3頁 物語は産声を上げる

 夜。風呂を済ませた奏宴はさっぱりとした表情で和室の方へと向かう。ギシギシと軋む床。手には、奏宴が気になっていた記事が載ってある資料のファイル。喜一がなぜ、人が変わったような振る舞いをとったのか、奏宴は気になってはいた。


 ふすまを開ける。和室には誰もいなかったが、外側のふすまが開いており、外の景色と縁側が見える。祖父はそこにいた。蒸し暑かったはずの風が、今はどうしてか涼しく感じる。生暖かく、しかし涼しげな、不思議な風。土のにおいが鼻に染み渡る。


 何もいうことなく、奏宴は喜一の隣に座る。縁側の床は古く、しかし滑らかで、冷たかった。ちらりと奏宴の横顔を見ては、「その資料持ってきたのか」と一言。


「一応、ね」とつぶやくように言う。晴れ渡った夜空には幽玄なる満月が光として庭と縁側を照らしていた。その幻想的な優美さ前に、ひとつの詩が思い浮かびそうなほど。


 祖父は空を見上げる。何かを思い返すように、何かに浸るように。


「その記事を読んで思ったことはあるか?」


 突然、そう言った。半ば首を傾げた奏宴は、


「まぁ、ちょっと変わった話だったね。ただの災害でも、そんな風になるなんておかしいし、人工的にも、そんな技術が昔あったわけじゃないし……形容とは言っても龍や神様っていう名前が出てくる時点で不思議というか、おとぎ話みたいな感じ」


 そう言うと、喜一は大きく笑った。なにがおかしいのか、奏宴にはさっぱりだったが、すぐに理解する。


「はじめて読んだら、そう思うだろうなぁ」

「おじいちゃんの……私たちの家系が関係している記事なの?」

「さぁどうだか。けど、その記事自体とは関わっているよ。とってもね」

 一瞬どういうこと。だが、すぐに答えは出る。


「もしかして、この記事を書いた人……?」

 祖父はうなずく。懐かしむように、うつむいた。

「ああ、私たちの御先祖様が遺された原文を歴史的文献の一つとして記されたものだ」

「ご先祖様ね……」

 それだけ遠い昔の人が書いたもの。記事とはいえ、複製されており、また年号や日付は書かれていない。何年前の出来事なのかわからなかった。


 最後に名前がある。Kikeno.U――キケノという記載者が、鳴園家の祖先にあたる人なのかと、奏宴は不思議な気持ちに見まわれていた。まるでこの記事を書いた人物が目の前にいるかのような感覚。その記事に手を触れた。


「確か4000年前だろう。場所は遠く離れているが……」

 紀元前どうとかの話ではない、現実離れした数字。それだけの大昔のことが記事になっているとは到底思えない。

 何かの言い間違いだろうかと彼女は祖父の言い間違いだと仮定して話を進めた。

「それは確かに大昔ね。でも、どこの国を調べても、サルトなんて国、紀元前でもなかったわよ? アミューダっていう地方も大陸も、名前だけなら検索していろんなのヒットしたけど」


 数年前よりもはるかに発達した検索エンジン。しかし、国名で該当したものはないに等しく、ファッション店や海外の地方名ぐらいのものだった。

 喜一は優しく笑う。月明かりで皺に陰りが入り、より深く見える。


「言うただろう、遠く離れていると」

 その言葉の意を察する。だとすれば4000という数字もあながちおかしくはない。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、奏宴は口に出してみる。

「まさか、別惑星って言わないでしょうね。その年でボケは冗談にもならないからね」

「私がアルツハイマー型の認知症を患っているとでも?」

「ぐ……その言い草は言い返したいけど」

「まぁ、奏宴の言うとおりだ。サルトという国も、その出来事も、ご先祖様も、この地球上には存在していなかった。別の惑星、というのも考えられるけど、どちらかといえば、別の世界の出来事だ」

「別世界って。どこかのファンタジーじゃないんだし」

「けどね、この記事をどう説明する。私が子供の頃に、祖父に教わったことだ」

 真剣に話す祖父に対し、これだから老人は、と半ばあきれる。

「それが本当だとしたら、ご先祖様の子孫は何かをきっかけにこちらの世界へと移ってきて、そのときにその別世界の記事も遺品として持ってきたってことかしら?」

「そういうことになるだろうな」


 奏宴は呆れ果て、夜空を見上げては息を吐く。自分の祖父は頑固ではないが、少し変わっている。


 信じられない。


 否、それに近いサイエンスフィクションともファンタジーともいえない――つまり現段階の学問では説明しがたい不可思議な現象がこの惑星にとどまらず宇宙で起きていることを奏宴は思い返す。


 どちらかといえば、世界中の叡智が集まっても証明の域に達することができない難解な事象の方が多いため、喜一の言うことには何とも言えない。だが、自分の遺伝子の根源がこの世界からじゃないとなると、いろいろと複雑な気持ちになる。


 本当のところ、どうなのだか。ここで起きた出来事だろうと、別の場所で起きた出来事だろうと、奏宴にとってはどうでもいいことであった。


「実際、ネットや文献にすら載っていない情報なんてごまんとあるからね、そのアミューダ地方のサルト事件も、歴史の空白としてあったって、別におかしくはないでしょ。別世界っていうほうがおかしいし」


 奏宴の言葉に対し、「そうか」と一言。静かな笑みだった。


「奏宴も二十歳を過ぎた。もう話してもいいだろう」

 ふう、と息を吐く。

「なにを?」と聞き返す。その声にはちょっとばかりうれしげな、期待を込めたものが含まれていた。瞳には疑問と、ちょっとばかりの少年のような輝きを持っていた。


「物語をだ」


 それを聞いた途端、さすがにそこは現実じみていたかと、少し肩を落とす。そのついでに少しだけからかってみた。

「なんかの伝説の剣とか、禁忌の魔導書とかじゃなくて?」

「一度精神科行ってこい」

「うるさい」

 意外と辛辣な返しだった。

 二年前にパラノイアと診断されたわよ。そう言おうとしたが、そういえば自分の症状について祖父に話していなかったと口を噤み、冷や汗をかく。紛らわすため、すぐに本題に戻った。


「それで、その物語ってなんなの? このおとぎ話みたいな記事のことについて民謡化されたものとか、小説化したものとか」

「最期にご先祖様が書かれた逸話……世間には知らされていない、サルト国の真実が書かれている」

「……へぇ」

 その顔は内心驚くも呆れる、という言葉がふさわしい。「歴史の真実、ていうこと?」


「そう。厳密にいえば、情報として知らされていない事実を寓話化したようなものさね」

「それは……ちょっと気になるわね」

 逸話。誰も知らない歴史がこの記事に隠されていると、奏宴は少し興味を抱いた。それを知れば、祖父が「サルト事件」はこの世界ではなく、別世界で起きた出来事だと拘る理由がわかるかもしれない。


「歴史というのは真実を述べているわけじゃない。人々に受け止めてもらえるように記された、誰かが記した日記帳に過ぎない。だからこの記事の内容をまともに受け止めては真実を知ることはないだろう。けどね、真実のヒントは人の記した日記帳が示しているんだよ」


 ぱらぱらとページをめくり、祖父はにっこりと笑みを返した。


 稲穂のかすれる音が聞こえてくる。それだけ、風が強いのだろう。わずかな雲の流れが、せせらぎに身を任せる落ち葉のようだった。


 今宵は満月。一切の欠けがないそれは、この世のものとは思えぬ美しさ。唯一、時の流れを感じさせない世界が、そこにある。


 サルト事件。その震災をも、この月は見ていたのだろうか。


「おじいちゃんは、その物語を知っているの?」

「ああもちろん。とても残酷で、だけど綺麗で……哀しくとも、愛おしい物語だったよ。――奏宴、おまえにも、私にも、この世界で生きてきた人々も、一度はあるはずなんだ。あの瞬間、人生が変わった。運命が大きく変わった、とね」

 奏宴はこれ以上口を挟むことも、祖父に尋ねることもなかった。

 祖父は言った。

「代々語り継がれた物語の主人公は、決して私たちの一族ではない。でも、我々の一族だからこそ、"彼ら"の物語しんじつを――愛を見つけることができたんだろうね」


 遙かなる大空。月明かりに照らされた、藍。風に揺らめく、緑。ふたつの世界は境界線を作り、混じり合うことなく分かれている。


 寂寞。音のない大地で、ひとりの人間が遙か昔の物語を語る。


「それでは、私たちご先祖様が遺した逸話を――知らされざる本当の歴史を、おまえに継げよう」


 ――それは、今から4千年前……。

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