迷子犬プル

@qoot

第1話

「ええっ⁈」

 有山が玄関扉を開けると、小さな庭の隅に茶色い犬がいる。丸くなって寝ていたようで、声に反応してすっと顔を持ち上げる。

「ほら、出て行け。しっしっ!」

 丸い目で有山を見つめ、黒い鼻をひくひくと小刻みに動かす。臭いに記憶がなかったのか、それともこの家の人間と分かって安心したのか、少し目を細めてまた寝てしまった。

「しょうがないなぁ。ほらっ!おいっ!」

 有山が手を叩いたり、足を踏み鳴らしたりしても犬は反応しない。垂れた耳をわずかに動かして音の方向を確認するだけだ。

 有山は犬が怖い訳ではない。かと言って、近づいて追い払うことが出来るほど犬と接した経験もない。要は犬の扱い方がよく分からないのだ。

「猫じゃないのに、どうやって庭に入って来たんだ?」

 敷地を取り囲むようにブロック塀があるし、門はちゃんと閉めてある。

「隙間か⁈」

 門は古い一戸建によくある細い縦格子タイプだ。小型犬なら間でも下でも入る隙間はいくらでもある。

「今度の休みにホームセンターで透明のトタンかアクリル板でも買って取り付けるか」

 有山はざっと寸法を測った。右手を限界まで開いた時の親指の先から小指の先までがちょうど20センチだ。古い家なのでガタが来た所は有山が自分で修繕している。ホームセンターで売っている資材価格は凡そ頭に入っているので、余計な出費だとつい舌打ちが出る。

「やばい。何やってんだ。遅刻してしまうじゃないか」

 いつもの電車には乗れそうにない。次も逃すと間に合わなくなる。

「俺が帰って来るまでにどっかに行っとけよ」

 有山は自転車に跨るが、ふと玄関扉の鍵を掛けたか気になった。気になると確かめない訳には行かない。自転車を塀にもたせ掛け、玄関まで戻って確かめたら、やはり掛けていなかった。一安心して自転車に飛び乗り、駅へと急いで漕ぐ。犬は目だけで有山を追いかけ、しばらく門の方を見ていたが、ふんっと鼻から一つ息を吐いてまた寝てしまった。


「有山君。班長が遅刻してどうする。メンバーに示しがつかないだろ」

「すみません。お電話でもお伝えしましたが、いつも通り家を出たのに庭に犬が」

「言い訳はいい。早く出発してくれ」

「分かりました。定時には戻りますので」

「スピード違反は駄目だぞ。直ぐに苦情が来る」

「分かってます。回収作業で挽回します」

「頼んだぞ」

「はい。行って来ます」

「気を付けて」

 有山が勤める房総環境センターは、主に千葉県北西部の自治体からの委託を受けてごみを収集している。外郭団体や第三セクターではなく、純粋な民間企業である。かつては3Kなどと言われて人が集まらなかったが、最近では定時で仕事が終わり給料も悪くないということで人気の職種になっているらしい。


「おはよう。待たせて悪かったな」

「おはようございます。体調でも悪いんですか?」

「すまん。出掛けにちょっとしたトラブルがあってな。車両点検は?」

「済んでます」

「よし、出発だ。安全第一でよろしく!」

「よろしく!」

「よろしく!」


 ごみ収集は3人1組で行う。房総環境センターでは班と呼び、有山が班長に昇格して5年になる。収集時は有山が運転を担当、若い2人がごみを回収して後部の投入口に放り込む。 班長は目視やミラーを通して、作業員や通行人の安全に気を配らないといけない。


「それで今朝のトラブルは何だったんですか?」

 収集場所に向かう車中、班で最年少の高橋が運転しながら聞いて来た。3人掛けのベンチシートの有山はドア側に、中堅の武藤が真ん中に座っている。

「まぁ大層なことでもないんだがな。うちの庭に知らない犬がいて、出て行かなかったんだよ。お陰でいつもの電車に乗り遅れてな」

「でかい犬だったんですか?」

「いや小さいやつだ」

「犬種は何ですか?」

「そっちは詳しくないから分かんないな。芸能人がよく飼ってるやつじゃないか?浅田真央とかデビ夫人とか。テレビで見たことはあるんだがな」

「班長。こんなやつですか?」

 武藤がスマホで検索した画像を見せる。

「おうこれだ!色もこれと同じ茶色だったよ」

「これはトイプードルですよ。それから茶色ではなくてレッドですね」

「赤じゃなくて茶色だよ」

「いえ、この色はレッドと言うんです。茶色はブラウンって言うんですが、もっと濃い色なんですよ」

「武藤、やけに詳しいな」

「今はアパートでペットはNGなんですけど、いずれ引っ越したら飼うつもりなんで。いろいろと調べてるんですよ」

「武藤さん、犬派ですか?」

「そうだよ。うちの奥さんも犬好きで、何を飼うかで喧嘩ばっかりだよ」

「俺は実家なんで、犬3匹飼ってますよ」

「何飼ってんだ?」

「チワワばかり3匹です」

「可愛いだろ?」

「もうメロメロですね」

「犬ってそんなに可愛いか?」

「えっ、班長は犬嫌いですか?」

「嫌いでも好きでもない。興味がないってとこかな」

 まもなく目的地に到着し、15分の遅れを取り戻すべく3人は仕事に集中した。


「おいおい!何でまだいるんだよー」

 有山が仕事を終えて家に帰ると、今朝より少し塀から離れた場所で犬が寝ている。丸まった状態から顔だけ持ち上げる姿は、朝とまったく同じだ。

「悪く思うなよな。お前が出て行かないからだぞ」

 有山は足下の小さな石を拾い、直接当たらないよう計算して犬に向かって投げる。少し手前で跳ねた石は、転がって犬の前脚に当たった。驚いて立ち上がった犬が有山をじっと見る。

「よしよし良い子だ。ここにいるとまた石を投げられるぞ。そのままどっかに行きな」

 犬が全身をぷるぷると1-2秒ほど勢い良く揺らす。垂れた耳がどう当たっているのか、ぱたぱたと音がした。

「へぇー。水滴を飛ばす時以外も犬はぷるぷるってするんだ」

 有山の期待に反して、犬は門とは反対方向に歩き、その場で1周回ってまた寝てしまった。

「ん?」

 犬は右の後脚を地面から浮かせて小さく跳ねるように歩いていた。生まれつきか怪我したのか分からないが、歩きにくそうだ。

「いくら何でもこのまま追い出すのは可愛そうだな」

 もしかしたら動けなくて、朝から飲み食いしていないのかも知れないと思い、有山は急いで家に入った。


 有山は茶碗に冷やしていないミネラルウオーターを入れ、食パン1枚とともに戻って来た。

「冷たい物はあまり良くないと思うんだが、何を食わせたら良いのか、よく分かんないや」

 まず水をやってみる。口元に茶碗を近づけると、慎重に嗅いでからすっと立ち上がる。膝を少し曲げて、わずかに右後脚を浮かせるようにしている。口を近づけるや、すごい勢いで飲み始めた。どういう仕組みで水を飲んでいるのか、舌の動きが早くて分からない。あっと言う間に茶碗の水がなくなってしまった。有山は慌てて家に入り、ペットボトルを持って来た。

「喉が渇いてたんだな」

 茶碗に水を満たしてやると、今度は匂いを嗅ぐだけでもう飲まない。

「犬は雑食と言うからな」

 有山は食パンを小さくちぎって犬の足下に投げる。これも慎重に匂いを嗅いで、口に入れると同時にほとんど噛まずに飲み込んでしまった。美味しかったのか、二度三度と長い舌を出し入れして、余韻を楽しんでいるように見える。

「そうか、美味いか」

 今度は大きめにちぎり取って投げると、伏せの体勢になり両前足で持つようにして食べ始めた。一口目はまた噛まずに飲み込み、二口目は耳の部分が硬いので目を細めて噛み続けている。

「美味そうに食うなぁ」

 有山は思わず手に持った食パンをひと齧りする。硬めにトーストしてバターをたっぷり塗るのが有山の好みなので、そのままではさほど美味しくは感じなかった。

「おい、もっと食え」

 有山が残りの食パンを投げ与える。カーブを描いて少し離れたところに着地した。犬はゆっくり歩いて食パンを咥えると、朝いた辺りまで行って伏せの体勢になる。多少空腹は満たされたのか、犬は食パンを舐めたりしながらゆっくりと食べる。

 有山は茶碗を持って犬の側まで行った。しゃがみ込んで犬が食べる姿を眺める。これほどじっくりと犬を見るのは初めてかも知れない。

「鼻の穴はこんな形をしてるのか」

 犬の鼻を横から見ると、付け根の方まで鼻の穴に切れ込みがあるのが分かる。奇妙な造形だが可愛く見えるから不思議だ。

 有山が塀際を見ると、細長いフンが“〆”の形で落ちている。

「しょうがないなぁ」

 庭にあるスコップで穴を掘ってフンを埋めた。

 改めて犬の右後脚を見る。有山が恐々触ると、びくっと反応して有山の指を噛もうとする。慌てて手を引くと、体を曲げて足を何度も舐め上げる。白い地肌に赤い傷のようなものが見えた。

「やっぱり怪我してんのかな?」

 赤い傷は大きくないが、普通に歩けないのなら骨が折れているのかも知れない。

「念のため犬猫病院で診てもらうかな」

 犬に興味がなく、石を投げて追い出そうとした有山だが、流石に放ってはおけない。

「ラインで聞いてみるか」

 有山の部下である武藤と高橋は犬に詳しそうだ。犬がまだいること、水と食パンをやったこと、足に怪我をしていることなどを送った。直ぐに独身の高橋から返事が来た。

《今から班長の家に行って良いですか?》

《頼む。俺だけでは分からないことばかりだ》

 高橋の家からなら車で15分も掛からないだろう。武藤からも来た。

《ぜひ病院に連れて行ってやってください。高橋が良い病院を知ってます。それから食パンはあまり良くないので、犬用の缶詰をやってください。これも高橋が詳しいです》

《ありがとう。高橋が来てくれるから心強いよ》

《首輪をしてますか?》

《おしゃれなやつをしてるよ。逃げて来たのかな?》

《写真を送ってください。ネットで飼い主を探してみます》

《そんなことが出来るの?》

 武藤も高橋も気の良い男たちだが、犬のこととなると尚更だ。まもなく高橋が車でやって来て、直ぐに病院に向かった。よく気がきく高橋らしく、犬用の缶詰を3つ持って来てくれた。


 平日の夕方だが、待合室は混み合っている。犬猫病院だが待っているのはほとんどが犬だ。何かのニュースで飼い猫の数が飼い犬を超えたと聞いたことを有山は思い出した。猫はあまり病気にならないのだろうか。

 高橋は受付の女性と笑いながら話しているので、顔馴染みなのだろう。

「班長。初診なんでこれに記入してください」

 問診票と書かれた用紙は、犬の名前から始まって犬種、性別、年齢と書く欄が続く。今日の来院理由やこの病院をどこで知ったかなどの質問もあり、最後に飼い主の名前や住所を書く。

「犬の名前や年齢なんて分かんないぞ」

「受付で迷い犬と伝えましたから、分からないとこは飛ばしてください」

「飼い主も分かんないから、ほとんど書くとこがないな」

「飼い主は班長の名前を書いてくださいよ」

「俺は飼い主じゃないだろう」

「班長の順番が来た時に看護師さんが呼べないじゃないですか」

「まぁそうだな」

 ひと通り記入した問診票を受付に返し、有山が元の椅子に腰を下ろすと反対側の老婦人が声を掛けて来る。

「迷子のワンちゃんをお世話したり病院に連れて来たり、偉いですねぇ」

「いえ、まぁ、そうですかねぇ」

 有山は見知らぬ人との世間話が苦手だが、犬猫病院の待合室ではよく見る風景である。ペットという共通の話題で初対面でも会話は弾む。そこは高橋が慣れたもので、犬好き同士、上手く会話を繋いでくれた。今日一日を手際良く説明し、抱いているミニチュアダックスに話題が移った頃に老婦人が呼ばれた。

「ごめんなさい。お先に」

 老婦人は丁寧に腰を折ってから診察室に入って行った。

「お前大したもんだな。俺とは住む世界が違うよ。それより、今日はこの犬をどうすりゃ良いんだ?」

「うちはもう3匹いますし、武藤さんちはアパートでダメですから。班長のお宅で面倒見るしかないんじゃないですか」

「そうだけど、うちに犬小屋はないぜ」

「小型犬は室内で飼うんですよ。今晩は班長の布団で一緒に寝てやってください」

「冗談じゃない!」

 有山の家は古い木造の一軒家である。5年前に相次いで亡くなった両親が遺してくれた唯一の財産であった。間取りが3Kの2階建。両親と3人で暮らしていた頃は狭くて不自由していたが、37才で独身の有山が1人で暮らすには十分過ぎる。

「班長はベッドですか?」

「いや布団だ」

「じゃあ座布団を布団の横に置いてやってください。警戒して座布団では寝ないかも知れないですけどね」

「高橋とこの犬はどうしてるんだ?」

「うちは3匹が寄り添ってリビングで寝てますよ」

 その後も有山は高橋から、犬と暮らす上での注意事項をいろいろと教えてもらった。


 レントゲンを撮ってもらったが、骨折はしていなかった。何か硬いもので殴られたらしい。軟膏を塗ったガーゼを患部に当てて包帯を巻き、毎日取り替えるようにと言われる。暫くは走ったり暴れたりさせてはいけない。だいたい2週間くらいで治るようである。

 病院から有山の家に戻る途中、ホームセンターに立ち寄ってドッグフードやトイレシートなど必要なものを買い揃えた。

 居間でコーヒーを飲みながら、高橋は怒りが収まらない。

「こんな可愛い犬を殴るなんてどんな奴なんですかね?」

「飼い主に殴られて逃げて来たのかな?」

「飼い主ではないと思いますよ」

「何で分かるんだ?」

「トイプードルは毛が伸びるのが早いので、1ヶ月に1度はトリミングに行かないとだめなんです」

「トリミング?」

「散髪ですね。この犬は綺麗にカットされてますし、ブラッシングもされてます。大切に育てられてますよ」

「ということは何かの理由で逃げ出して、心無い誰かに虐められたのか」

「あっ、武藤さんからライン来てますよ」

「何か手掛かりでもあったかな」

《今のところ飼い主の情報はありません。わんちゃんの脚はどうでした?》

《骨折はしてなかった。2週間くらいで治るそうだ》

《それは良かったです。いまどうしてますか?》

 有山は犬の写真を撮って送った。

《可愛いでしょ?》

《まぁな》

 胡座をかいた有山の脚の上で、犬は丸くなってすやすやと寝ている。今朝、庭で見た時とは違って、犬は安心して寝ているようにも見える。


「何か困ったことがあったら、夜中でも連絡ください」

 そう言って高橋は自宅に帰って行った。幸いにも明日と明後日は休みだ。有山が犬の面倒を見るには都合が良い。

「月曜日からはどうするかだな」

 放ったらかしにして仕事に行って良いものなのか。有山には見当もつかない。

「会社に連れて行くか?あの所長が良い顔するとも思えないしな」

 分からないことをあれこれ考えても仕方ない。高橋に聞けば簡単に解決することだ。

「どうも腹が減ると思ったら晩飯を食ってないぞ」

 翌日が休みの夜、つまり金曜と土曜の夜は行きつけの小料理屋で少し贅沢に食べて飲むのが有山の唯一の楽しみだ。カウンターの一番奥が有山の指定席で、3つ年上の女将との会話も目的である。

「今日は諦めるしかないな」

 普段通り自炊をするため、冷蔵庫を覗いてみる。

「生姜焼きだな。アスパラと人参で野菜スティックも作ろう。確かバーニャカウダのレトルトソースが・・・うんあるぞ」

 有山は案外器用に料理が出来る。早い時間に仕事が終わるので、外食店はどこも開いていない。一人暮らしになってからは、自分で料理をするようになった。


「そろそろ寝るか」

 缶ビールの後、赤ワインを1本空けた。有山が家でこんなに飲むのは久し振りだ。犬には少し前にえさをやった。高橋に教えられた通り、硬いフードに缶詰を混ぜてやるとあっという間に食べた。そしてまた有山の膝に乗って寝ている。

 2階の寝室に犬を抱いて上がり、押入れから布団を出して敷く。そしてこれも高橋から聞いた通り、座布団をすぐ近くに並べる。水とペットシートは部屋の隅に置いた。

「おい、寝るぞ」

 犬は部屋中の匂いを嗅いで周り、水を少し飲み、ペットシートでおしっこをした。

「へぇー。飼い主によく躾けられてるんだな。脚が痛いのにちゃんと出来たじゃないか。よし。ここで寝ろ」

 有山が犬を抱き上げ、座布団に乗せるが、気にくわないのか畳に降りてしまう。もう一度乗せるがだめだった。

「飼い主の家ではどうやって寝てるんだ?」

 有山が見てると、犬は何とか掛布団の上に登り、辺りを慎重に嗅いでから丸まって寝てしまった。

「おいおい、そこで寝るのか?」

 有山はどこか嬉しそうだ。犬を端に寄せ、布団に潜り込む。仰向きで体勢を決めると、犬は有山の顔近くまで這い上がって来て丸まった。柔らかい毛が顎に触れてくすぐったい。

「これじゃあ眠れないな」

 心地良い重みを感じながら、有山は間もなく鼾をかきはじめた。


「そうか、犬か」

 今日は休みだが、長年の習慣で有山は朝早く目が覚める。向う脛の辺りが重たく感じ、上半身を起こすと丸まった犬がいる。顔を上げて有山を見ている。

「おい、よく寝たか?」

 犬はゆっくり起き上がると、頭を下げお尻を高く上げて伸びをしてからその場で激しくぷるぷるをした。有山に近づいて匂いを確認、隅のペットシートまで歩いておしっこを始める。かなり溜まっていたようで、寝る前より長くかかった。色も濃い。

「お前を見てると、俺も我慢出来なくなるよ」

 有山が立ち上がると、水を飲もうとしていた犬が動きを止めて有山を見てくる。

「分かったよ。待っててやるからゆっくり飲みな」

 有山が布団に胡座をかくと、安心したのか犬が水を飲み始める。時間をかけて半分程を飲んだ。

「よし下に行くぞ」

 ペットシートを取り替え、器に水を足して有山は犬を抱いて急階段を慎重に下りる。有山がトイレから出てくると、犬は扉の直ぐ近くで寝て待っていた。ガーゼを取り替えてやる。

「まだ朝飯には早いな」

 ポットでお湯を沸かし、卓袱台の座椅子に座ってテレビをつける。キャスターが今週の出来事を手際良く伝えている。政治家の失言がトップニュースだ。有山の暮らしに関係するものはなさそうである。

 お湯が沸騰して来たので、マグカップにコーヒーパックをセットする。お湯を注ぐだけで本格的なレギュラーコーヒーが飲めるので重宝している。熱湯を何回かに分けてゆっくりと注ぎ、小皿で蓋をして暫く蒸らすのがコツだ。季節に関係なく、朝はホットと決めている。

「あーー旨い」

 コーヒーを飲み終わる頃には腹が減って来る。トーストにフルーツと牛乳。有山の休日の朝食は健康的である。

「お前も腹減ったか?」

 かりかりフードに缶詰の残りを混ぜる。匂いで分かったのか、犬が起き上がって尻尾を振っている。鼻先の下辺りに器を置くと、お座りをしようとするが、脚が痛いのか途中でやめてしまった。

「ほら食えよ」

 犬は有山の顔をじっと見て更に尻尾を振るが、えさを食べようとしない。

「ここ。ここだぞ」

 有山が器の縁を人差し指の爪で“こんこん”と弾くと、これを合図に勢いよく食べ始めた。時折顔を上げて奥歯で“がりっ”と噛んだり、噛まずに飲み込んでしまうこともある。空になっても名残惜しそうに器を舐めている。そして舌を出し入れして余韻を味わった後、鼻を中心にして長い舌で右左と口の周りを何度も舐める。水の器を2階まで取りに上がるのは面倒なので、今食べた器にミネラルウオーターを入れてやると、少し旨味が残っているのか飲み干してしまった。


「さて、何をするかな」

 土日の予定は特にない。有山は普段なら買物を兼ねてショッピングセンターをぶらぶらし、フードコートで昼食を食べたりする。シネコンも併設されているので、月に1-2回は映画を観る。

 有山は独身で彼女はおろか、親しい女友達もいない。女性と出会う仕事でもなく、職場の女子社員との接点はほとんどない。かと言って積極的に女性に声を掛けるのは苦手だし、お見合いパーティーに参加するのも億劫である。結婚はしたいと思うが、絶対かと言えばそうでもない。

 犬を置いて出掛けて良いものか。有山には見当がつかないので、高橋にラインで聞いてみた。

《朝夕のごはんと水を切らさなければ出掛けても大丈夫ですよ》

 昼でも夜でも出掛けられるようだ。ただ膝の上で丸まっている犬の背を撫でていると、放っておくのも可哀相な気がして来る。

「怪我のこともあるからな。今日は家にいてやるよ。そのかわり月曜から俺は仕事だからな」

 結局、有山は日曜日に1時間ほど近くのスーパーに行っただけで、あとは家で犬と過ごしたのだった。


「班長もすっかり犬好きになりましたね。先週の金曜は犬に興味がないとか言ってませんでした?」

「俺はあいつの怪我が心配なだけだ」

「名前を考えないといけないですね」

「犬のか?」

「そうですよ。呼びにくいでしょ?」

「あの犬にはちゃんとした名前がある。2週間ほど面倒見るだけだから、そんな必要ないだろう」

「班長、手放せますか?」

「俺は犬を飼うつもりはないからな」

 本日の収集場所に到着し、話しはそこで終わった。

 収集作業が終わり、センターに帰る車内で武藤がスマホを操作しながら呟く。

「飼い主は見つからないかも知れないな」

「武藤。どういうことだ?」

「色んなサイトを見てるんですが、該当する情報が無いんですよ」

「今時電柱に貼り紙で“迷子犬探してます”なんてやらないですからね。ネットの方が確実ですよ」

「つまり飼い主は探してないというのか?」

「何か事情があるのかも知れないですけど」

「ちゃんと世話してるって言ってたじゃないか。大事な飼い犬がいなくなって、探さない訳ないだろう」

「もしかしたら年配の人で、ネットとか分からないのかもですね」

「仕方ない。俺は怪我が治るまでは面倒見るが、あとは関係ない。保健所にでも引き取ってもらうさ」

 高橋が急に深刻な様子なる。

「班長。保健所が引き取った犬はどうなるか知ってます?」

「そりゃあ暫く預かって、飼い主を探すんじゃないか?お前の言う通り飼い主がお年寄りなら、保健所に行くだろうよ」

「そういう保健所もありますけど、私達の最寄りの保健所はそんなことやってませんよ」

「じゃあどうなるんだ?」

「・・・おそらく、1週間もしない内に“殺処分”です・・・」

「さつしょぶん?」

「殺されます。何の罪もない犬が殺されるんですよ」

「まさか。そんなこと・・・」

 有山は言葉が続かない。武藤も高橋も押し黙ってしまった。気不味い雰囲気のまま車はセンターに到着した。


「おい。帰ったぞ」

 有山が帰宅時に声を掛けるのは何年振りだろうか。例え犬でも待っていると思うとやはり嬉しい。一方で何か問題が起こってないか不安でもある。

 玄関と居間を隔てる引き戸の磨りガラスに、犬が尻尾を振っている姿が透けて見える。普段は開けっ放しだが、犬が三和土に落ちないよう閉めて出掛けた。

「元気なようだな」

 有山が靴を脱いで引き戸を開けると、犬は体勢を少し低くして、激しく尻尾を振り出した。有山の帰宅を喜んでいる証拠である。

 犬を抱き上げて居間を見回すと、トイレシート2か所におしっこの跡がある。長いウンチが1本、シートから畳にはみ出している。

「おいおい。ちゃんとシートの中でしろよ」

 言葉とは裏腹に有山は笑みを浮かべ、いそいそと洗面所から雑巾を持って来た。ウンチをトイレに流し、トイレシートを取り替える。1枚では狭いので、2枚並べる。

「これではみ出さずに済むぞ」

 雑巾で畳をごしごしと拭き、ほとんど無くなっていた水を足してやる。

「ちょっと早いけど、晩ご飯にするか」

 朝が早かったので、良い頃合いかも知れない。有山は最初の頃“エサ”と言っていたが、いつの間にか“ご飯”に変わっている。独り暮らしになってから、寂しさを紛らわすため独り言が多くなっていたが、犬が来てからは一層増えた。

 今朝、高橋に言われたように、名前がないと確かに呼び掛けにくい。有山には名前の前に考えなければならないことがある。飼い主が見つからなかったらどうするか。保健所が駄目なことは有山も理解した。今では恐ろしいことだと思っている。

「俺にこの“子”を飼えるのか?」

“犬”ではなく“子”と呼んでいることに気付き、有山は苦笑いをしてしまった。目の前の犬がとても愛おしく感じられ、思わず抱き上げて頬ずりをした。目を細めて嫌そうな素振りに見えたが、その後有山の口を2度舐めた。もう一度同じことをすると、やはり2度舐める。犬に顔を舐められたのは生まれて初めてであった。

「俺のことが好きか?」

 もう一度頬ずりをしようするが、今度は顔を背けて嫌がる。畳にそっと下ろすと、勢い良く全身を震わせぷるぷるを始めた。

「決めた!名前は“ぷる”だ!」

 その夜、有山はぷるを布団の中に入れ、何とも言えない温もりを感じながら眠りに落ちた。意識が遠のく間際、有山は“飼い主絶対見つかるな”と呟いたような気がした。


「おはようございます。班長、わんこの様子はどうですか?」

「おはよう。今朝もガーゼを交換したんだけど、傷は大分良くなってるよ。歩く時も右脚をさほど気にしていないように見えるんだ」

「それは良かったですね。もう少ししたら、散歩に行けますよ」

「高橋。今日の仕事終わりにうち来ないか?」

「良いですよ。わんこの様子も見たいですし」

「出来たら武藤にも来てもらおう」


「すっかり班長に懐いてますね」

 ぷるは武藤と高橋の匂いを少し嗅いだだけで、有山の足元で尻尾を大きく振って喜びを表している。有山が頭を撫でてやると満足そうに目を細めている。

「今コーヒーを淹れるからそこに座って待っててくれ」

 有山は3人分のお湯をポットで沸かし、ぷるの晩ご飯を用意する。かりかりフードに缶詰を混ぜたものだ。

「さあ“ぷる”、ご飯だぞ。よく噛んで食べるんだぞ」

「班長、すっかり親バカじゃないですか」

「高橋、そこじゃなくて。班長は今“ぷる”って言ったぞ」

「ぷる?班長、名前付けたんですか?」

「あぁ。体をぷるぷるするからぷるだ。お前たちが言うように、呼ぶ時に名前がないと不便なんでな」

「でも、脚が治ったらどうするんですか?」

「ぷるを飼うことに決めた。そのことで今日来てもらったんだ」

 有山はぷるがこの家に来てからのことを詳しく話し、心が次第に変化したことを説明した。

「ぷるには本来の飼い主がいて、もしかしたら必死で探しているかも知れない。勝手にぷるを飼ったりしたら何かの罪になるのかと思ってな。それで2人に相談したかったんだ」

 武藤が腕を組んだまま眉間に皺を刻んで話し出す。

「難しいですね。怪我をした迷子犬を保護した班長の行為は間違ってないんですが、仮に捨てられた犬だとしても勝手に自分のものには出来ないと思うんですよね」

「占有離脱物横領ってやつでしたっけ?」

「高橋、難しいことよく知ってんな。でも犬を捨てたやつも悪いんじゃないのか?」

「もちろんです。動物愛護法違反になりますね」

「どっちも罪に問われるのか・・・」

 有山は納得がいかないと苛立ちの溜息を吐く。暫く沈黙が続いた後、武藤の提案で迷子犬や捨て犬の保護をしているNPO団体に相談することに決めた。


 NPO団体の代表は丸々と太った50前後の女性だった。とにかくよく喋りよく笑う。有山の行為を褒め、有山の決心に涙して感動していた。

「有山さんのような方が増えれば、この世から不幸な犬がいなくなります」

 ぷるをひょいと抱きかかえ、代表はぷるの顔に激しくすりすりする。最初は嫌がるように目を細め首を引っ込めていたぷるだが、代表が顔を離すと「もう一回」とせがむように頬を舐めた。

「手続上、保護犬として当団体で預かります。あくまで書類上だけの話です。有山さんにはボランティアとしてこのままぷるの面倒を見て頂きます。1ヶ月間、元の飼い主をホームページ上や保健所に問い合わせて探します。見つからなければ、有山さんを引受人として譲渡手続きをします」

「もし飼い主が見つかったら・・・」

「今それを考えても仕方ないでしょ?じゃあうちで預かって、飼い主が見つからなかったら、1ヶ月後に引き取りに来ます?」

「いやそれは」

「有山さん。ぷるはあなたに頼り切ってますよ。出来るだけそばにいてあげて下さい」


 ぷるが有山の家に来てからちょうど2週間後、高橋に車を出してもらい有山とぷるは犬猫病院に来ている。

「もう大丈夫ですよ。瘡蓋も取れてもう痛みはないはずですよ」

「ありがとうございます。じゃあ、これからは普通に散歩しても大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。体重もちょうど良いですから、しっかり食べて運動をさせてください」

「ぷる、もう大丈夫だ」

「確かこの子は迷子犬でしたよね」

「ええ。1ヶ月預かって、飼い主が現れなければ私が引き受けます」

「それは素晴らしいことです。ぷるくん。優しいパパで良かったな」

 ぷるは大きな欠伸をしてから激しくぷるぷるをした。有山は久し振りに満ち足りた気分であった。


「班長、どうでしたか?」

「うん。もう普通でいいみたいだ。高橋にもいろいろ面倒かけたな」

「いえいえ。これで有山班は全員犬好きですね。そうだ!まだリードを買ってなかったですよね?」

「そうだな。散歩に行くには買わないとな」

「今からショッピングセンターに行きませんか?」

「でもぷるは連れて入れないから、車で待ってるから買って来てくれるか?」

「ぷるも一緒に入れますよ」

「そうなのか?」

「専用の入口があって、ペット用品とかトリミングだけならOKですよ」

「この首輪とお揃いがあればいいんだがな」

「班長。値段見たらびっくりしますよ」


 結局同じものはなかったので、首輪とリードを揃いで新しく買い替えた。有山は値段の高さに驚いたが、更に上もある。

「班長は散髪、どこ行ってます?」

「カットとシャンプーだけの散髪屋があってな。髭剃りも肩叩きも無駄だよ。その代わり1600円と安いんだよ」

「ぷるは班長の半年分近くしますよ」

「本当か⁈ お前んちはよく3匹も面倒見てるよな」

「うちは家族4人とも働いてますから」

 ショッピングセンター内の公園で初めての散歩を体験し、フードコートのテラス席で2人と1匹のディナーを楽しんだ。もちろん有山の奢りである。


 土曜日の午後、有山は自宅からゆうに2キロはある公園に初めてぷると散歩に来た。大きな花時計があり、広い芝生広場では子供達が走り回っている。カラフルなテントがいくつも張られて、疲れたお父さんが寝てたりしている。

「わんちゃんを触っても良いですか?」

 小さな女の子が有山を見上げ、興味津々で聞いて来る。少し離れたテントでお母さんが会釈をしている。

「どうぞ。良いよ」

 女の子の目線に合わせて有山もしゃがみ、ぷるが飛び掛からないよう念のため首輪を掴んでおいた。

「うわー可愛いー。お名前はなんて言うの?」

 首の辺りをこちょこちょしながら女の子がぷるに聞いて来る。いきなり頭を撫でないところは、犬の扱い方が分かっているようだ。

「ぷるです」

 有山は腹話術よろしく、口を開けずに裏声で答えた。

「ぷる?私はひなこよ」

 女の子は有山の存在を忘れたかのように、ぷるに話し掛けている。自分にもこんなに優しい一面があったのか。有山たちの仕事を子供たちが近くでじっと見ていることがよくある。ゴミ袋をいくつも収集車の投入口に放り込み、ひょいとステップに飛び乗って「オッケー」と叫んで親指を立てると車が動き出す。男の子にとってはかっこよく見えるらしい。

「危ないからあっち行って!」

 有山はそんな言い方をいつもしていたが、これからはもっと優しく接することにしようと思う。

「ねえ、おじさんってば!ぷるは男の子?女の子?」

「男の子だよ」

「どうもすみません。ひな、もう帰るよ」

 お母さんが礼を言って女の子を連れて行き、女の子は首を後ろにひねってぷるにいつまでも手を振っている。


 ぷるのおしっこはペットボトルの水で流し、人とすれ違う時はリードを短く持つようにしている。いくら小型犬でも怖いと感じる人もいるのだ。最近は信号待ちの時にお座りをするよう躾けている。ぷるは必ず有山の右側を少し遅れて歩く。高橋が言うには「よく躾がされている」そうだ。

 ぷると暮らすようになってから、有山の生活に張りが出て来た。平日は帰宅後に近くを散歩し、休日には遠くまで足を伸ばす。時にはおにぎりと玉子焼きのお弁当を持ってお昼を公園で食べる。ぷるには好物のジャーキーだ。


「あのー、ちょっとよろしいでしょうか?」

 有山がぷるのうんちを慎重にポリ袋に入れていたら、後ろから声を掛けられた。

「はい?」

 ゆっくりと立ち上がって振り返ると、有山と同い年くらいの女性が恥ずかしげに立っていた。

「突然お声掛けしてすみません。お連れのわんちゃんのことでお尋ねしたいのですが」

 ぷるの話題なら有山にとっても大歓迎である。

「どうぞどうぞ」

 以前ならしどろもどろになるところだが、今の有山は余裕で応えることが出来る。それにしてもさっきの女の子といい、ぷるは余程可愛くて声を掛けたくなるのだろうか。

「実は犬を飼いたいと思ってまして、トイプードルが良いなと。それで実際に飼ってらっしゃる方にいろいろ聞いているんです」

「そういうことでしたら何でも聞いてください」

「ありがとうございます」

「もっとも、私も飼い出してから一月にもならないんですが」

「あっそうなんですか。でも赤ちゃんではないですよね?」

「ええ。この子がいくつなのか分からないんですがね」

 有山はぷるが庭に紛れ込んだ日からのことを掻い摘んで説明した。女性は驚いたり笑ったり、時に涙ぐみながら有山の話しに聴き入った。

「素敵なお話ですね。わんちゃん、あっお名前は?」

「ぷるです。よく全身をぷるぷるするからぷるです。そして僕は有山と言います」

「まあ、ぷるくんなんですね。可愛いお名前。私は原田と申します」

「ぷるくんって、よく男の子と分かりましたね?」

「いえ、あのー。ちらっと見えたものですから・・・」

 原田は顔を赤らめて下を向いてしまった。

「失礼」

 有山も気不味くなって、話題を変えようとするが見つからない。

「もしよろしければ何ですが、ぷるくんのリードを持たせて頂けませんか?」

「良いですよ」

 有山がリードを原田に渡すと、ぷるは2人の顔を交互に見て不思議がる。

「ぷるくん。お散歩しましょ」

 原田が歩き出すとぷるもついて行く。一度有山を振り返ったが、尻尾を大きく振って軽やかに歩き出した。どうやらぷるは原田を気に入ったようだ。

「まあ、お利口さんね」

 原田は少女のようにはしゃぎ、時に小走りになってぷるとの散歩を楽しんでいる。原田の笑顔が眩しく、有山は心の奥に小さな火が燈るような温もりを感じた。

「いつぶりだろうか・・・」

 有山は胸の鼓動が高まり、唾が飲み込みにくくなる。原田がぷると駆けて来る。

「ありがとうござました。とても楽しかったです。ぷるくん、ありがとう」

「あのーもしよろしければ何ですが」

 有山は原田と同じ言い回しをしたことに気付き、顔が赤くなる。原田もくすっと笑う。

「もう少し、そのー、散歩をしませんか?」

 単調な日々の繰り返しでも自分らしいと思って暮らして来た有山だが、今手が届きそうな所に違う風景が見える。ぷるに続いて原田も有山の暮しを変えてくれる予感がする。

「はい」

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迷子犬プル @qoot

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