なる暗記能力が求められている。しかし、やらなければならない。私の人生のためだ。

 たった十五分。あっという間だった。

 論文はテーマを確認しておくだけ。そして試験は終わり、私は懐かしの実家に帰り、間に合わなかった分をまとめ、写真撮影をした。枚数が増えるかどうかはわからないので、どうにかこうにか一枚に収まるようにしておいた。

 あとは目を覚ますだけ。ぎゅっと瞼を閉じた。




 馴染みのある空気に戻ってきたとわかり、目を開けた。さて、写真はどうなっているだろうか。

 私は時計を避けて、写真を拾い上げた。

「よしよし」

 写真に広がる紙たち。さっきまとめたものがちゃんとそこにあった。

 昨今のスマートフォンはとても便利である。調べたいものをすぐに調べられる。

 私は壁に立て掛けていた壊れた机を引きずって、中心に用意する。壊れた部分は四つある足の一つ。それが折れてしまったのだが、内側に織り込めるタイプだったので、たたんだ状態で私が寝そべれば、ものを書くのに使えんでもない。

 裏面に印字のないチラシを用紙して、調べた内容に合う選択肢の番号をメモしていく。このあとにはそれを暗記するという難題も待っている。気が遠くなりそうだったが、うまくいったときのことを考えれば苦ではない。

 それが終われば、適性試験を解く。そして、それが終われば論文を。論文はテーマを打ち込み、その横に『論文』と付け加えて検索。すると多くの論文が提示される。それをかいつまんでいけば完成だ。

 たくさん寝て、今日はもう寝れるか微妙だったが、これだけ頭を使ったのだ。眠りにつくのは容易だった。




 夢にはいる。だんだん、その感覚がわかってきた。私は目を開けて辺りを見渡した。

「嘘だろ……」

 おかしい。私が見た光景は、実家の自室だった。机の上に、試験の残骸が散らばっている。

 これは、もしかしなくても写真を撮ったときだ。




 がばっと私は跳ね起きた。

 あ、戻ってきた。

 私は時計を手にとった。下にはちゃんと写真をセットしておいたはずだ。当然、そこにある。

 どういうことだ。撮った時間に行くということか?

 変化前の写真を撮ったのはいつだったか……たしか公務員試験記念とかそんなノリだけで撮ったものだった気がする。このときは将来こんなことになるなんて思ってなくて、真面目に受ける気がさらさらなかったからな。

 はあ、と過去の自分を恨めしくため息をついた。

 さっきの苦労は水の泡ということか。せっかく買った荷物をどこかに置いてきてしまったような気分だ。

 私はかいた胡座の上に置いた時計とにらめっこしていた。

 どうにかする方法はないのか? 時計に聞いてみても、返事してくれるはずがない。

 もう外はとっくに真っ暗で、さらに白んできていた。

「あ」

 私はある可能性に気づいてしまった。

 置時計のある部分。これには目覚ましのような目安針がついていることに。

 今、それは真上、十二時のところを示している。これがもし丁度の意味だとしたら、そこから遡って針を動かしておけば、その指定した時間に行けるのではないだろうか。

 やっぱり私は頭がいい。善は急げだ。

 私は目安針を九時に持っていき、写真と重ねた。

「次こそ頼むぞ」

 私は祈るように目を瞑った。




「では、これより試験を開始します」

 試験官が説明をしていく。それを聞いて私は内心で相当喜びの叫びをあげた。

 私の読みは正しかったのだ。

 ちゃんと理想の時にいくことができた。あとは答えを思い出しながら記入していくだけだ。高らかに笑いだしたいのを必死に堪えて、マークシートを塗りつぶしていく。

 私は丁寧に、はみ出さないように塗った。

 そうしても、時間が大分余ってしまった。寝ると目覚めてしまう心配があったため、私は問題用紙に落書きをして過ごした。たくさんの力作ができた。とくに佐々木さんは可愛く描けたと思う。

 適性試験も一度見て解いたものだと、すいすい進んでいく。鼻唄でも歌えそうなくらいリズミカルにできた。

 論文も先に完成させていたものを頭で復唱しながら書いていく。

 余裕のできだった。これで合格も間違いない。合格すれば面接だが、それはこの先の私を信じよう。

 



 もう慣れつつある夢と現実の境界線。私はそこを越えて、現実に戻った。

「さてさて、どうなったかな?」

 そう目を開けて、ぽかんとした。開いた口が塞がらないというのはこういうことだ。

 なんと私の横に時計があるだけで、部屋が空っぽになっていた。頭を置いていた枕さえない。

 私は唯一ある時計を手に、玄関に向かった。相変わらず、畳は歩く度に軋む。

 扉を開けると、すっと朝の空気がお邪魔しますと飛び込んできた。そんな外の光景も見慣れたもので、とくに変わったことはない。

 いや、あった。

 表札がない。となりの部屋も確認してみたが、そこは今まで通りの名前が掲げられている。私の部屋だけないのだ。

 それはここには誰も入居していないということになる。

 はたと私は気づいた。それもそうだ。もし試験に受かっていたとしよう。そうすればきっと今以上に貯金ができる。

 つまりだ。そもそもここに住む必要がなくなる。もっといい部屋があるのだから。

 わかってしまえばなっとくだ。しかし、更なる問題が立ちふさがる。

 私はどこに住んでいる?

 路頭に迷うという言葉があるが、今まさにその状態になりかけている。家を探さなければ。せっかくやり直してきたのだ。そんな勿体ないことはできない。

 私はとりあえず、市役所に行くことにした。夢で受けた試験は市のものだった。ならば私はそこで働いているのだろう。なにか、わかるかもしれない。

 としても、時計だけを胸に抱えて歩く姿は端から見てどんなに滑稽なものだろうか。しかし、これを捨てられるはずがない。

 歩きながら周りを見ても、なにも変わっているところは見受けなかった。この時計を買った時と同じ風景。

 街に近づいていくほど建物が増えていき、車や人通りも見えてくる。過去の夢と現在の部屋を行き来していたせいか、それだけでもなんだか懐かしい気分になった。

 たった一夜のことだというのに。

 感慨にふけっていれば、ふと前から来る人とぶつかりそうになって、私は慌てて避けた。謝ろうと振り返ったが、その人は何事もなかったように去っていく。振り返りもしなかったその背中に舌打ちをして、私はまた歩き始めた。




 案外アパートから市役所までは近かった。そんなことに今さら気づきながら、入り口に向かおうとした。

 しかし、私はその足を止めざるを得なかった。

 一緒に息まで止まりそうになる。それほどの衝撃が頭上から私を撃ち抜いた。

 目の前に私がいるのだ。こなれた感じにスーツを着た私が、市役所の入り口から出てくる。

 ドッペルゲンガー。この世には自分に似た人物が数人存在すると言われている。しかし、あれはそうじゃない。私にはそれがわかった。あれは私だ。

 突如襲ってくる気持ち悪さに、腹の底からなにかが込み上げてきそうだった。

「あれ? お前」

 私に気づいた私がこちらに近づいてくる。逃げたくても足が動かない。ジャリジャリとそれが履いている革靴に踏まれる小石の音が耳に響いた。

「やり直し前の俺?」

 私のしたことない表情で笑うそれが私に問いかけてくる。私は無意識に時計を強く抱きしめた。

 陸に釣り上げられて、息の仕方がわからない魚のように口をパクパクさせる私。一方の私は余裕そうに頭をかいた。

「……お前は誰だ」

 なんとか絞り出した声だが、私のものかわからなかった。

「俺? 俺は俺だよ。藤堂一人だ」

 私の名前が目の前の口から吐き出される。

「藤堂一人は俺だ!」

 私は自分の胸をおさえて、声を荒げた。こんなに大声で叫んでいても、興味がないのか周りの通行人は見向きもしない。

 なにもしていないのに息が上がる。

 わざとらしいため息が聞こえた。

「お前さ、自分の今の姿ちゃんと見た?」

「は?」

 指をさされて、私はそれに従うように時計を抱える手を見た。

 思考が止まる。音も止まる。暗闇だ。私一人だけの空間で目だけを見開いた。

 手が透けている。いや、手だけじゃない。きっと全てだ。私が透けているのだ。

「まあ、当然だよな。やり直したんだから、そのお前はもう必要ない。お前だって、その自分が嫌でやり直したんだろ?」

 やけにその言葉が大きく聞こえた。

 そうか、だからあのときぶつかりそうになっても相手は振り返らなかったのか。そもそも私の存在に気づいてなかったのだ。どんなに声を張り上げても、通行人に見向きされないのもそういうことだったのだ。

 私は今、息をしているのだろうか。手が震える。立っているのがやっとだ。気を抜いたら深い底に落っこちそうだった。

「あとは俺に任せとけよ。由美とも上手くいってることだし」

 右肩になにかが乗せられた。それが手だということを理解するのに五秒ほど要した。

「諦めろ。お前はお前でしかない」

 最後に一言、落ち着いた声だった。

 私は私でしかない。

 口のなかで反芻すれば、すとんとなにかが降ってきたかのように、腑に落ちた。

 過去を変えてしまえば、それは私ではないのか。逆をいえば、過去があるから私がいるのか。

 徐々に視界にもとの建物や人が戻ってくる。目の前の男をしっかりと見据えて、私は大きく息を吸った。

「そうだ。俺は俺でしかなかった」

 私はそう言って腕の中の時計を掴んだ。大きく上に掲げれば、太陽を反射して眩しかった。少し目を細めて、そのまま地面に叩きつける。

 ガシャンッと壮大に音がした。砕けた破片があっちにもこっちにも飛び散って、時計がただのガラクタと化す。

 三本の針も、あの目安針も外に投げ出されて、その役目を奪われる。

「俺は俺で生きていく」

 男は笑みを浮かべた。




 閉じた瞼の外に明るさを感じて私は目を開けた。あの雨漏りの痕が広がった天井に、あの湿った臭い。ここはあのアパートの部屋だ。

 私は勢いよく体を起こした。掛かっていた布団がめくれる。手は透けてない、ちゃんとある。

 安心で脱力した体を支えようと、すぐ横の机に手をついた。しかし、それは叶わず、代わりにバキィッと不穏な音をさせて畳に沈んでいった。机が壊れたのだ。

「机が壊れた!」

 私は喜んだ。だって、喜ぶだろう。もとに戻れたのだ。違うか。今までのは夢だったのだ。そうだったに違いない。

 立ち上がってこの現状を噛みしめた。

 歩けばちゃんと畳が鳴る。私はくるくる回りながら音を奏でた。

 ふうと、落ち着くと机をたたんで壁に立て掛けた。新しい机を買わなければならないが、今日はやめておく。

 机ではなく職を探しにいこう。

 私は畳に落ちていた細長いゴミ──なにかの部品だろう──を拾ってゴミ箱に捨てた。



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やり直し時計 志堂 努 @ojyotoru

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