25話



      §      §      §



 二人は無言のまま、さりとて急いでいる様子でもなく、変わらない立ち位置を維持したまま廊下を進んでいく。


 言葉がないのは何も、両者の間で空気が軋んでいるからというわけでもなく。

 ただ、どこか居た堪れなさというか、気持ちを向ける所在がないことへの気まずさが、声が言葉になる前にかき乱して霧散させていた。


 しかし、このままでいるわけにもいかず、昧弥まいやは小さく息を吐き、振り返らずに声をかけた。



「……手間をかけさせたな」



 ――何を、とは言わなかった。


 背後から垣間見る顔つきにも、そのしゃんと伸ばされた背筋からも、気の乱れを微塵も感じさせることはないが……余人が立ち入ることのない領域で、ダニアは確かに主人の沈みようを感じ取っていた。


 その様子にダニアは声には漏らさず、口元を淡く緩めて微笑んで答えた。



「……主人の裁可を妨げる愚行。如何なる理由があろうとも、従者の分を超えることは疑う余地もありません。――如何ようにも処罰を」



 歩みを止め、膝をついて深くこうべを垂れたダニアに、昧弥も同じく足を止め、半身で肩越しに従者を見下ろす。


 その潔さに、というよりは融通の利かなさに、今度こそ隠すことなく大きく息を吐いた。



「いい、必要ない。――いや、違うな。どちらもだった。ああ、これが正鵠せいこくだろう。故に、謝罪は不要だ。罰もない……むしろ褒美を出すべきだろうな」



 額に手を当てながら渋く顔を歪める昧弥に、ダニアは言葉を挟むことなく、僅かな揺らぎも見せないまま静かに主人の決定を待った。


 その在りようは、同じく昧弥にもそれと定める芯を言外に求めていた。

 故に、言葉にしないまま流すということはあり得ず、昧弥は一度瞑目して言葉を切ると、正面からダニアに向きなおり忠臣に向けて言葉を下賜かしした。



「――よく止めてくれた。……あのままであれば、学園側との衝突は避けられなかったろう。道祖夕里みちのやゆりに対してか、あの少年に対してか……あるいはその両方にか。いずれにしろ気が昂っていたようだ」



 我が身を顧みず、何よりも、それこそ主の心情よりも、真に求むべき益を優先し、あの場を治めて見せた自らの腹心を、昧弥は至上の言葉でねぎらった。


 すべてを捧げたあるじからのほまれに、しかしダニアは黙したまま誇ることもせず、そうあることが当然であると、ただ粛々しゅくしゅくと拝受した――表向きには。


 その実、主からの言葉が一つ重なるたびに、背筋から脳髄へと駆け上がる絶頂に至福を極め、腹の底から湧き上がるマグマのように粘性を帯びた熱に蕩けていた。


 ――あぁご主人様! 昧弥様! 昧弥様昧弥様昧弥様ッ、昧弥様ぁ……ッ!


 地殻の底で蠢く焦熱しょうねつを人が気に留めることがないように、ダニアの滾りもまた、余人に知られえるところではない……。


 ただし、それはダニアという存在の性根を覗き得ない、外からの見識で測った場合の話。


 誰よりも近く、誰よりも深く。


 己が最も信を置き、傍に侍らせる従者を――その心根を、昧弥が知らぬはずもなかった。


 絵にすれば『清き乙女』とでも表題タイトルがつけられだろう振る舞いの裏に、鉄を蒸発させるような炎を確かに感じながら、昧弥はその匂い立つ熱気を努めて無視した。



「確かに今のうちにアレを手中に収められれば、随分と動きやすくはなったろうが……あの先を見せるにはまだ早い。まだ、その時ではない。

 ――だが、は十分に撒いた」



 昧視線をダニアの頭部に注ぎながら、思考は今後の流れをどう繰るかに費やす。


 あれだけ派手にことを荒立てたのだ、どれだけ勘の鈍い者でも自分たちの存在に気づいただろう。

 それは同時に、無視できない存在が学園の中に沸いたことを知らしめ、動くきっかけを作ったことにほかならない。


 だとすれば、そう遠くないうちにだろう。

 ケモノに堪え性など、あるはずもないのだから……。



招待状メッセージは送った、会場はすでにある。であれば、私たちはその時に備えて支度を整えるのみだろう……。ではダーニャ――湯浴みの用意を」



 何気なくつけ加えられた最後の言葉を、ダニアは一瞬飲み込むことができず、言葉をなくしたまま顔を跳ね上げていた。


 主人からの命に返答をなさないという従者としてあるまじき失態を晒し、そうと気づきながらも言葉が出ずに固まったダニア。

 その熱に蕩けた頬に手を添え、昧弥は誘うような笑みを浮かべながらそっと顔を近づけて囁いた。



「浴場での世話の一切を任せる。これを以って褒美とする……存分に味わといい」


「ああぁ……ッ!! 仰せのままに……」



 全身が溶け堕ちるような愛欲に身を焦がしながら、ダニアかろうじて蒸発しなかった意識を総動員で繋ぎ止め、なんとか言葉を紡いだ。


 目を細めた昧弥は、従者の熱情を確かめるように頬を一撫でし、羽織を翻してきびすを返す。



「だが、その前にまずは昼食だ。ダーニャ、今日の献立メニューは?」


「――はい。本日は自家製サラミを使用したパニーニをご用意致しました。お飲み物はフォションのアッサムを……」



 振り返ることなく歩きだした主人の背に、ダニアも今度こそ淀みなく答え、まるで何事もなかったように続いた。



 その歩みに僅かな陰りもなく、進む先に迷いなどあるはずもなかった――。


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