02話


 ――コッ


 靴底が床を叩く硬い音が響いた。


 自然と全員の意識がそこへ集中する。

 開かれた扉を潜ってきたのは艶やかな黒髪の女性だった。


 齢はおそらく十六程。年の頃だけを見れば、まさに女として花開くため、ゆたかにつぼみを膨らませている只中にあるはずの少女だ。


 背丈は一七〇ほどで濡羽ぬれば色の髪をうなじの長さで切り揃え、均整のとれた体を学園指定の制服で包んでいる。


 肩には乾きかけの血のような、蘇芳すおう色の羽織がかけられ、しゃんと伸ばされた背筋と堂々たる歩みからは、思わず目で追ってしまう貫禄が感じられた。


 しかし、この場にいる者が彼女から目が離せなかったのは、そのカリスマ故ではなかった。


 ――こいつだ。


 誰一人として疑う者はいなかった。


 今この瞬間、自分たちを圧し潰している絶望も、ここ一週間ほど常に感じていた精神にヤスリをかけられているような苦痛も、すべてはこいつが原因だったのだ。


 確信は明瞭な真実に変わり、より深い絶望へと引きずり込む。


 皆、ことここに至っては受け入れるよりほかなかった――もう逃げられない、と。


 女生徒は教卓の脇まで進み、カツンと一際大きな音を立てて振り返った。



「――ッ!?」



 僅かにも悲鳴が漏れなかったのは奇跡だった。それほど、彼らの目に映ったものは常軌を逸していた。


 切れ長で涼しげな黒の瞳、スッと通った鼻筋。すべてのパーツが奇跡的なバランスで整っている。


 女神、天使、どのように形容しても劣りはしない。

 そこには芸術的な美しさがあった――ただし、


 えぐれ、切り裂かれ、焼けただれ。


 傷が傷を覆い、絡み合い捻れ……いったいどれだけの傷がそこに刻まれているのか、もはや判別することはできない。


 対面から見て顔の正中線より左。明らかに意図されて片側に集中されている傷跡は、今では血を流すこともない古傷となっているが、それが余計に刻まれたときの凄惨さを想像させた。


 どれだけに壊せば、ここまで醜悪なかんばせが作れるのか……。


 右側が目を見張るほど端正なだけ、左側の目が腐るような惨たらしさを際立たせた。


 目を反らしたいのに離れない。己を己たらしめている根幹、自身が世界に立脚するための根が一秒毎に侵食されていく。


 その生きながらに死んでいく悍ましさに耐え切れなかった。


 生徒たちは自らを守るため、自らの命を終わらせようとし――、



「あ゛~、そうだな。……とりあえず、自己紹介とか……いっとく?」



 おもむろに聞こえてきた担任の声に踏み止まることができた。


 呼吸すら儘ならない生徒たちが口を利けるはずもない。故に、自ら死刑に名乗りを上げたような担任に、驚愕すると同時に心の中だけで最大限の謝意と称賛を送った。


 ――先生ッ!


 彼らの間に確固たる師弟の絆が結ばれた瞬間だった。


 しかしそれも束の間、感動を共有するより早く、新たな声が投げられた。



「では。僭越ながら、わたくしからご挨拶させていただきます」



 生徒たちの視線が一斉に反れる……いや視野が広がったと言うべきか。


 確かに先ほどまではいなかったはず、気づかなかったというにはあまりにも大きな存在感。いつの間にか黒髪の女性のそばには、金髪のメイドが侍っていた。


 黒髪の方も女性にしては長身だが、メイドの方はそれに輪をかけて背が高い。おそらく一八〇を超えているだろう。


 肩口が軽く膨らんだ黒のロングワンピースに白のエプロンドレス。煌びやかな金髪を上部で緩やかにまとめる白のキャップ。


 今時、創作物の中でしかお目にかかれないクラシックな姿だ。


 メイドは一歩前に進み、なおかつ主人の一歩後ろに控えたまま、両手でスカートの裾を軽く持ち上げ膝を曲げた。



「皆様、お初目にかかります。私、こちらにおわしますさかい家当主、界昧弥さかいまいや様にお仕えし、侍女じじょ女中頭じょちゅうがしらを勤めさせていただいております。

 瓜月うりつきダニアと申します。どうぞ気軽に、ダニアとお呼びください。

 以後、よろしくお目見えのほどを」



 この場で実際に見たことのある者はいない。しかしそれを差し引いても完璧な身のこなしだと見入らずにはいられない、堂に入ったカーテシーだった。



「―――」



 だが、生徒たちからの反応は一切ない。


 それも致し方ないこと。どれだけその格好や所作が目を引くものだったとしても、その隣に心臓を鷲掴みにするような存在がいたのでは反応のしようがなかった。


 しかし、そんなことは気にも留めず、つつがなく礼を終えたダニアは再び主人たる界昧弥の脇に控えた。



「それでは。皆様、お控えください。あるじよりお言葉をたまわります」



 そして、あまりにも無慈悲な宣告を届けた。


 もし体が動いたなら、全員が肩を跳ね上げて怯え慄いたことだろう。

 あのメイドは、つい今し方初めて顔を合わせた人間に、そうあるのが当然だと、言外に跪くことを要求したのだ。


 その意は生徒たちにしっかりと届きはしたものの、この場にそれを実行できる者はいない。そもそも体は動かず、息をすることも儘ならないというのに、どう跪けというのか……。


 だが、彼らが動けないことなど意に介さず、事態は粛々しゅくしゅくと進んでいく。

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