人工精霊《タルパ》は踊る
黒一黒
第1章 悪逆の華
第1節 慟哭と産声
01話
思い返してみれば、ここ一週間の教室の空気は最悪だった。
いや、教室だけではない。
学園のどこにいても何か言いようのない不安や焦燥に苛まれ、いつもなら笑って流すような小事に声を荒げて
まるで自身の奥底に眠る本能が、見えぬ何かに怯えているかのように……。
その日も朝から一波乱あり、生徒の一人が医務室送りになっていた。
まだ軋むような緊張感が教室を満たしている。つい先程までの殺し合いの残り香が気を昂らせ、血の気の多い者同士がいつ拳を振り上げてもおかしくない状況だった。
「……チッ!」
張り詰めた空気が耐え切れなくなったのか、鋭い音が空気を弾いた。
誰かに向けたものではないのは明らかだった……ただそれを何事もなく流すには、教室の空気が淀み過ぎていた。
「んだよ?」
「なんでもねぇよ、うっせぇな。こっち見てんじゃねぇ」
「あ? テメェが突っかかってきたんだろうがッ!」
刺々しい言葉が飛び交う。同時に周りの椅子や机がガタガタと震えながら軋み、それに呼応するように空中で火花が散った。
すぐに彼らの周りにいた多くの生徒が壁際に避難する。気の弱い者や
「……席に着けぇ」
溜まり、淀んだ空気が決壊する寸前――音を立てながら前方の引き戸が開かれたのは、まさにその
塞き止められていた汚水が穿たれた穴に向かって流れていくように、生徒たちの視線が一斉にそちらに向けられた。
のそりと、重量を感じさせる足取りで入ってきたのは、教鞭を振るうには不要な、ともすれば不穏に思われるほどガタイのいい男だった。
裾に汚れの染みついた白衣姿に、生徒の多くが小さく安堵の息を吐く。
教師として有能さはさて置き、戦闘力だけなら学園の内でも屈指の実力者だ。
そんな男を敵に回してまで暴れるような輩が、このクラスにいないことを生徒たちはよく知っていた。
「あ~……その、なんだ」
しかし、安堵に浸る間もなく生徒たちは首を傾げた。
普段の男ならその力に見合った横暴さで生徒たちを黙らせ、王座にでも座っているように踏ん反り返っている頃だ。
それが、歯切れ悪く口の中で言葉を濁しながら視線を教卓の上に彷徨わせている。
「急なんだが……このクラスに、転入生が来ることになった」
その尋常ではない様子に、怪訝な表情をしていた生徒の幾人かがはっと気づいた。
――怯えてる。
男は冷や汗を垂らしながら、チラチラと横目に何度も自分が入ってきた扉を確認していた。まるで扉の向こうに恐ろしい
男は恐怖を飲み込むように大きく深呼吸をすると、ぐるりと教室を見回した。
「色々と聞きたいこともあるだろうが、何も聞くな。俺から言えることは一つだ。絶対に歯向かうな――死ぬぞ」
「は? 何言って」
「黙ってろ。いいか、何があっても道端の仏像みたいに固まって、ただ無事に通り過ぎてくれるのを祈ってろ……運が良けりゃあ生き残れる」
誰一人として納得どころか理解すらできていなかった。
ただ、嫌というほどその実力を知っている担任教師の鬼気迫る表情に、口を開くことができなかった。
「よし」
身勝手にも沈黙を了解と受け取って頷いてみせたが、男にとって現状の危うさが伝わったか否かは問題ではなかった。
ただ、事前に警告はしたという事実を作ることで、何か起こっても自身の責にはならないように予防線を張ることが目的なのだから。
「ふぅ……入ってくれ」
自分の中にあった僅かな葛藤を吐きだし、覚悟というよりは諦めることを決めて、男は扉の向こうに声をかけた。
「――失礼いたします」
聞こえてきたのは
扉越しにでも分かる、しなやかで優美な声音。
身構えていただけに、その美しい音色は生徒たちを困惑させた。思わず先程までのいがみ合いのことも忘れ、お互いに顔を見合わせるほど。
どこか居心地の悪い空気が広がっていることを知ってか知らでか、間を置かずにカラカラと軽い音を立てて扉が開かれた。
――瞬間、空気が凍った。
その場の全員が意図せず教師の警告を守っていた――否、守らざるを得なかった。
体が動かないのだ。
できるならすぐにでも顔を伏せて、視界を閉ざしてしまいたい。しかし、指先一寸、瞬き一回、僅かでも動くことを体が頑なに拒否していた。
目を反らすな、目を反らした瞬間、この
いや、今すぐここから逃げろ。
でなければ身を隠せ。息を殺し、気配を消し、鼓動を止めろ。
目をつけられたが最後、生まれてきたことを必ず後悔する。
相反する命令が脳内を埋め尽くし、動くことも考えることも儘ならない。
理性と本能が引き剥がされるような嫌悪感に襲われ、業火にくべられるような苦痛が全身を蝕んだ。
しかし、今にも正気を失いそうな生徒たちは捨て置かれ、無情にも現実が止まることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます