06話


 浸るように自分の拳を見下ろす姿に、枝薙えだなぎは開いた口が塞がらなかった。


 正常な思考をしているなら、そんな結論に辿り着くはずもない。

 一切の関りを断って、視界の端に掠りでもしたらきびすを返して逃げましょう――。


 それが正しい生き方いしきのはずだ。


 だというのに、この一見気の抜けた印象すら抱かせる素朴な少年は、真逆のことを口にした。自ら地獄に足を踏み入れることが重要なんだと……。


 ――やっぱり君も覚者かくしゃなんだな。


 それは改めて事実を確認したというよりは、その事実を収める場所を見つけたような、そんな思いだった。


 そんな心境など露知らず、まだ思考の海から浮かんでこないでいる結紀ゆうきに、枝薙はこれ見よがしに大きく息を吐いた。



「――はぁ……分かった、分かったよ。分かったから、そんな思い詰めたような顔をしないでよ。僕の方が居た堪れなくなるじゃないか」


「あっ。いや、すまない。枝薙にまでやってほしいとかは考えてないから」



 疲れを滲ませた顔で肩を落とす枝薙に、結紀は慌てて弁明した。


 申し訳なさそうに下がった眉尻に、まるで自分が苛めているみたいじゃないか、と枝薙は小さく口を尖らせた。



「頼まれたってやらないし、やれないよ。そんな自殺まがいのこと。僕にできるのは、さっきも言ったように注意喚起――それと情報を渡すくらい」



 何気なくつけ足された言葉に、結紀は一瞬何を言われたのか理解できなかった。

 キョトンと呆けている間の抜けた顔に、枝薙は苦笑と溜息を混ぜ合わせて続けた。



「せっかくこうやって知り合えて、手まで握れたんだ。知らなかったなら、それだけのことだけど……もう知っちゃったからね。聞こえないフリをするのだって結構苦しいもんなんだよ?」



 小首を傾げて下から覗き込んでくる姿に、結紀は目を見開いた。


 その顔には、ずっと目の前にあったものに今になってようやく気がついたような、自分の愚かしさへの驚きが広がっていた。



「……そうだよな。これじゃあ俺が巻き込んでるようなもん……もん、っていうか、そのものだ。すまない……この話は聞かなかったことにしてくれ」



 丸くなっていた瞳は、痛みに耐えるように細められ、その奥に鈍い陰りが走る。

 唇を噛み締めて自身の迂闊さを呪う結紀に、枝薙は苦笑を深め、ゆるゆると首を横に振った。



「言ったでしょ、もう知っちゃったって。それに情報を渡すだけで、僕自身が対峙するわけじゃないから。

 情報をどう使おうが君の自由だし、あわよくば君が解決してくれるかも……なんて期待もないではないしね。なんにしても、もし危なくなったら、真っ先に尻尾を巻いて逃げさせてもらうよ」



 深々と頭を下げる結紀の肩をぽんっと軽やかに手で打って、枝薙は狡賢ずるがしこそうに笑ってみせた。


 その努めて明るく振舞う姿に、なおのこと自分のしでかした過ちを見せつけられるようで、結紀は苦いものを口いっぱいに詰め込んだ気分になった。


 しかし、他でもない自分で詰め込んだ以上、吐きだす先なんてあるはずもない。



「……すまない。それと、ありがとう」



 口に広がる苦みを胸の内で重苦しく渦巻く罪過と一緒に飲み下し、結紀は一層深く頭を下げた。


 どうにも融通の利かないその様子に、枝薙はどうしたもんかと頭を掻いた。

 放っておいたら日が暮れても下げ続けていそうで、そうなったら悪者にされるのは間違いなく自分だろう。


 さっきから黙ったままの二人が、結紀の背後から針のように研ぎ澄まされた視線を送ってくるのに、冷や汗が止まらなかった。


 誰かに助けを求めたくても、この場にある選択肢は二つで。どっちを選んだとしても、話しかけた瞬間、地獄に叩き落されるのは目に見えている。


 まだくだんの女生徒は会っていないはずなのに、すでに人生の袋小路に追い詰められようとしている我が身を嘆かずにいられなかった。


 ――この学園になんて生き物はいないんだなぁ……。


 悲しい現実と向き合い、一つ成長できた気がした枝薙は、涙を呑む代わりに唾と一緒に緊張を飲み下して、未だに沈んでいる結紀を掬い上げることにした。



「そんな気に病まなくていいよ。彼女が君の言っている通りの人なら、どうせ近いうちに巻き込まれることになっていたと思うし。そう考えたら、少しでも早いうちから準備ができるんだから、むしろ良かったよ」



 肩に手を添えて、押し上げるように上体を起こさせた枝薙は、迷い犬のような頼りない顔をしている結紀を元気づけるようと笑いかけた。


 自分より大きな体の相手を励ますのが、なんだか落ち込んだ大型犬を構ってやっているみたいに思えて、口の端がムズムズして緩みそうになるのを枝薙は必死に戒めた。


 ――こういうとこが、彼女たちからすると可愛いってなるんだろうな。


 尻尾と耳をしゅんっと垂らしたラブラドールみたいになっている結紀の背後で、ユクとココが鼻息を荒く、どっちが彼を慰めるかで静かに壮絶な争いを繰り広げている。


 過剰なまでに慕われている様子は微笑ましくもあるが、決着がいつになるかも分からないし、あの争いに自分が巻き込まれないとも限らない。


 この場合の沈黙は死を意味するだろうと早々に結論を出した枝薙は、今思いついたように、そうだと手を打ち合わせて口を開いた。



「それにしても、やっぱりこの学園のシステムってよく分からないよね。

 君みたいなお人好しで、虫を殺すのさえ躊躇いそうな人がAクラスにいて、人も虫も変わらないって感じの、悪意とか暴虐の塊みたいな例の女性がDクラスなんだもんね。ははっ、はははっ、は……あ、あれ?」



 自分に続いて朗らかな乾いた笑い声が聞こえてくるものだと信じていた枝薙は、なぜか広がった沈黙に視線を彷徨わせた。

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