香水

@Chord_Y

香水

目覚める前から、きっと部屋には僕一人なんだろうなと思っていた。


うっすらと目を開けると、窓から見える空は薄曇りだった。

それでも部屋には朝の清潔な光が満ちている。


改めて見渡すと、ゆうべ見たときに感じたよりずっと広い部屋だった。


ベッドルームとリビングが二間続きになっている、セミスイートタイプ。


床は板張り。

ベッドから降りた足裏がひんやりとした硬質な感触を伝える。

僕らしくない部屋だ。ビジネスホテルのしみのついたカーペット地のほうがずっと親近感がある。


しかし・・・置いてきぼりか。


いや、分かってたんだ。

今朝がた、ベッドから抜け出す気配を感じたんだ。


だけど、ここで目を覚ましたらいけないんだろうなと思って、寝たふりを通した。


「目覚めたら誰もいなくて、思わずベッドの上を探す」みたいな、ドラマでよく見るやつ、あれを演出したいんだろうなと思って。


余計なところで空気を読む癖は相変わらずだ。


顔を洗おうと思って洗面所に行ったら、香水の小瓶が目に付いた。

片手にすっぽり収まるくらいの、薄いさくら色の液体。


蓋をとって匂いを嗅いでみると、ふいに昨夜の記憶が甦ってくる。


昨日、僕は酒を飲まなかった。

だから昨夜のことはよく覚えている。

ひとつひとつ。一瞬一瞬。


蓋を戻して、小瓶を置いた。


持って帰るのを忘れたのだろうか。それとも、わざと残したのだろうか。


わざと忘れて帰るような、思わせぶりな人ではなかったと思う。

しかし繊細な、神経質そうなところがあって、うっかり忘れ物などしないタイプにも見えた。


僕はチェックアウトの支度を整えて部屋を出、フロントにキーカードを返す時に聞いてみた。


「あの、この香水、もう一人が忘れて帰ったみたいなんですけど。郵送か何かしてもらえませんか、昨日宿泊カードに記入してたと思うんで、住所とか」


フロントの男性は小瓶をちらりと見て、丁重に言った。


「申し訳ございませんが、私どもの方からお客様へお忘れ物のお届けはできないことになっておりまして」


「そうなんですか」


「お客様のほうから私どもへご連絡頂ければ、手配させて頂けるんでございますが」


「あ、それはちょっとできなくて」


「さようでございますか」


男性は黙り、僕も黙った。


どうしようか。


小瓶を手のひらで弄びながら、僕は聞いた。


「あの、なんでなんですかね。ホテルから送れないっていうのは。送料の話ですか」


「いいえ、そうではありませんが。ホテルには様々な事情の方がいらっしゃいます。忘れ物を届けてほしいとお思いになる方ばかりではありませんので」


僕ははっとした。


「なるほどね・・・」


そこで僕は初めて、受付の男性をまじまじと見た。

父親くらいの年代の、半白の頭をしたその人は、息子ぐらいの年齢であるはずの僕の言葉を礼儀正しく聞いていた。痩せ気味で枯れた風情だが、姿勢が良く、スーツには糸くず一つない。


このホテルでずっと働いてきたのだろうか。

そしていろんな事情を抱えた宿泊客を見てきたのか。


そのうちの一組に、今朝僕たちも数えられたのか。


細長いホテルの廊下に並ぶ一つ一つの扉。それにつながる立方体の中に、みんないろんなものを置いていくわけだろうか。時計や、宝石や、時間を忘れるほどの何かや、きらきらひかる何かを。


そして小さな丸っこい容器に入った香水を。


「あの、香水の捨て方って分かります?普通に排水溝に流せないですよね」


僕が聞くと、受付係は初めて人間らしい笑いを顔に浮かべて、


「恐れ入ります。わたくしはちょっと、女性のものはとんと疎いのでして」


と言った。


「僕もなんです」


と僕は言い、二人してふふふと笑った。



君はきっと、香水をわざと置いていったのだろう。


僕たちの立方体の中に、透明なゼリーのように、思い出を閉じ込めるために。


無粋な僕は、うっかりそれを持ち出してしまったわけだ。



僕の手のひらの上で、香水の瓶が光を反射して輝いている。

中で揺れているのは心か、血液か。


部屋に返しには行かないよ。


何も知らない掃除のおばさんに処分されるのは嫌なんだ。

暗い倉庫の隅っこの、忘れ物置き場にずっと放置されるのも。


今日は一日、この香水と一緒に過ごすことにしよう。


夜にはこの街を出なければならない。

だから、今日一日だけ。


ポケットに潜り込ませた瓶の丸みを指で撫でると、ふしぎな温かみを感じた。

その温もりと共に、僕は活動を始めた朝の街へ歩き出した。


(終)


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