第2節 人と獣

01話



      §      §      §



 ――じくり、じくり、と。



 まるで体に開いた穴から血がにじみ、こぼれていくような寒気があった。


 心臓が脈打つのに合わせて――じくり、じくり、と。


 悪いことに、その穴は心臓の真上にあるようで、勢いが衰える気配はない。

 ただ、淡々と体の内に溜まった膿を吐きだすように、何か……結紀ゆうきにとって大切な何かを、休みなく溢れさせ続けている。


 ――ぞくっと。体は指先一つ動かないにもかかわらず、背筋を走った悪寒に全身の毛が針みたいに逆立つのを感じた。


 体の内側、そのさらに奥――。


 肉体の裏側にある根源のような、己を己たらしめているモノにその穴は通じていて、そこからが零れていっているような、耐えがたい寒気――。


 ――これは、良くないモノだ。


 結紀はその根拠を探す前に、ただ漠然と、それが自分にとって望ましくないことだと本能的に感じ取った。


 もしこれが止まらなければ、いずれ自分は虚空に消えるだろう、と。


 だが同時に、それをどこか懐かしく感じている自分がいることにも気づいた。


 しかし、それがどういうことなのか……。

 なぜ取り返しのつかない心細さに震えることが、思い出の中にだけ存在する公園で顔も影に覆われてはっきりしない幼馴染と再会するような、居た堪れない煩わしさに身が竦む思いと似てるいのか……分からない。


 分からないが、まるで治ったはずの古傷が思い出したように膿み始めたみたいで。掻き毟り、抉りだしたくなる。



 耐えがたい痛痒さが肌の下で蠢いた――じくり、じくり、と。



 生きたまま血を抜かれるような悍ましさに、文字通り血の気が失せていくのを感じる。


 でも、それだけなら……恐怖は『死』に対してだけだ。



 ――なら、耐えられる。


 ――だって、“それ”は知ってるから。



 ……けれど、体はそれが結紀のものだと忘れてしまったように、どれだけ意志を込めようと微動しなかった。


 そこで、はっと気がついた。

 体を包むように這いずる、黒い何かに……。


 恐怖は別のところから這い寄ってきていた――じくり、じくり、と。


 まるで細胞を一つひとつ侵され、塗り替えられるような感触。体の表面を嘗められるように纏わりついてくるそれは、明らかに自分とは違う、外側のモノだった。



 ――やめろ……。



 また一つ、心臓が波打った。零れ落ちた何かが戻ることはなく、自分がどんどん欠けていく。


 まるで隙間風に晒されるような心細さに、声に出せないまま悲鳴を上げていた。



 ――やめろ。



 しかし、その悲鳴は欠けてなくなっていく自分へのものではなかった。

 欠けて、消えていく自分……そのほころびに、黒い何かが滑り込み乗っ取ろうとしていた。



 ――やめてくれ!



 闇よりなお暗い混沌から生まれたような悍ましいそれが、粘菌のようにざわざわと身を震わせながら結紀の体を隙間なく覆っていく。


 まるで、自分が自分でない何かで作り変えられていく感触。


 その何かは、結紀を黒く染めながら進んでくる……心臓に開いた穴へ――じくり、じくり、と。


 どれだけ願っても、どれだけ訴えても。それが止まることはなく……まるでそうプログラミングされているだけのように、淡々と、容赦なく、結紀をむしばんでいき――穴の淵に触れた。




 ――じくり、じくり。






「やめろぉ!!!」



 耳を覆いたくなるような叫び声を上げながら、結紀は上半身を跳ね起こした。


 周りに人がいるかも、などと気を遣う余裕もない。体を覆っていた布を払い除け、自身の体に手を這わせながらくまなく観察する。


 指先、腹、そして胸。


 どこにもあの黒い何かが貼りついていないのを確認できたところで、ようやく周囲の状況が目に入ってきた。


 血走るほど見開かれたまなこに映ったのは一面の白。壁も床も天井も、几帳面なまでに潔癖な白色はくしょくで染められた空間だった。


 大きく開かれた口が戦慄き、荒く掠れた息を断続して吐きだす。全身を伝っていく汗は、体の震えを増長させるように恐ろしく冷たかった。



「こ、ここは……?」



 誰に尋ねたわけでもなく、零れ落ちた疑問はそこらに転がり、拾われることなく白色の空間に沈んで消えた。


 なぜ自分がここにいるのか理解できず、そもそもここがどこなのかも判然とせず、結紀は無意識に心臓を守るように胸に手を押し当てながら辺りを見渡す。


 そこでようやく、回りを覆っている白い壁だと思っていたものが、ベッドを囲んでいるカーテンだと気がついた。と同時に、部屋中に纏わりついている清潔さと執拗さを履き違えたような、良し悪しもすべて塗り潰す薬品の匂いに顔をしかめた。



「医務、室……なのか?」



 確かめるまでもなく、ここが怪我人や病人が運び込まれる何処いずこかであることを、結紀自身確信していた。それもこれも、この独特な臭気のせいで……。


 ――瞬間、脳裏で緋色ひいろが弾けた。


 同時に襲いくる、頭蓋を内側から火かき棒で削られるような頭痛に、結紀は両手で挟むように頭を抱えてうずくまった。


 固く絞った目蓋の裏で、見たくもない映像が明滅する。



 ――注射器、拘束台、よく分からない器具、自分を見下ろす顔の見えない影たち。


 ――窓のない部屋、存在しない部屋、人のいない部屋。


 ――消えていく子供たち、消えていく家族たち、消えていく僕たち。



 心の奥底に押し込み、忘れてしまえと、二度と明るみに出てこないように幾重にも鍵をかけていたはずの記憶が次々に溢れだしてくる。



「ぁ、ゔ、ぁあ゛……ッ!」



 歯の根が合わず、カチカチと空虚な音が耳朶じだを響く。


 全身を流れていく汗が廃棄油みたいに粘ついている。どれだけ大きく肩を上下させて新鮮な空気を求めても、喉は掠れるばかりで上手く息を吸ってくれない。



「あ゛あぁぁぁ――!」



 頭痛と酸欠で暗く渦巻く視界に、抑えきれなくなった恐怖が慟哭と嗚咽になって溢れてくる。



 ――思いだすな、思いだすな、思いだすなッ!


 ――ここは違う、あそこじゃない! もう、あんな思いをすることはないんだッ!



 しかし、どれだけ自分に言い聞かせても、一度開いてしまった記憶の蓋が閉じる気配はまるでない。


 堰を切ったように押し寄せてくる汚泥のような記録は、容赦なく今の自分を飲み込まんと迫り――、



「――ユーキッ!」


「――結紀!」



 同時に聞こえてきた二つの声によって、いとも容易く打ちはらわれた。


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