3.11 一般家庭の備忘録

常陸乃ひかる

3.11

発生

 

 私は目を開けたり閉じたりして、お布団に束縛されていた。自室のパイプベッドの上で、非番ひばんの有意義な時間を、いたずらに消費するのは心地良すぎた。

 

 ――

 私の寝ぼけ眼をこじ開けたのは、目覚まし時計でも、母親の声でもなかった。

 不気味なほどわずかな振動、と言えば説明は不要だろうか。

 けれど、気に留めるほどの揺れでなかった。過去に何十回と体験してきた微弱な地震を皮切りに、私は折り畳み携帯電話を開いて時刻に目をやった。

 やれ、もう十五時前である。


 二、三度あくびを発し、パイプベッドで上体を起こす。私の脳内にはまだ、深夜までプレイしていたオンラインゲームの余韻が残っていた。

 指先が届いてしまうほど低い天井に両腕を伸ばし、若者アルバイター特有のだるさを感じながら呼気を整えてもなお、起床ラッパにしては風情がない、微弱で長めの振動は続いている。


「あれ? 長いよ、長いよ?」


 不意に、居間でテレビを観ている母親が、私が心に留めていた思いを音声化した。収まらないどころか、実家の材木たちが軋みを上げ始めているではないか。


 ――いや、違う。

 これは収まる、収まらないの話ではなさそうだ。揺れはどんどん強くなり、二十数年間で体感した、震度3はすでに超えているのはわかった。

 震度4――震度5――いけない、明らかに様子がおかしい。これ以上は未知の領域だと察したのだろうか、母親の声も大きくなり、


「ちょっと! ちょっと! 止まらない! ひかる!」


 てにをはを失った、尋常ではない母親の音声おんじょうが私を呼びつけ、眠気は完全に吹き飛んだ。揺れ続ける家の中、薄めの羽毛布団を放り捨て、パイプベッドから飛び降り、よろめきながら自室の隣の居間へ移動すると、そこにはパニックに陥った母親の姿があった。落ち着かせる暇もなく、別室からは「わああああ――!」という祖母の叫び声が聞こえた。


「婆ちゃん! こっち! 早く、こっち来な!」


 母親が叫ぶと、程なく祖母が這いながら居間へ移動してきて、家族が合流した。

 が、顔を合わせたからといってどうなるのだろう? 母、子、祖母は三人、なす術もなく大黒柱にしがみつき、リアルな『ドンガラガッシャン』が静まるのを祈るしかできなかったのだ。

 また、『身を守る』なんて行動、未曽有みぞう足下あしもとでは思いつきもせず、『外へ逃げる』なんて愚行、おののきで強張る体では到底無理だった。 


 そう考えると、大震たいしんの中でまともに機能していたのは視覚くらいである。

 私の目線の奥にある台所の漆喰しっくい壁が崩れ、接していた二メートルほどの食器棚がくの字に折れ曲がる様が、スローモーションに映った。タンスの上から小物が落ち、蛍光灯が消え、仏壇のおりんや位牌がひっくり返る。

 天井、壁、床。見知った光景が壊れてゆく。視界の中で家が破壊されてゆくのだ。

 その時、私は初めて死の恐怖を知った。


 ――無数に散らばる薔薇バラの枝の上で転び、体中がとげまみれになった幼少時代。

 スポーツカーにかれた小学生時代。

 虫垂炎にかかり、腹痛に耐えかねて吐物とぶつが宙を舞った中学生時代。

 数ある過去の失態が、どれもこれも生易しい笑い話と化すほどの恐怖だった。


 実家とともに墓標になるとさえ覚悟した、たった二分弱が、寝起きの私にとってもいやに長く感じられた。そのうち揺れは収まってきたが、震度1が永遠に続くのかと不安に駆られる長い――永い揺れだった。


 不意に、ホコリともカビとも取れぬ、嗅いだことのない異臭を覚えた。

 薄暗い居間、先ほどまで鮮明な映像を映していたテレビは、黒い板と化していた。

 四方からは、パラパラとちりほこりが落ちる音が断続的に聞こえてくる。

 なにか鋭利な物を踏んだのだろう、足の裏に鈍い痛みがあった。

 口の中は――妙に甘く、乾ききっていた。


 2011年 3月11日 14時50分過ぎ。

 どうやら、常陸乃ひたちの家の住人は被災者になったらしい。

 そして――運良く、生きていた。

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