翁の花
がらんがらん。
がらがらん、がらん。
揺籃歌と合わせた息づかいをして、電気機関車は鉄の道に対してこのうえなく従順に動作した。幾つかの円運動が同速を維持して、この運動が成り立つ様がわたしには人間らしくて、無性に悲しくなったり安心したりしていた。もう一度あの人に逢うために、わたしは今日も生きている。
「そっか……
わたしの臓器が、細胞が、定められた運動を維持することで、わたしはここに生きている。その成り立ちには、人間と機械という区分が必要なほどの差異はどこにもなかった。ともすれば、人はあらゆる物事を理解したくなる習性から区別をするけれど、差別をするけれど、そもそも“差”とは何なのだろう。どこから見たものであるか、高度は、緯度経度は、いかにして示されるのだろう。
「あの人なら、どう考えるかな……」
それは空想劇のような一抹の現だった。
────────
朝の電車、ひとりでいるときほど気楽な時は無い、一生無いに決まっている。それほどまで、わたしには他者との関係が怖くて仕方がなかった。
なのに、彼らは今日もわたしの前に現れる。
「うっわ、またガイジきたぞ。皆んな迷惑してるからくんなって言ったのに」
「ガイジだからこれだけ言われてもわからないんでしょ。行こうぜ」
毎朝、慣性的な絶望を告げる存在と言葉。
わたしだって、こんな場所に来たいはずがない。一緒にいたくもない、怖い人たちがたくさんいる場所なんて、逃げ出してしまいたい。でも、今だけ耐えればいいのだと、言い聞かせて、今日もわたしは地獄への道を歩む。
最初は何のことかわからなかったが、「ガイジ」というのは障害児の略語、すなわち侮蔑の意を込めて発せられる差別用語らしい。正直、わたしにはその意味するところを否定できなかった、事実としてわたしは障害児だったのだから。それでもやはり、それが侮蔑される理由になるだなんて、正当な理由になるだなんて、考えたくもなかったし、信じたくなかった。生まれてきたこと自体が誤りであるということは、わたしの親さえも否定されていることを意味するから。
座面には砂で象られた靴跡、机のなかにはカビの生えたパン、石ころ、虫の遺骸などが毎回設置されている。とはいえ、今では虫を置かれることはない。普通、女の子は虫を嫌うべきらしいけれど、わたしが最初に抱いたのは悲しみと同情だったんだ。以前、お墓を作ってあげるために骸を手に持つと男の子も女の子も気味が悪そうに離れていったから、わたしのこういうところがやはり嫌われる原因なんだと思う。でも、それでも、わたしが嫌われることで他に嫌われる人が少しでもいなくなるなら、少しは救われるのかもしれない。
トイレの個室にいれば水をかけられたり、鞄に泥を詰められるとか、単純に足を踏まれたり蹴られたり。それで何も言わないから余計に皆んなはムカつくんだろうな。
教師がなにも言わないのは、あの人たちもわたしのことを嫌っているからみたい。わたしが何も答えないから、本当は答えられないだけなのに、お母さん以外の大人にはそれが解らないらしい。先生というのは語義として学識ある指導者であるべきなのに、わたしが心から「先生」と呼べる人には未だ出会ったことがない。なぜならあの人たちは、わたしよりも遙かに饒舌ではあるけれど、無知だから。
わたしの記憶の中には学校の教科書も図書館の本もすべてが揃っている、光景さえも鮮明に描画できる。例えば、文庫本の『カリュノープスの星座』一六四頁には“星の総てがボクの身体であることが自明であるということは、君があの蛇紋岩そっくりであることとちょうど同じようなものだ”という科白があるというのを、わたしは迷いなく答えることができる、もちろん頭の中で。
典型的なサヴァン症候群の症例、それが教師に避けられる要因らしい。なぜ避けられるのかも嫌われるのかも、わたしにはまったくわからないけれど、そういう鈍いところがやはり嫌いなのかもしれない。ただ、当然だけど小学生のテストなど暗記が大半であるから、わたしより成績の良い生徒は殆どいないらしい。その成績という側面においてのみ、教師、というより学校はわたしの存在を認めてはいるみたいだった。
――どうして皆んなは、わたしを放っておいてくれないんだろ……。
休み時間はいつも我慢できるけれど、放課後になると我慢ができなくなるため、いつもわたしは怯えながらトイレに隠れるようにしていた。大したことはないと思える時もあるのに、この時間になると弱いわたしが、本当のわたしが叫ぶ、があがあと、耳障りで不細工な顔をした女の子が睨んでくる。それを必死に抑えて、獣のように呻るんだ。
それがわたし、猫葉祐美の日常だった。
その日常を不躾に侵したのは、ひとりの女の子だった。
「おーい、だいじょうぶー? 何か辛そうな声がするけど、お腹でも壊したの?」
一瞬、心臓が止まりそうなほど締めつけられて、息が止まりそうになってしまう。あの子たちに、あの人たちに見られてしまったのではないかと、恐る恐る見あげた先、見知らぬ女の子がわたしを見おろしていた。
「あら、泣いてるのね。誰か呼んだ方がいい?」
声を出すことはできないから、必死に首を横に振って意思を伝えようとした。けれども、それが気に入らないみたいで、「言いたいことは口に出してくれる、なに、喋れないの?」と返されてしまう。
よく見ると、わたしはその子のことを見たことがない、だから、その子もわたしを見るのは初めてであることがわかった。忘れられないわたしには、瞬時に断定ができたんだ。否定するためにまた首を横に振るけれど、その子はもっと怪訝な顔になった。
「喋れるのに私とは喋りたくないと、転校初日で初対面の相手に嫌われるとはねえ、まあ慣れてるけど」
違う。
それは違う。
わたしが話せないのは、病気だから、そういう病気だからなのに、何も知らないで勝手なこと言わないで。皆んなはいつもそうだ、自らが没個性的になるよう必死に周囲に合わせて、非常口に灯るピクトグラムたちのように日和見主義の姿勢になって、然るべき差異性を糾弾する。斯く在るものの総ては斯く在るべくして在るというのに、どうしてそんなことさえ思い及ばないの? あなたたちの言葉はすべてが間違いばかりなのに、自分の考えなんか信じて決めつけないでよ、押しつけないでよ、違うって、ずっと何度も言ってるでしょ。ずっとずっとずっと――。
どうしてそんなことも、解らないの?
「違う! ……え」
心臓が止まった。
そんな気がして、思わず自分の活動を確かめてしまって驚愕した。今のは、本当に自分の声なのだろうか。
「急に大声出さないでよ、落ちるところだったじゃない。違うって何が、誰か呼んだ方がいいのか、喋るのはもうわかったからいいとして、私のことが嫌いなのかそうではないのか、落ち着いて話してみてよ。わたし、あなたの敵になるつもりなんてないんだから」
ああ……違う。
わたしが嫌いなのは顔のない他人であって、この子ではない。この子には顔がある、わたしという人間を存在して然るべき存在として受け入れている。たといそれが、わたしが嫌われ者であることを知るまでの胡蝶の夢であろうと、それがいまの事実だった。
「へえ、自閉症みたいなものかしらね。確かにコミュニケーションが苦手で、人嫌いなのが態度で伝わるし、空気も読めない子って感じよね」
酷いことを言われている。しかも当たっている。それでもなぜか、この子の言葉にはわたしを傷つける鋭さも横暴さもなにもなかった。
「…………」
だけど、優しさもなかった。
「で、何で泣いてたの? 訊く意味もあまりないけれど」
なぜ無意味なことをするのかと問いたい気もしたが、もう眠ってしまったのでそれは叶わなかった。もういっそ、この子が飽きるまで(呆れるまで)黙っていればいいのかも。
「飽きるまでか、それは困ったわね」
それは手品師が自慢げに種明かしするときのような、明晰に明快な表情で、なんというか、キラキラしていたと思う。でも、勝手に乗り越えて個室に入るのは良くないと思った。
え。
他方、こんな間抜けな声を出してしまいそうなくらい、わたしは喫驚させられた。この反応は、悪戯好きそうな女の子を満足そうに咲わせるには充分だったらしい。
「整理しましょうか。まず、人を呼ぶ必要はない、次に私のことは嫌いではない、そして肉体的に話せないわけでもない、しかし精神、というより脳の病気のために人と話すことは極端に苦手と。どう、合ってる?」
女の子はわたしの考えすべてを見抜いていた、見抜いていながら訊ねたのだろう。その女の子は少し意地悪だった。
「どうしてって、そりゃあそうなるわよね。まあ、あなたは誰とも話さないでしょうし、教えてもいいか。実は私、人の思考が読める超能力者なのよ」
思わず首を傾げた。
第一印象としては、かなり変な人だと思ったけれど、いまは頭のおかしな人じゃないかと思った。いまの科学信奉時代において、フィクション作品のような超能力なんてあまりに稚拙というか、とにかくあり得ようのない話だろうから。低学年ならまだ納得できるけれど、高学年にもなってそんな妄想をするのは痛々しい人だ。
「冗談の通じない子ね……はあ、言っておくけど、私は変な人でも頭のおかしい人でもないし、自分だけは特別だなんて妄想に耽る痛々しい人でもないわよ。だって、私は本当に特別なのだから」
女の子はわたしの反応を楽しんでいるらしい。悪意がないのは伝わるけれど、ちょっと悔しい気がした。どういう仕掛けなのかな?
「ふっふっふ、本当のことを言いましょう。実は私、天才メンタリストなの、あなたの目線や癖を観察すれば考えていることなんてすぐに解ってしまうのよ。テレビ番組で出てくるのはヤラセでしかないけれど、私のは本物よ」
納得できるかと言えば難しかった。だって、そんな能力はもはや超能力と大差ないのだから、先ほどより説得性はあるとしても納得しうる理由にはならない。
でもそれなら、わたしの
「ふーん、ただのASDではなかったのね。うん、確かに何も変わらないかもね。私の能力も他人からすれば病気みたいなものでしょうから、ある意味、あなたは私と同類なのかも。尤も、私の方がより希少な存在ではあるけれど」
その子は、敵意も悪意も持たず純粋なるままに自分以外の人間を見下していた、神が人間を見おろす様に似ている気がした。
「でさ、あなたいじめられてるんでしょ。それで今は耐えればいいんだとか思ってる質なんでしょ?」
あまりにも容赦のない真実だった。だから、思わず否定してしまったんだけど、女の子は真実とちょうど同じ残酷さで言葉を繋ぎ続けた。
「生温い発想ね、あなたが仮にいじめられなくなったところで、あなたが受けてきた屈辱も悲しみも生涯消えないのに。もし、いじめられなくなっても、誰とも話さずに生きてゆけるような場所なんてこの人間社会には存在しない、どの道あなたはこのままだと破滅するのがオチね」
ああ、今にも泣いてしまいそうだけど、泣いては駄目だ、駄目なんだ。この子にはすべてが見透かされてしまう、知られたくないわたしのすべてが覗かれてしまう。それだけで、ここから消えてしまいたくなる。何も言い返せない正しさの暴力は、誤謬や理不尽とは異なる痛みをこの心へ刻んだ。
「抑えきれない涙があるのなら、流せるだけ流しておきなさい。ストレス物質を体外へ放出する機能が作動するということは、身体が過負荷を抱えている証だもの……って、胸を貸すとは言ってないんだけど?」
そう言いながらも、女の子は呆れたのか諦めたのか為されるがままとなって、わたしの頭をゆっくり撫でた。わたしと同じくらい小さな手のひらが、お母さんと同じくらい温かいのが不思議で、余計に服を濡らしてしまうのを謝り続けた。
きっと誰でもよかったんだ。わたしという存在をただ受け入れてくれる人で、わたしの思いが伝わってしまうような相手でさえあれば。
「ねえ、あなたの名前、教えてよ」
最初だった。
この瞬間だけが最初であり、他は最初ではありえない。わたしという
──
「祐美ね、覚えたわ。私は
──陰雨さん、うん、覚えたよ。
「名前で呼んでほしいな、苗字、あまり好きじゃないの」
──え、ああ、うん……昏夏さん。
「うん、それじゃこれからよろしくね」
──これから?
「ええ、これからよ。わたし、あなたに興味が湧いたから暫くは傍にいようかなって」
──でも、わたしと一緒にいたらあなたも仲間外れにされるんじゃ。
「あんなのと仲間なんて、こっちから願い下げね。それに、祐美はわたしの仲間でいてくれるんでしょ? なら、それで問題ないじゃない」
──でも。
もしも昏夏さんまで酷い目に遭ったら、わたしはどうすればいいのだろう。わたしのせいで誰かが傷つくことは、死ぬのとちょうど同じくらい怖いことだから。
「ねえ祐美、さっきはああ言ったけど、祐美は無口なままでも別にいいと思うわ。私はね、いつかこの世界を変えてみたいと思っているの。価値のある人間、そうでない人間の立場をもっと明確にしてみたいなって思ってる。私の世界において、あなたは必要な人材になるはずだもの」
言葉は真っ直ぐだった。
それ故に、危うくて、それ故に、蠱惑的だった。
「で、そんなに心配なら復讐でもしてみる? してみたいと思ったことはあるんでしょうし」
──復讐………。
考えたことがないとは言えなかった、頭の中でわたし以外の人間が酷いことになるのを妄想して虚しくなるのは毎日の出来事で、そこには善性の欠片もなく明確な悪意だけが看取される景色があった。そのすべてさえ記憶には色濃く残り続けるのだから。
「じゃあさ、手伝ってあげようか?」
今日、見てきたなかで一番楽しそうに、昏夏さんは微咲んでいた。まるで、わたしの決断を期待しているかのように。
──駄目だよ、復讐なんて……そんなことしてもお母さんは喜ばないし、あの子たちと変わらなくなってしまうもの。せめて、少し痛い目を見ていじめをやめてくれるようにするとかじゃないと。
「はあ、やっぱり祐美はどこまでも生温いのね、まあいいけど。じゃあ、私そろそろ帰るわね。明日から忙しくなるでしょうし、準備しておかないと」
一体何を準備するというのか、問う前に昏夏さんは姿を消していた。仄かに咲っていた気がする、黄昏時に顔容を染めた花のように。
*
「ヤッハロー、祐美。元気してる?」
事実は小説と同程度の奇妙さでわたしに現象として感取されて、転校生の薄気味悪い清々しさはこの心さえ寒々しく閉口させた。
「陰雨さん、知り合いなのですか」
担任教師は昏夏さんの顔色を窺いながら話しかけている気がした。わたしはわたしで、ずっと昏夏さんの様子を窺っていた。
「まあね、昨日あの子と話してみて面白いなって」
「話す? あの無口な子と?」
教室がざわついた、言葉により注目は転校生ではなくわたしになって、シンボルとなった円たちには一様に「本当なのか?」という疑惑が浮かんでいると見えた。
「嘘つくなよ、あいつこの学校で話してるの誰も見たことないぞ」
ふーんと、なぜか勝ち誇るように腕を組んですべての生徒を見おろした。きっと、見下していた。
「話っていうのは身振り手振りでも伝わるものでしょ? 祐美って考えてることは顔に出やすいしわかりやすいから、声がなくても十全に会話できると思うんだけど」
──昏夏さん⁉︎ そんな恥ずかしいこと話さないでよ!
「ああそれとも、あなたたちのようなコミュニケーション能力が未発達な子には難しいのかな?」
──こ、昏夏さんっ! それ以上は駄目だって! あなたまで巻き込まれてしまったらわたしは、どうすればいいって言うの。
「はあ? 喧嘩売ってんのお前」
「態度わるー、何であんな偉そうなわけ」
主犯となる人間たちが睥睨する姿に、昏夏さんは失笑しながら言葉を続けた。
「ああ、気を悪くしないで。私は悪口を言ったわけでも喧嘩を売ったわけでもない。ただ、客観的な事実を述べただけだからさ。ふふ、それに、事実に対して反論するのって馬鹿げているでしょ? あ、私の名は陰雨昏夏ね、よろしく」
「お前……ふざけんな」
そこで放任的な教師がようやく止めに入る。
「こらこら、そこまでにしなさい。陰雨さんも、あまり騒ぎを起こさないようにしてください」
「はーい、あまり騒ぎを起こさないようにしまーす」
挨拶とも言えない挨拶を済ませて、昏夏さんはわたしの隣に座っていた。昨日まで私の隣には見知らぬ誰かが座っていたはずなのに。もう、なにがなんだかわからなくてどうにかなりそうだった。
「どう、驚いたでしょ?」
──驚くに決まってるよ! どうしてあんなこと言うの……恥ずかしい。
「わからない? 私もあなたと同じようにいじめられるためよ。先に手を出してもらわないと、正当防衛って成立しないでしょ?」
あまりにも頭のネジが外れたような言動に、慄いていた。自分からいじめられたいだなんて、なにを企んでいるのか、わたしにはよくわからなかった。
「わからなくていいのよ、わたしのことはわたしだけが知っている。たったそれだけのことが事実で、この事実があればいいの」
――でも、昏夏さんはわたしの頭を勝手に覗くんでしょ。不公平だよ……。
そういえば、この日は久しく恙ない一日だったな。
翌日以降。
――ねえ昏夏さん、これ……。
「あらら、ちょっと目を離した隙に随分汚れたわね。ほら、呆けてないで掃除しましょ」
昏夏さんが巻き込まれるまでに時間は要さなかった、気づけばわたしたちの机は酷く汚れたお揃いになっていて、それを喜んでいる自分が嫌になりそうだったけれど、休み時間に雑巾で掃除する昏夏さんは不思議と楽しげだった。意図的であるかはわからないけど、おかげでわたしは罪悪感に駆られる必要もなくてどこか安心した。昏夏さんに釣られてか、わたしもこの人と同じ境遇でいられる今が悪いものでもない気がしていた。少なくとも、独りよりはずっと良いものだと実感していた。あんなにも独りの時間を切望していたのに。それから数日間、驚くべきことに昏夏さんは数々の嫌がらせの全てを防いでみせてしまった。
「なるほどね、机、鞄、あと水をかけるとか踏んだり蹴ったりという感じか。このネット普及世代において、なんて旧時代的なのかしら」
予見していたように、昏夏さんはポケットやロッカー各所から代わりとなる折り畳み鞄を取り出していた。机については掃除道具を用意していたし、水かけ対策として折り畳み傘まで用意していた。踏みつけようとした女子の足はすべて避けてしまうし、蹴りは片手で受け止めた上に相手の足を払って反撃までして……まるで漫画に出てくる主人公みたいだった。あまりに周到かつ強かな姿に、本当は神様の子供かなにかじゃないかって気もした。わたしは、ただ眺めているだけ。
彼らの間抜けな喫驚ぶりは、有り体に言って愉快なものだと思ってしまった。本当はわたし、自分で思っている以上に性格が悪いのかもしれない。
「さて、材料は揃ったかな。これはまだ序の口よ、ここからはこっちから仕掛ける。明日の朝は早いから今日はよく寝ておいてね」
言葉はこの上なく簡潔で、意味は不明だったが、意味があることだけは確信できた。昏夏さんは無意味なことを絶対にしない人だから。
彼らは今日の放課後、今までよりも本気で潰すとわざわざ告げに来たけれど、昏夏さんはそんなの歯牙にもかけなくて、「やめておいた方がいいわよ、人生を壊されたくないなら」と、むしろ彼らの神経を逆撫でするように微咲み返した。それが冗談ではなく本気だということを知るのは、随分と先のことだった。
──こんな朝早くに何をするの?
「昨日の女子たちにこの子たちをプレゼントするだけよ。ほらこれ、活きがいいでしょ、一番元気そうなのを捕まえてきたんだから」
──そんな、可哀想だよ。虫もわたしたちと同じように生きているのに、不必要に。
「必要だからやるのよ。大丈夫、この子は今は殺さないから、生きたまま暴れてもらわないとつまらないでしょ? というかさ、虫には可哀想と思いながらあいつらにはそう思わない辺り、祐美も“いい趣味”してるわよね」
とてつもなく意地の悪い顔をしている。
そんなことはない、と、胸を張って言えるはずもなくて、わたしは精一杯閉口するしかなかった。
「いいこと祐美、これはただの仕返しではなく変革への第一歩よ。生きるということは戦いと同じなの、協力も敵対も相対関係のすべては戦略なの、だから逃げるだけではなく然るべき時に私たちは戦わないといけないのよ」
──戦い……ねえ昏夏さん、あなたは本当にわたしたちと同じ小学生なの?
以前からずっと感じていたことではあるけれど、昏夏さんの言葉づかいや思想はとても同年代の子供とは思えなかった。わたしが知らない多くのことを彼女は知っているし、立ち振る舞いは今まで見てきたどんな人よりも余裕に満ちていて、観照的な在り方をしている。
「何言ってるの、見ての通りよ」
──たしかに見ての通りだけど、なんだか納得できないなあ。
「私と他の子では人生の経験値が違うのよ。さあ、そろそろ行きましょ、見つかると楽しみが減るでしょう」
この人はどうして人生が楽しいものだと、信じられるのだろう。才能があるから? 自己愛が強いから? あるいはそう思い込もうとして、演じている? 今のわたしには、とてもわかりそうにはない命題だった。だから、もっとこの人を知りたいと思った、わたしの救世主の本質を、知りたいと思ったんだ。
から、から、こん、こん。
教室へ向かう無機質な音、音、扉が開き、人が入るのを見てわたしたちも教室へと向かう。なにも変わらないいつも通りの朝、教師が入り挨拶、授業の開始、休み時間。彼らはわたしではなく昏夏さんを囲んで、昼休みに一人で体育倉庫に来いって言いにきた。その眼は明らかに冷静さを欠いていて、
「ふーん、いいけど。私とあなたが無事昼休みを迎えられたら、そのときは私一人で行ってあげる」
「言ったな? 約束は守れよ」
それだけ吐き捨てて、席に戻ったのが不気味で恐ろしくて、わたしの隣に座る人はやっぱり楽しそうだった。
――昏夏さん、大丈夫なの……? あの人、なにするかわからないよ。
「私には解るから大丈夫よ、単に暴力で解決しようとしているだけだもの。はあ、なんて扱いやすい人種」
また、見下していた。哀れむように虚空を眺めて嘆息していた。先ほどの昏夏さんからは考えられない顔容に、どちらが本当の姿なのかと不意に疑問が浮かんでいた。
「人の考えがわかってしまうということが、どういうことか想像できる?」
──え、うーん。よくわからないかな。便利そうではあるけど、見たくもない人の考えまで見えるのは嫌かも。
「そうなのよ、見るだけでうんざりするような頭の中まで透けて見えるから、結構疲れるのよねえ。この能力自体は私を私たらしめているものだからいいんだけど、私が生物として人間であることに変わりはないし」
──それはわかるよ。昏夏さん、たしかに不思議な人だし凄い人だと思うけど、ふとしたときの表情は普通の女の子だもん。
「祐美もね、なぜか彼らには理解できないようだけれど、私たちは常に普通に生きているだけなんだから」
普通とは、ありふれていないものを指す言葉で、私たちは所詮ただの人間であり動物なのだから、この上なくありふれた存在と言える。わたしと昏夏さんはわたしにおいてありふれた像で、彼らにおいてありふれていない像である、簡単なことじゃない。わたし、なんでこんなことにも気づいていなかったのかな。記憶がいいだけで、頭が固いのかな。どうしたら昏夏さんのように格好いい女の子になれるだろう、わたしには無理かな? でも、なれたらいいな、誰かを救えるような人に、なれたらいいのにな。
「なればいいじゃない、私はそのままでもいいと思うけど、変わりたいなら好きに意識的に変わればいい」
──うわっ! もう、独り言なんだから聞かないでよお。
「顔に出すのが悪いのよ、ふふ。あなた、こんなに可愛い子なのに勿体ないわね。私が男子なら口説いてたかもよ」
この天で一番の星だった。真っ赤っかな貝のように、遊色を以って燃ゆる貝のように、わたしのなかで乱れたスペクトルたちが暴れているのを拍動が求めてもいない親切さで教えてくれる。非平衡的で準安定的な
──あんまり、からかわないで……それに、昏夏さんは男の子じゃなくて女の子だもん。わたしは女の子より男の子が苦手だから、昏夏さんが女の子でよかったって思うし。
斯く在るものの総ては斯く在るべくして在るからこそ、わたしはこの人と此処に在る。こんなに当たり前なことなのに、こんなに不思議なことはない。
「あらら、振られちゃったわね。まあ、私は恋とか無縁だから恋人なんて不要だけど」
──そんなのわからないじゃない……昏夏さんだって、いつかは誰かに恋するかもしれないよ。わ、わたしだって。
「確かに確定はできないか、まあ無いと思うけど。え、もしかして祐美って」
「────」
耳障りな響音だった、見ると昏夏さんの仕掛けた子たちが机上へ這い出ていた。まるで息を合わせるように各所から百足が三人の女の子の腕に纏わりつく。「誰か、さっさと捕まえてよ!」と泣き喚くのを誰もが傍観しているのを、失望したように眺める姿に心悸が加速して、やがて刃物みたいに鋭くなった。あれはいつものわたしだった、多分、可哀想だって思ってくれている人がいたりするし、興味もない人もいるし、関わりたくないと思ってる人もいる。色んなことを思う人がいて、結局思うだけで終わるんだ。
「ちょっとタケルッ、見てないで何とかしなさいよ!」
他の二人も騒いでいるけど、特に中心の子は虫嫌いが激しいらしく大騒ぎしていた。
「いやムカデはちょっと……生きてるし。てか、怒るなら俺じゃなくてあいつらだろ!」
そう言いながら、タケルと呼ばれた男の子はわたしと昏夏さんを睨めつけた。
「ふざけんな! んなのどうでもいいから! なんとかしろよ、馬鹿が!」
──動かないで!
なんて、やっぱり言葉にはできなかったけど、強引に彼女の動きを止めて、衣服に腕を入れて百足を捕まえたあと、バケツに入れ蓋をした。同じように残り二人も処理しようとしたけど、既に昏夏さんが実行済みだった。
「はあ? なんであんたが……」
──それは。
「祐美があなたを見て、助けたいと思ったから。それ以外に理由はないでしょ。喩え相手が自分をいじめているやつでも、虫相手にも同情して感情的に動いちゃうのが祐美なのよ。ここまで直情的とは思わなかったけど」
何か言いたげだったけれど、直後にその子は苦悶の表情で左肩を押さえた。
──昏夏さん、この子、噛まれてる……。
「はいはい、わかったわよ。ほら、さっさと保健室行きなさい。あなたたちは……大丈夫そうね」
「大丈夫って、ムカデって毒があるんでしょ……!」
二人の女の子が恨めしそうに言うが、昏夏さんが手にしたバケツを向けて黙らせる。
「アレルギーでもない限り死なないから安心しなよ。ただ放っておくと腫れが酷くなって痕が残るかもしれないわね、だから急いでるの。じゃ祐美、あとはよろしく」
──え、よろしくって?
「だから、この百足を逃してくるからさ、えっと、梨果さん? をよろしくってことよ」
何を企んでいるのか、昏夏さんはわたしと梨果さん二人きりにして駆け出してしまった。ああ気まずい、でも急がなきゃ。なんてことを思うと健と呼ばれた男の子が呼び止める。「おい待てよ、俺が連れてくからお前はどけよ」って、どうすればいいって(きっと通じないけど)梨果さんに目配せしてみた。正直、気まずいだけだから二人で行ってくれるならわたしはそれでいいと思った。
「さわんな。もうあたし、あんたとは連まないから話しかけないで」
「は? どうしたんだよ急に」
「急じゃねえよ、普段俺は漢気があるだとか運動が得意だとか喧嘩に負けたことがないとか言っといて、虫相手にビビりまくって、ダサすぎ。なんでこんなのがいいと思ったんだろ、まじ見る目ないわ。大体、ああそうか……ちょっと行ってくるわ、こいつ早くしろってうるさくてさ」
──いや、そんなこと言ってないし思ってないけど……ただ、あまりにあの男の子が可哀想だからもうやめてと伝えたかったんだけど、結果的にうまく行ったからいいのかな。
有川健君は最後まで恨めしそうにわたしを睨めつけていた、他方周囲の人は普段偉そうな彼が傷ついて嬉しそうだった。最も受け入れ難いのは、そんな傍観者だった。なんでそんなに嬉しいのだろう。苦しい人を見ると、自分まで苦しんでいる気がして、胸が空くどころかもっと自分が嫌いになりそうになるのに、どうしてみんなは他人の苦しみを楽しむことなんてできるんだろう。そういう人がいることは知っていても、わたしにはまだ、理解できそうになかった。
──「服、脱がせていい?」
保健室にあったノートに言葉を書いて見せると、梨果さんは「……自分でやれるからいいよ」と答えるので、すぐに「梨果さんは怪我人だからじっとしてて、それに、こうなったのは私のせいでもあるから。ごめんなさい」と綴り返す。
「うわ、書くのはや。てか、そのつもりなら最初から聞かなきゃいいのに」
言われてみればその通りだったからなんて言えばいいのかわからなくなったけど、梨果さんはなぜかちょっと笑っていた。
「ああもう、いいよ。あたしはじっとしてるから、さっさとやっちゃってよ」
上半身を下着だけ残して、前傾姿勢を維持してもらうように、衣服が濡れないように、水が腕を伝うように患部を洗う。もうこんな大人みたいな下着を着けてるんだなと思って、ついノンワイヤーのブラを見つめてしまっていた。わたしはまだキャミソールなのに、昏夏さんはどういうものを身につけてるのかな。
「ねえ、これってどれくらい続けなきゃいけないの? 地味に疲れるんだけど」
──えっと、五分程度は洗った方がいいみたい。
思いながら手指の伸展を見せた。
「五分ってこと?」
首肯した。
「ちょっと長いわね……」
──ちょっと待ってね、椅子持ってくるから。
「え、なに?」
──「先生、椅子借ります」
「ふふ、猫葉さんは優しい子ね。はいどうぞ」
足がつかないくらい高くした椅子に座れるよう、四つん這いになって「座って」と伝える。
「いやいいよ……別に我慢できるし」
先生は諭すように、梨果さんに話す。
「藤原さん、せっかく猫葉さんが厚意でしてくれているんだから、応えてあげるべきじゃない?」
わたしもうんうんと大きく頷いてみせた。
「猫葉って結構頑固なんだな……」
運動不足なので耐えられるかわからなかったけれど、思いのほか梨果さんは軽かった。再び水栓のヘッドを取って、ふと眺めると、なぜか梨果さんが目の遣り場に困っている感じがした。しかも、わたしの方を横目で見つめたり目を離したりと不自然な動作をリズミカルに繰り返している、そんな音のない音楽が終わったのは患部の水洗いが終わった瞬間だった。
「ねえ、先生。ちょっとだけ外に出ててくれない? ちょっとだけ、十分でいいからさ」
「うーん、職務放棄ってあとで怒られないか心配だけど……うん、まあいいかな。なにか異常があったらすぐ呼ぶこと、いいわね」
わたしたちは揃って返事し、揃ってベッドに座っていた。「軟膏塗るね」と伝えると、「うわ、“軟膏”って漢字書けるんだ」とよくわからないところで驚かれた。でも、その後「ああ、ごめん。好きに塗っていいよ」と付け加えた。やっぱり梨果さんは、気まずそうだ。
「猫葉って頭いいよね、あたしとかと違って。そういうやつって、あたしらみたいな馬鹿なこと見下してるやつばかりだと思ってたんだけど、ほんとはそうじゃなかったんだなって。やっぱりあたし馬鹿なんだなあ。ああ、気ぃ遣わなくていいから、それにこれ仕掛けたのあんたじゃなくて陰雨ってやつでしょ、あんたがそんなことできるわけないもんね」
──「ううん、それは違うよ。昏夏さんは私がいじめられなくなるようにって、助けてくれたから。確かにやりすぎだとは思うけど、悪い人じゃないの。だから、そうさせた私が悪いんだ」
「ええ……どう考えてもあたしらが悪いっしょ。猫葉って勉強できるくせに変なところで馬鹿っぽいってか、天然っぽいよな」
思い当たる節が多すぎて、ちょっと泣きそうだった。
──「昏夏さんにも同じようなこと言われた。やっぱり私の考え、おかしいのかな」
「あ、ごめん……おかしいのはあたしたちだ。悪い意味じゃなくて、むしろ猫葉はそこがいいところだと思うよ。それに、あんなのと別れることができたのあいつと猫葉のおかげだし、そこは転校生に感謝してもいいかな」
あまりにも不思議な時間だった。
だって、昨日までわたしのことをいじめていた女の子と、拙いながらも咲んで談話しているなんて、だれが想像できるというの?
「ああ! そうじゃなくってさ、あたし、猫葉に恨まれてるだろうなってずっと思ってたんだよ。なのに、あんたに助けられてさ、治療までしてくれて、こんなやつをあたしはいじめてたんだって気づいて馬鹿らしくなったんだ。先生から教えられたよ、猫葉、喋るのが嫌なわけじゃなくて喋りたくても病気で上手く喋れないって……だから、その……………助けてくれてありがとう。それに、今までごめん。もう、関わらないようにするから許してくれないかな、本当に知らなくて……ごめん」
だから気まずかったのかと、鈍いわたしは漸く思い至って恥ずかしくなっていた。ああ、なんて傲慢だったんだろう。気づいてしまって、人を馬鹿にするようなことを考えていた自分が、恥ずかしくなった。
――「ねえ梨果さん、わたしも酷いことをしてしまったし、これでおあいこってことにできないかな。せっかく話せるようになったのに、これでお別れなんて寂しいよ。私の病気のこと、もっと梨果さんにも知ってほしいし、私も梨果さんのことを知りたいんだ。もちろん、昏夏さんのことも一緒に知っていきたいし。駄目かな?」
駄目かなと、聞くのはこちらだと言いたげな瞳をしても口にしないのは、わたしの方が頑固だってもう解っていたからだろう。今までちゃんと見たこともなかったけど、安心したように無邪気に笑った梨果さんはやっぱりただの女の子だった。そう、わたしたちはなにも変わらない。
「猫葉って、実はお喋りよね。なんか転校生がずっと一人で喋ってるもんだと思ってたけど、納得したわ」
──「そうかな……人と話したことがあまりないから、どれくらいが喋りすぎなのかよくわからなくて。私、喋りすぎだった?」
「いや、女子ってお喋りでうるさいのが普通だし、猫葉は声にださないからいいんじゃない。あたしらも普段うるさいって思われてるだろうし――ねえ、最後にひとつ質問してもいい」
不可解なものへ、切望するものへ向けて、ないしは諦めのような
ただ、あまりにも眩しくて俯くように頷くしかなかった。そこには肯定も否定の意も含めることができなかったのに、わたしは偏に身体信号に甘え委ねた。
「やっぱりわからないんだよ、猫葉がいくら優しいからって、いじめてきたやつを助ける神経があたしには理解できない。凄いことだし、まるで歴史に出てくる偉人みたいだなって思う、でもあたしにはそういう人たちがわからない――だって、人間ってもっと自分勝手な生き物じゃない? だからあたしだって、できる限り自分勝手に生きようって決めてたのに、そんな特殊な人間はたまにしか出てこない珍しい人間だって思ってたのに、こんな身近にいるなんて思わなかった。なんで助けたのか、教えてほしいんだ。どうやったらそんな風に、優しくて強くなれるのか」
言葉のすべてが違和に満ちていて、齟齬に塗れていた。わたしが優しいとか強いなんていうのは、甚だしい勘違いなんだから当然だ。偽善者ですらない、自分勝手さの表れでしかなかったのに、都合よく(悪く)解釈されるのは居心地が悪くて仕方がなかった。
──「私はただ、怖かっただけ。わたしのせいでだれかが傷つくということは、それを知るということは、私が傷つくことだから。罪悪感なんて無い方がいいでしょう? だから、優しさでも強さでもなくて、むしろ我儘で弱いから助けるしかなかったんだよ」
それでも──。
「それでもさ、普通行動できないと思うよ。現に他のやつらは止まってたし、まあ単に嫌われてのかもしんないけど、それだけで猫葉は凄いよ」
「そうそう、猫葉ってば私の予想を裏切るくらい凄いんだから。流石は私が目を付けた子よね」
「うわっ! って、転校生じゃん、おどかすなよ。てか、ムカデ仕掛けたのお前でしょ! はよ5限目行ってこいよ」
いつの間にか昏夏さんが足音も立てず忍び寄っていた、まるで猫みたい。
「ずいぶん仲がよくなったのねえ、梨果。あ、私のことは昏夏でいいわよ」
「なんで呼び捨てなんだよ、呼ばねえよ」
──「わたしは、二人が仲よくしてくれると嬉しいけどな」
なぜか昏夏さんは心底愉快げに失笑して、梨果さんは困惑していた。なぜだろう。
「祐美もこう言ってるのだし、仲よくしましょうか、梨果」
「くそ……猫葉を使うとか卑怯な」と梨果さんの喋るのを遮って昏夏さんが「猫葉、じゃなくて祐美って呼んであげなよ、喜ぶから」とわたしから読み取ったであろう情報を発信する。射貫くようでもある眇めた不可視波長と、唇に触れた指に心が跳ねて、熱が隠るのを抑制してから、顔を上げる。やっぱり昏夏さん、綺麗だなあ。
「はあ、なんでお前、じゃなくて……昏夏にそんなことがわかるのよ」
「それはねえ」
――「昏夏さんが超能力者だから、だよね?」
「うわ、私の台詞取りやがったわ、やってくれるわね……」
「冗談とか言うんだな……ほんと偏見って怖いな」
もしかすると、今までで最も驚いていたのかもしれない、驚かせてやったという感覚は思いのほか気持ちよくて、昏夏さんがわたしを驚かせて楽しんでいたのも得心が行った。
――わたしだって、昏夏さんのこと少しはわかってきたんだから。「ねえ梨果さん、名前で呼んでくれると嬉しいのは本当だよ。昏夏さんはわたしのことなら何でもわかるから」
「何でもは言いすぎじゃ……わかったよ、えっと、祐美、祐美ね。とりあえずこれからは私が祐美のこと守るからさ、仲よくしてくれると、嬉しいな。思ったより面白いやつだし、可愛いやつだし」
「確かに祐美って小動物みたいな可愛さがあるのよね、愛でたくなるというか、頭をくしゃくしゃに撫でてやりたくなるというか」
「昏夏と同じ感覚なのは癪だけど、否定できない」
褒められることにあまりにも慣れていないので、きっと冗談で揶揄っているだろうと断定しておいた。でなければ、恥ずかしいから。二人がわたしのことを親しげに“ユウミ”と呼んでくれる。お母さん以外の人が? ああ、ああ、信じられないことだけど、夢ではない、現実なんだ。わたし、たった一週間で友達が二人もできたんだ。
「おーい、そろそろ入っていいかな? 他の子が保健室を使えないと困るし」
「あ、やば忘れてた。はい。もう大丈夫です」
そういえば、このときは深く考えもしなかったけど、改めて思い返すとなんだか変わった先生だったな。教師のなかで珍しくわたしを避けることもなく、わたしたちの様子を察しているように眺めているあの人は、どことなく昏夏さんに似たものが感じ取られた。
「それじゃあお大事にね、藤原さん、猫葉さん」
でもそれは当然だったんだ、でなければこの人は最後にわたしの名を付け足すことはしなかったはずだから。
教室の空気は重苦しくて息が詰まりそうだった、昏夏さんは相変わらず楽しそうにしているけど、梨果さんは有川君のことを睨めつけ続けていて、気づけば彼の味方は一人もいなくなっていた。だとしても不思議なのは、あれだけ横暴だった有川君が人格ごと変容したように大人しく、弱気になっていることだ。たった一度のちょっとした出来事で、人間性と関係が変化する様が俄に信じられなかった、他人事ではないのだと恐ろしい心地がした。有川君は最初、許してもらおうと梨果さんに謝っていたけど、「許してもいいけど二度と話しかけないで」と冷たく言い放たれ、いつも一緒にいた男子二人も気づけば彼を非難する側へと立っていた。もちろん、梨果さんはその二人にも同じ内容を告げたのだけれど、明らかに皆んなの嫌悪感は有川君に向けられていた。直接狙われてはいないけれど、過去に八つ当たりされている人は少なくなかったから当然の流れではあるけれど、因果応報と言われてしまえばそれまでの話だけれど、同情を隠すことはできそうになかった。だって、有川君と他の皆んなにどれほどの差異が、罪深さの差異があるというのだろう。
「ねえ祐美、本当に梨果のことは許してあげるの? あなたが望むなら、私はいつでも手伝うけど」
――もういいよ……梨果さんは悪い人じゃない、それがよくわかったから。昏夏さんには死んでも返しきれないくらい感謝してるよ、ありがとう。だけど、もういい、もう十分すぎるの、わたしはただいじめられなくなるならそれでよかった、それで他の誰も傷つかないでいてくれればそれで……。
「そう、じゃあ梨果への復讐は打ち止めか、残念ね。本当はここからが面白いところだったんだけど」
わたしは初めて、怒りという感情を明確に他者へ向けようとしてしまった。
――昏夏さん……! 冗談でも、そんなこと言わないで。梨果さんはもう、大事なわたしの友達で、それは昏夏さんも同じなんだから、そうでしょ?
有川君を拒絶した梨果さんなどよりもより明晰に冷たく、いや、温度というものさえ与えることもなかった。わたしの熱さえ奪ってしまう、魔術的な声の形をして。
「友達だからよ、罪を犯した人間に罰を与えるのはより絆の深い者が行うからこそ罰たりうる、そうでしょ? だからあの子達のような情報弱者は知るのよ、自分の行ないを、客観的に多元的にね。尤も、これは私の正しさであなたの正しさではないから、今回はあなたの正しさを優先させるけど」
少しは理解できたと思っていた。
間違いだった、陰雨さんは生まれた時点で私とは決定的になにかが異なる世界に生まれていて、異なる世界を見ながら生きている。でも、やっぱり、だからこそわたしの救世主だった。
「いいのよ、無理に理解しなくて。理解しないで済むのならしない方がいいものもあるのだから。それよりさ、今日梨果も連れて帰りましょうよ。あの子は祐美の生涯の友にするって、いま決めたわ、それがあの子の償いよ。あ、償いっていうのは無理矢理ってわけじゃなくて自ずからそうなるよう促すだけよ」
ああ、なんて不公平で不平等なのか。
――生涯の友って、梨果さんは嫌じゃないのかな? 罪悪感でわたしと一緒にいるなんて可哀想だし。
「ああ大丈夫、あの子、友達でもなんでもない友達擬きしか周りにいないから。皮肉なことだけど、梨果を救えるのはわたしではなく祐美だけよ、いままで友達がいなかったあなただけが梨果の心を開ける。というかチョロいからもうほぼ開いてるんだけど、人間の感情って動きとしてはこの上なく単調よねえ」
少し呆れたように梨果さんの取り巻きを視る眼は、果たして嘲笑的だったけれど、わたしと梨果さんに向ける視線はとても愉快げなものだった。たしかに昏夏さんは変人ではあるけど、感情を持ったひとりの人間であることはこれだけで証される。
*
放課後。
「ほら、祐美が誘ってきなさい。わたしは校門で待っててあげるから」と背中を押す、押された。周りには梨果さんと帰ろうとする女の子二人がいて、わたしは思わず戸惑って立ち止まった。昏夏さんがいてくれるだけで何とかしてくれる、と甘えていたことを自覚して振り返ると煙みたいに、けれどモヤモヤとした残留もなくいなくなっていた。まるで瞬間移動してるみたいだ、とか考えている場合じゃなかった。
「……おーい」
――うわ、びっくりした。
「ジロジロ見といて驚くなよ。あたしのこと見てたでしょ、何か用?」
――「ジロジロ見てごめん。あのさ、梨果さん。よかったら今日、一緒に帰れないかな。ちょっと話がしたくて……昏夏さんも一緒だけど」
梨果さんの後ろに立っている二人、山田さんと井上さんは驚愕していた。わたしが自分から誰かに話しかけていること、その相手が自分をいじめていた相手であること、理由は色々あったと思うけど。
「謝んないでよ、悪いことしたわけじゃないし。もちろんいいんだけどさ、それより先に言いたいことあるから待って――あんたらさあ、直接助けたのは昏夏だけど祐美がいなかったらあたしら皆んなずっとあのままだったんだよ。何か言うことないの? てか、戻ったときに言うべきだったと思うんだけど」
「でも……仕掛けたのは陰雨って転校生で、猫葉もグルだったんでしょ? 梨果は悪くないじゃん、悪いのは」
「祐美だって、言いたいわけ? はあ、もういい、あんたらとも付き合いそこそこ長かったけどもういいよ。いつもわたしの腰巾着やらせて悪かったわね、もう二度と関わらないから好きにして。行くよ祐美」
山田さんは焦って止めようとするけど、悪かったと謝ろうとするけど、謝意が欠片もないことはわたしでも容易に観取できた。わたしのせいで喧嘩したみたいでなんだか悪い気もしたけれど、梨花さんに腕を掴まれているし昏夏さんを待たせているので、いまは為されるがまま校門へ向かうことにした。
「梨花、機嫌悪そうね。なにかあったの?」
「なんでもない……関係ないだろ」
わたしでもわかる嘘だった。
「ふふ、嘘が下手ねえ。どうせ祐美のことであの二人と喧嘩したんでしょ。まあ、あの子たちは梨花を友達なんて思ってないみたいだから、ちょうどよかったんじゃない?」
――昏夏さん、それはちょっと言い過ぎじゃ。
「うっさい、わかったようなこと言わないで。なにも知らないくせにテキトーなこと言われるの、腹立つのよ……」
臆すことなく片頰咲んで、悪意もなく見下す所作。ああ、あのときと同じだ。
「わかるわよ、わたしが超能力者って話は冗談じゃないのだから。わたしには他人の思考を読み取る能力があるのよ、だから祐美とも話せるってわけね。本当はあなたに話す予定はなかったけど、祐美のせいでわたしたち友達だから、ね?」
「魔法少女じゃあるまいし……あほらし」
わたしのせいと言われると非難されている感もあるけど、わたしのせいであることは事実だから否定できなかった。わたしのせいであるということは、わたしのおかげということだから悪いことでもないのかもしれない。
――「ところで、友達ってどういう遊びをするものなのかな」
「さあ、私も今までぼっちだったし、梨果は?」
「知るか、山田とか井上とは買い物したり適当に食べ歩くくらいだし、あんまり楽しくはなかったし」
「それは相手が悪いんでしょ、どう、私みたいに一切気を遣わない相手っていいものでしょう?」
「そういうウザさがなければ少しはいいと思えたかもな! はあ……よくこんなのと一緒にいられるな、祐美」
――「そうかな? 私は一緒にいて楽しいよ、梨果さんと一緒になってもっと楽しくなったけど」
突然、亜麻色になって梨果さんは昏夏さんと内緒話をし始めた。なんだろう?
「あの子いつもあんなに天然なの? 私今まであんな無垢な子いじめてたの? めちゃくちゃクソ野郎じゃん…………」
「でも祐美は赦した、でしょ? なら、落ち込む暇も楽しく過ごしてやりなさいよ。祐美のためにさ。まあ天性の人たらしなのは間違いないけど。あざといと言われても仕方ないところもあるし、やっぱ小動物染みた可愛さあるわよね」
「確かに、飼ってる子犬と似てるのかも……あんた、人に気を遣えたのね」
「梨果が落ち込むと祐美が悲しむでしょ、それは私が困るのよ。だから楽しみなさい、人生ってそれが全てよ」
「小学生が人生語るなよ……でも、そうかもな」
なんだか、私より昏夏さんと梨果さんの方が打ち解けてるみたいで羨ましかった。このままわたしだけ別離してしまったらどうしよう。想像するだけで泣きそうになった。途端、気づいた昏夏さんが駆け寄ってくるとぐしゃぐしゃに頭をかき混ぜた。
「寂しがるなよー、ほらよしよし」
――恥ずかしいからやめてよお、もう。それより何を話してたの、私には言えないこと?
「ああいや、祐美は可愛いなって二人で話してたのよ。ね、梨果」
――「もう引っかからないよ、どうせ私を揶揄う嘘なんでしょ」
そう、間に受けてはいけない。昏夏さんはこういう冗談を澄ました顔で言う人なんだから。
「その漢字はわかんないけど、可愛いって言ったのはマジだよ。ちゃんと髪とか服装整えたらかなり化けるだろうなって、そのさ、祐美がいいならこのまま買い物とかしない? 私、お小遣い余ってるから」
情報量が多くて精神が液体状に溢れてしまう錯覚が有って、記憶は鮮明ながら意識は混濁しかけていた。褒められるだけで沸騰する壊れた頭を振って、反射的にそんなの悪いよと言う前に、昏夏さんが割って入る。
「私はジンジャエールが欲しいわ!」
こういう場面を漫画で読んだことがある、昏夏さんはいかにも友達らしく悪ノリしているんだ、わたしも乗らなきゃ!
――「私は、メロンソーダがいいな」
昏夏さんにはきっとバレバレなんだろうな、でも甲斐あって梨果さんはびっくりして猫みたいな目をしていた。そのままスマホを取り出して「そっか、メロンソーダ好きなんだ、祐美。ちょっと待ってね」と言いながら某通販サイトでメロンソーダを検索しだしたのでわたしはより驚かされたけど。
――「いいよ梨果さん! 冗談だから、好きだけど今欲しいわけじゃないから、落ち着いて、お金は大事だよ」
「そう? 欲しいならいつでも言ってね、祐美にはお礼しなきゃならないからさ」
お礼って、何のお礼だろう? お礼を受け取るようなことなんて何もしてないし、もしかして報復ということだろうか、何か怒らせるようなことしたかな。いや、わたしにそんなつもりがなくても梨果さんは大袈裟なところがあるから、必要以上にムカデを取ってもらったことを気にしてるのかな。でもあれはおあいこってことにしたし、これも冗談なのかな。
わかりやすいため息と一緒に、このなかで一番まともなの、私なんじゃないかしらと、珍しく疲れ気味に独り言ちるのを耳聡いわたしたちは聴き逃さず、直ちに反駁した。
「「それはない」よ」と。
路傍に映える小さな影は、自他ともに驚嘆した
*
それからの毎日は本当に、本当に、そんな言葉では到底至り得ない歓楽に満ちていて、幸福の籠の音をはためかせ生きていた。マトリョーシカのように終わりの見えない多重の籠があって、わたしはこのとき初めて、最初の籠を破壊したんだろう。
昏夏さんはわたしに多くの気づきを与えてくれた。わたしたちの世界は網状なのだと、籠となって包まれているものなのだと、教えてくれた。故に、「戦い」と彼女は表現した。身を守ってくれる籠が時を経て、自らの成長を妨げる障壁となる構造を、知っていたから、摂理を知っていたから、わたしに真理を齎したんだ。わたしのような
わたしの描画する美しき心象は、中学生になると終わりを迎えた。わたしと梨果さんを生涯の友とする目的を果たしたと判断したからなのか、単に飽きたからなのかはわからないけれど、小学校を卒業した日を最後に、わたしたちは昏夏さんの姿を見ていない。それからもわたしたち二人は仲のよい友人ではあったけれど、虚脱感を隠しきれずにいた。何より驚いたのは、わたしよりも梨果さんの方がショックを受けていたということだ。わたしはというと、いかにも昏夏さんらしすぎて寂しさに劣らぬ安心感を覚えていたから、暫くはべったりとわたしが甘えられる側だった。愚鈍なわたしは此処で漸く思い至る、「梨果さんをわたしの生涯の友とする」のではなく「わたしを梨果さんの生涯の友とする」ことこそが昏夏さんの指定した
「わ、わたしの名前は、猫葉祐美です。好きな食べ物はメロンで、好きな飲み物はメロンソーダです。えっと……あと趣味は読書、特技は暗記、です。これからよろしくお願いします」
未だに人前で上手く話すことはできないけれど、梨果さんのおかげで日常会話に支障が出ない、多分出ていない、程度には症状が改善していた。紛れもなくわたしたちは『親友』の絆で結ばれていたんだ。そう、すべてはあの人の思惑通り。でも、どこまでがあの人の思惑だったのだろう。此処までが? 或いは今もまだ? そして、ずっとずっと?
――そしてとある日、有川健君が自殺した。
――――――――
いまでも人と話すのは苦手だけど、わたしの
――昏夏さんの唯一の誤算なのかな、あなた自身もまた、わたしたちの生涯の友になってしまったことは。ねえ、昏夏さんはいま、どこにいるの?
――逢いたいよ、昏夏さん。
カリュプスの轍を往く電気機関車は、カノープスの瞬きを目指している。祈りの現象、祈りの心象、わたしだけの世界とはそれに尽きるのだけれど。
ああ、だけれど、
花の装いは
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