10話
そこらの半端者ならば、死を覚悟する間もなく一瞬の内に醜悪な怖気に飲まれ、正気を失っていることだろう。
しかし、
両者の視線が絡み合い、空間が軋む。それは気迫による幻覚などではなく、現実として二つの世界がせめぎ合っているかのように、二人の中間で景色が歪んでいた。
まるでガラスにヒビが入っていくように、それは世界の崩壊を予期させるにたる、確かな
「……はぁ~。止めだ、止め! これ以上やっていたら部屋がもたん。……だが」
顔を俯かせ、大きく息を吐きながらガシガシと頭を掻きむしる。
――しかし、道祖にも学園の長としての責務と矜持がある。故に、引き下がりはしても下出になることはあり得ない。
「いつまでも隠し通せると思わないことだ」
道祖は髪の隙間から獣のごとき眼光を覗かせて、そう釘を刺し、威圧感を収めた。それと同時に、塞き止められていた悍ましい気配が部屋を埋め尽くす。
空気が腐り、床が汚濁に埋まり、すべてが地獄へと塗り替えられていく。その抗いようのない気配に、道祖は表情を硬く強張らせた。
「やはり尋常ではないな。少し緩めただけでこれか……。私と同等か、あるいはそれ以上か」
「……フンッ」
何気ない一言に、
「驕るな。私が貴様程度に力むなどあり得ん」
その言葉に道祖は目を見開き、歯噛みする。言われたままを信じるほど純真であるはずもないが、それでもあり得ると思わず頷いてしまいそうになった。
それ程に、昧弥から今なお漏れだす
「まぁ少しは貴様も肩の力を抜くといい。顔が強張っているぞ?」
「……ッ!」
歯を剥きだして笑う昧弥に、小さく舌打ちをする。維持で覆い固めていた顔に僅かな亀裂が走り、恐怖が覗いていた。
それを察した道祖は瞬時に感情を押し殺し、悟られないように小さく息を吐く。
これ以上相手のペースに乗せられるのはまずい、このままでは危険を冒してまで対面になるように呼び出した意味がなくなってしまう。
――ここが無理のしどころだ。
道祖は意趣返しの意を込めて無理矢理に笑みを浮かべみせた。
腹に力を入れ――ほざけ、と。
「
数拍、二人の視線が絡み合い――次の瞬間弾けた。
「……ふ、くくっ。ハッハッハッ!」
脅しとも取れるその言葉を昧弥は笑った。
「なんて稚拙な見栄! 涙ぐましい努力に思わず拍手を送ってやりたくなるな!」
態度を隠すことなく、昧弥は肩を揺らしながら体を仰け反らせ、背後のダニアへ嘲笑に歪み切った顔で話しかけた。
「聞いたかダーニャ? 私のジョークは子供受けが悪いらしい! こいつは傑作だ! ああ、傑作だともッ! どうりでなぁ……くくっ。
ダーニャ、
「なぁッ!?」
あんまりな
「まことに申し訳ありません。
「ああ、そうしてくれ」
息の合った主従のやり取りに、頬が一層熱くなるのを感じながら、道祖はキッと視線を尖らせて二人を射抜いた。しかし、そんな子供のじゃれなど意にも介さず、昧弥は笑みを広げたまま視線を戻した。
「ここまで馬鹿笑いをさせられたのは久しぶりだ。今の私は機嫌がいい。もしかしたら、質問によっては答えてやらんこともないぞ? ん?」
その言葉に道祖は一息で冷静さを取り戻した。
道化に褒美を取らせるような物言い。完全に下に見られているが、言い換えれば昧弥が調子に乗り、足元が疎かになっているとも取れる。
もし上手い一手を繰りだすことができれば、今までの積み重ねられた屈辱を晴らし、あのいけ好かない
何より――負けっぱなしは性に合わない。
道祖は静かに目蓋を下ろした。生まれた一拍の沈黙の間に、全力で頭を回し、あらゆる可能性を模索する。
自分たちに必要なことは何か。
この場ではなくこの先で、僅かでも益を得るために今やっておくべきことは何か?
それを引き寄せるために、昧弥の口から何を言わせればいい?
一つ、小さく息を吐き、目蓋を開く。――腹は決まった。
道祖はテーブルに突いた片肘に体重を預けると、やや前のめりの体勢になって挑むように口角を吊り上げた。
「……お前、学生だよな?」
質問は実に簡潔だった。
その飾り気のなさに、思わず虚を突かれた昧弥の表情が固まった。しかし、それも一瞬のこと。すぐさま思考の隙間を塗り潰し、小馬鹿にした笑みを浮かべなおす。
「ついに
「お前のここでの身分は学生だよなって訊いたんだ。イエスかノーで答えな」
しかし、すでに流れは傾いていた。
その確かな手応えを感じ、道祖は笑みを深める。
昧弥の言葉を遮れるなど、数秒前までは考えられなかった。それが自分でも分かるだけに、今の状況が愉快でたまらない。
たとえ痛みなどない蚊の一刺しだとしても、一矢報いたのだ。
それでも綱渡りのような状況には変わりない。背中を伝っていく汗の冷たさが、それを突きつけてくる。だが、体が震えているのは恐怖からだけではない。
――これは武者震いだ。
こんな暴挙を押し通されても昧弥は質問に答えざるを得ない。
悍ましさが傲慢という服を着て歩いているようなこの存在が、自身の言葉を反故にできるはずがない。それが後々の自らの弱みになることも知っているだろう。
道祖には、その確信があった。
「ほらっ、どうした? そのよく回る舌ならすぐだろう。さっさとしな」
交差する二人の視線は、先程までとその色を違えている。
片や虚勢で覆いながらも優位にあることを確信して愉悦に塗れ、片や先程までの高慢な喜色は影を潜め、感情を読み取らせない冷徹さで覆われている。
先程の
時間にすれば、沈黙は僅か数秒のこと。
両者の思惑が複雑に絡み合い、これからの力関係を暗示する一つの導となる一幕――その幕を切ったのは当人たちではなかった。
「主の恩寵に甘えておきながら……随分と増長したものですね」
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