箱の向こう側の彼女

月之影心

箱の中の彼女

 俺は山中信介やまなかしんすけ

 社会人3年目の25歳。

 配偶者無し。

 一人暮らし。

 『独身貴族』というほど優雅な生活を送れるほど収入も無いが、仕事以外で誰にも拘束される事の無い今の生活に不満は無い。


 これは今から25年程前…まだインターネットがアナログ接続しか無かった頃の話。

 とあるチャットルームで一人の名前に引き寄せられて、毎晩のように文字だけのチャットに興じていた。




 希世:お疲れさま。今日は遅かったんだね。




 このハンドルネーム(HN)『希世』がその相手。

 3年前、突然姿を消した幼馴染の寺本希世てらもときよと同じ名前だ。


 俺は希世に惚れていた。

 幼い頃から一緒に過ごしてきて、小学校を卒業する頃にはハッキリとした恋心を抱いていた。

 中学高校と思春期を迎えても希世は幼い頃と変わらず俺の傍に居て、友人にも俺と希世が付き合っていると信じている者も少なくない程仲も良かった。

 高校を卒業し、それぞれ進む道が変わって住んでいる場所が離れても頻繁に連絡を取り合い、仲の良さは続いた。

 就職が決まり順調に大学の卒業が決まった時、俺は希世に告白をした。

 希世は涙を流しながら笑顔で『ありがとう』とだけ言った。

 返事を聞かないまま数日後に希世から手紙が届き、『ごめんなさい』と告白を断られた。

 諦め切れなかったその時の俺が希世の住んでいるマンションへバイクを飛ばして行くと、既に部屋は引き払われていて誰も居なかった。

 実家に戻ったのかもと、そのまま地元まで走り、自分の実家のすぐ近くにある希世の家の前まで来たが、玄関前に立てられていた『売家』の看板を見てその場に膝から崩れ落ちた。

 自分の実家に戻り、いきなり現れた息子に驚く母親にも尋ねたが、何も知らされていなかったようだった。

 告白をした日から、俺は希世に会っていない。


 当然、チャットルームに居る『希世』が幼馴染の希世と同一人物である可能性は低いと思っている。

 田舎の町内ならいざ知らず、インターネットという世界中と繋がっている中では、それこそ本名とHNを合わせれば同じ名前の人などいくらでも居る。

 それでも、惚れた女性と同じ名前を見て『ひょっとしたら』という薄い望みを持った事は否定出来ない。




 SHIN:残業になっちゃってね。




 俺のHN『SHIN』は勿論本名の一文字を取っただけ。

 『希世』の名前を見た時、本名の『信介』で入ろうと思ったが、もしこの『希世』が本当に幼馴染の希世で、俺の名前を見ただけでログアウトされてしまってはそれこそ立ち直れないと思い、かと言って洒落た名前も思い付かなかったので、安直に『SHIN』とした。




 希世:大変だね。今忙しい時期なの?


 SHIN:そうでもないんだけど、今日はたまたま。


 希世:あまり無理しないでね。


 SHIN:大丈夫だよ。ありがとう。




 チャットで知り合った『希世』との会話は特に深いものは無く、ごく普通の世間話が殆どだった。

 仕事の話、ニュースにあった話、テレビで観た話等々、目の前に居る友人と時間潰し的に交わすような話をチャットでしていただけだ。

 そんなどうでもいい話題のやり取りだったにも関わらず、『希世』は毎回のように『楽しかった』『勉強になった』と喜んでくれていた。


 それでも、他愛も無い話をしながらこの『希世』が幼馴染の希世なのかを知りたい気持ちが薄まる事は無く、何時どのタイミングで話を切り出そうかとそればかり考えていた。




 SHIN:来月出張で福岡に行くんだ。


 SHIN:今度は名古屋…まったく人使い荒い会社だよ。


 SHIN:先輩の代理で横浜に行かなくちゃいけなくて。




 実際そんな出張など一つも無いのに、日本全国の誰でも知っているような地名を出して探りを入れた事もあった。

 近くの地名が出れば何らかの反応があると思ったが、思い付く地名を出し切っても、どの交通機関で行くのかとかどれくらい時間が掛かるのかとか、逆に国内に住んでいないのか?と思ってしまう程だった。




 『希世』とチャットを始めて半年程過ぎた頃、『希世』が不思議な夢を見たとログを打ってきた。




 希世:同い年位の女の人が目の前に居るんだけど何も言わないの。


 希世:何も言わないんだけど…


 SHIN:けど?


 希世:何を言おうとしてるのかが伝わってくるのよ。


 SHIN:何て言ってたの?


 希世:私の立っている場所と替わって欲しい…って言ってたの。


 SHIN:立っている場所と?


 希世:うん。それで『どうぞ』って替わろうとしたら笑顔で消えていくの。


 SHIN:何だそれ?


 希世:だから不思議でしょ?


 SHIN:意味分からんね。




 その時は単に『希世』のオチの無い不思議な話というだけで終わっていたのだが、それからまた数日して同じ夢を見たと伝えてきた。




 SHIN:その女の人は知らない人なの?


 希世:うん。会った事無い人。


 SHIN:特徴とか覚えてる?




 俺は『希世』の綴ってきた夢に出てくる女の人の特徴を読んで、マウスを持つ指がカタカタと震えだした。


 『こっちを向いているので正確には分からないが髪は肩より長い』

 『顔もハッキリ見えないけど優しそうな目と口元で柔らかい印象』

 『体形は細め』


 伝えられる文字だけでは漠然としたイメージしか出て来ないが、俺の頭の中では明確な造形が出来ようとしていた。








 希世………。








 希世:どうしたの?


 希世:おーい!


 希世:落ちちゃったかな?




 ふとモニターを見ると、『希世』のログが数行流れていた。

 頭が一気に現実に戻ってくる感覚を覚えた。




 SHIN:ごめん。居るよ。


 希世:あぁ良かった!何かあったの?




 『希世』が見た夢に出て来た女の人は、間違いなく幼馴染の希世だろう。

 しかし何故?

 名前が同じというだけでも無いだろう。

 そもそも、『希世』が本名かどうかも不明だ。

 俺は『希世』に幼馴染の希世の話をしてみる事にした。


 『希世』と同じ名前の幼馴染が居た事。

 就職が決まった後に告白して断られてそのまま会えなくなった事。

 『希世』が夢で見た女の人の特徴が幼馴染の希世に似ていると感じた事。


 少しの間『希世』からのログは来なかったが、暫くして流れてきたログに俺は固まった。












 希世:しんすけくん








 俺は『希世』に本名を教えていない。

 『希世』は俺の本名を知らない筈なのに、ログに流れて来たのは平仮名だけだが間違いなく俺の本名だった。


 頭が混乱した。

 何故俺の本名を?

 震える指をキーボードに乗せ、何とかログを打つ。




 SHIN:希世なのか?


 希世:しんすけくんがすきだといってくれたきよです




 俺の指は動かなかった。

 画面から目が離せなかった。

 何度目かの自動リロードが掛かってログが現れる。




 希世:あのときはごめんね




 何故謝る?

 そんな事はどうでもいい!

 今何処にいるんだ!?

 何でもいいからもう一度会いたい!


 頭の中で言葉が溢れるのに、キーボードに置いた指が動かない。




 希世:わたしもうどこにもいないの


 希世:でもさいごにしんすけくんにあやまりたくて


 希世:おなじなまえのきよさんをかりたの




 何処にも居ない?

 最後?

 『希世』を借りた?

 全く頭がついていかない。




 希世:わたしびょうきだったの


 希世:にほんでちりょうできなくてがいこくにいったけど


 希世:まにあわなかったみたい




 希世が…病気だった?

 間に…合わな…かった…?




 希世:しんすけくんがすきっていってくれてすごくうれしかったけど


 希世:すぐはなれることになるからおことわりしたの


 希世:もどれたらちゃんとはなすつもりだったのに


 希世:もどれなくなっちゃった


 希世:だから


 希世:ごめんね




 つまり…希世はもう…この世に居ないと言う事なのか?

 そんな馬鹿な…。

 だとしたらこのログは一体…。




 希世:もういかなくちゃ


 希世:しんすけくんありがとう


 希世:わたしもしんすけくんがすきだよ


 希世:じゃあね




 待ってくれ!

 まだ話したい事が…。








 どれくらいの時間が経っただろうか。

 俺はモニタのログから目が離せないままで居た。

 気が付けば俺の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。




 KIYO:大丈夫?




 ようやく動くようになった指でタイピングしようとして、『希世』のHNが変わっている事に気付いた。




 SHIN:あれ?HNが…


 KIYO:ん?どうかした?


 SHIN:いや、ローマ字になってると思って。


 KIYO:え?最初からずっとローマ字だよ?一度も変えてないよ?




 そんな筈は無い…と過去のログを遡ってみるが、最初からずっと『KIYO』というHNしか無く、どこにも漢字の『希世』は見当たらなかった。


 どういう事だ?

 俺は混乱する頭を整理しながら、今起こった経緯を『KIYO』に伝えた。




 KIYO:つまり私の夢に出てきた女の人はSHIN君の幼馴染の希世さんで


 KIYO:読みが同じ私のHNを漢字に見せてSHIN君を此処に引き寄せて


 KIYO:思いを伝えて成仏した…って事?




 まとめきれず細切れにたどたどしく伝えた俺のログを、『KIYO』は冷静に読み取ってまとめてくれた。



 SHIN:うん。信じられないとは思うけど。


 KIYO:いいんじゃない?私は信じるわよ。


 SHIN:普通じゃ有り得ない事だよ?


 KIYO:だって私が見た夢は本当だし、それに…


 SHIN:それに?












 KIYO:私の本名『希世』だから分かるよ…ねぇ『信介』君




 俺の目は、『KIYO』から流れてきた自分の本名から離れなくなった。

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箱の向こう側の彼女 月之影心 @tsuki_kage_32

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