第1章

1×1=「生の息衝く「温度」の暴力、絶対零度に抗う熱量の証明」

「《終末時計》を探すんだ。そしてその目で見ておいで────御津みと






 意識が、ぼんやりと浮上する。強烈な光がちかっ、ちかっ、と閉じた瞼の裏で明滅して、億劫に思いながらもあたしは目を見開いた。

 そこに迫っていたのは────あまりにも明白な、死の気配だった。

 天は高く、空は青い。それらを背後に宙に静止していたのは、全身が青白い光に覆われた翼の人。否、あれを人と呼んで良いものだろうか。血の通わぬ真白の肌、日の光に照る硬質さがなければ肌と見分けがつかない純白の鎧、そして片手に振り上げた、銀に凍てつく一振りの剣。

 焦点の合わない瞳に感情はうかがえない。人とも分からぬ化物が無機質にあたしを見下ろして、しかして刃が振り下ろされる────その時だった。


「唸れ、《炎獄えんごく》ッ!!」


 轟ッ!!


 左方から飛び出してきた鮮やかな炎が、掲げる剣ごと化物を殴りつける。青い────蒼い焔だ。焼き尽くす灼熱の中に冷徹を秘めながら、確かに情熱と焦熱を抱えてひた走る業火の一閃。振り下ろされんとしていた剣は諸に直撃を喰らったせいで軌道を乱し、あたしのすぐ右隣を抉るに留まった。

 舞った土埃が力の抜けた足にかかって、今更のように震えが体を駆け上がる。あれがもし直撃していれば────あたしなど。

「オイそこのッ、なんでそんなとこで呆けてやがるッ!」

 鋭い叱咤が耳朶に響きはっと我を取り戻した瞬間、あたしの目の前に人影が飛び込んでくる。肩より上で切り揃えられた艶やかな黒髪に、あたしの目を覗き込んだのは深い青の瞳だ。焦るように開かれた小さな唇から覗く、やけに尖った歯が印象的な女の子だった。どこかの学校の制服だろうか、プリーツスカートから伸びる足はすらりとしていて、ブレザーに包まれた両腕の先には扇子が握られていた。

 女の子は突然のことに言葉が出てこないあたしに向け、更に言葉を放とうと息を吸い込む。しかしそれが音になる前に、彼女はばっと背中の方を振り返った。


『A……AA、A』


 ずり、と埋没した剣が地を擦って引き抜かれる。剣を伝い腕を辿ってその青白い顔を見やれば、そこには相変わらず人間味といったものは感じられず────しかし淡々とした殺意のみがあたしの心を再びきつく縛り上げた。

「ま、まだ、生き……て」

「当然だ。《怪物》がそう簡単にくたばるようなモンなら、私らだって苦労しちゃいねェ」

 《怪物》。なるほど確かに目の前のあれはまさしく異形だ、そんな風に納得する間もなく、化物が剣を再び構える。今度は横薙ぎ────あたしもこの女の子もまとめて屠ろうという無機質な眼差しに、どうするのかとつい目の前の女の子の背中を見てしまう。縋るようなあたしの視線に気付いたのか、彼女は一瞬だけこちらに目をやり、


「目を背けるなよ」


 一言だけ告げて、後はもう、完全にこちらへの意識を切ったようだった。一瞬見えた青い瞳が見えなくなって、前を見据えるまっすぐ伸びた背中だけがあたしの視界に映る。

 背けるなと言われずとも、釘付けにならざるを得ない背中だった。細く、すらりとした矮躯だ。しかしそこには確かに「芯」があって、悍ましい化物に相対することへの恐怖を微塵も感じさせない。色濃く、血の通った体は流麗な一本の線で繋がれていて、一挙手一投足から目が離せなかった。無機質で意図の読めない淡々とした殺意をきっと彼女も感じているだろうに、何故それから逃げず、あえて戦うことを選ぶのだろう────。

「────《牆炎しょうえん》ッ!!」

 女の子が左腕を真っ直ぐに伸ばしたその扇子の先で、炎が逆巻く。反射的にびくりと震えたものの、轟轟と燃え盛る炎に襲い掛かろうという気配は見えない。それは瞬く間に壁を成し、化物の横薙ぎの一閃を────受け止める。

 鈍、という鈍い音と共に火の粉がぱっと飛び散る。炎で構成された盾は化物の剣をしっかりと受け止めていて、貫通し薙ぎ払われることはなかった。ほう、と息を吐くと、「パンッ」と派手な音を立てて女の子の左手の扇子が開かれる。途端、轟音を立てて盾が外向きに爆発し、迫り合っていた剣を大きく跳ね飛ばした。

 ぐらり、と化物の体勢が崩れた。大きな隙だ、だがその身のこなしは巨体とは思えぬほど素早く、うかうかしていればすぐにでも立て直されてしまうことだろう。だというのに目の前の背中に焦る様子は全く無く、どうするのだろう、と思いながらも化物を注視していれば────ちか、ちか、と青い炎が複数瞬いた。

「仕込みは上々、あとは仕上げをご覧じろ────ってな」

 思った以上に低い声が、謳い上げるようにして朗々と言い放つ。

 その瞬間、目の前からふっ、と背中が掻き消えた。慌てて視線を巡らせれば、それは────化物の、真上?

「……真上ぇ!?」

 素っ頓狂な声が口から零れて、しかしそんなことなど知ったことではないとでも言いたげに、彼女はにやりと笑った。真っ逆さまのままで。

 天地を逆に、まるで瞬間移動でもしたかのような芸当だ。その細い体はすぐにでも重力に捕らえられ、地面に墜落するか、あの化物が頭上に伸ばす手によって鷲掴みにされてしまうだろう。いやな未来を幻視して、けれどその青い瞳は冴え冴えと澄み、笑んでいて────おもむろに、扇子の先が化物の額へとぶつけられる。

 こつん。軽い音が響いた気がした、その時だった。




 ────────轟ッ!!!!




 扇子を始点として、莫大な量の熱量が放たれる。熱量は蒼炎の形を持って顕現し、更には蛇のようにうねりながら化物の体を舐め尽くした。寝惚けた頭も芯から醒めるほどけざやかな蒼────色彩は鮮やかで絢爛、しかし容赦なく他者を黙らせ捻じ伏せる、大津波の如き暴力の権化。

 その軌跡は、先ほど瞬いた光の位置を区切りとして旋回しているのが見て取れた。光に気付いていなければ分からなかったような、些細な変化だ。炎はまるで一本の奔流のように化物を呑み尽くし、まるで断末魔の代わりとでもいうかのように轟々と燃え盛った。

 凄まじい力だった。一体、細い体のどこにこれほどまでの熱量があったというのか。その熱さといえば、別にあたしが爆心地にいるわけでもないのにじりじりと肌が焦がされていくよう。熱風は喉の奥を干上がらせ、頻繁に瞬きをしなければ瞳までも乾ききってしまいそうだった。

 それでも────それでも、目を離さずにはいられなかった。膨大な力という点では、目の前の少女もたった今塵となった化物も大差がない。しかし彼女のそれは、ある一点において化物とは異なっていた。


 化物のような、どこまでも無機質で底冷えのするような死の気配ではない。彼女のそれは、生の息衝く「温度」の暴力。生き、活きていたいからこそ、絶対零度に抗う熱量の証明。

 だからこそ、惹かれたのだ。


 炎が空気に融け、消え、還っていく。その様を背後に、再び彼女はいきなり現れた。あたしの目の前、しかし今度は背中ではなく真正面から見上げた顔は、鋭さの中にまだあどけなさを残す少女の面立ちだった。

「────無事か?」

「えっ? あっ、う、うん」

 まさか話しかけられるとは思っていなくて、答えた声が若干上擦る。それを気にした風も無く、彼女はあたしの様子を見るように屈みこんだ。

「オマエ、一般人だろ。なんでこんなところにいやがる。しかも一人で」

 こんなところ。その意味を図りかね、あたしは首を傾げる。あんな化物がいたからには確かに危険な場所なのだろうが、遠くに騒音が聞こえる以外に際立った脅威は周囲には見当たらない。

 そこは、煉瓦造りの建物が点々と並ぶ街路の一画だった。コンクリートの地面に、あたしは直に座り込んでいる。見渡す限りあたしたち以外に人の気配は感じられず、伽藍洞のような印象を受けた。

 そしてその伽藍洞に何故一人でいるのかと問われて、……言葉に詰まった。

「……ええと」

 思い出せないのだ。何もかも。ここに至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちて、否、たった五分前に生まれ落ちたかのように、一つのことを除いて何も記憶がない。

 どうしてここにいるのか、どうやってここに来たのか、生まれはどこで、育ちはどこで、両親は誰で────本当は、かろうじて覚えているはずの名前すら確証がない。「自分」を証明する言葉の一つすら持たぬ己に、形容し難い恐れがぽっかりと口を開けて、まるで奈落のように心を包んでいく。

 否、それでも、答えなければ。口ごもるあたしを不審に思ったのか、その深く鋭い青がこちらを覗き込んでくる────その時だった。


 りん

あらた、今貴女は何をしていますの?』


 どこからともなく鈴を転がすような音が虚空に響いて、次いで聞こえたのは、甘くゆったりとした女性の声だった。咎めるでもない。怒るでもない。ただただ淡々と問い質すような声音に、目の前の女の子は苦い表情で顔を上げる。つられて見上げたあたしは、ほどなくしてその音源と思われるものを見つけた。

 女の子の肩に乗っているそれは────妖精だろうか。淡く仄かに星の光をまとって、手には天秤を持っている。大きさはあたしの掌くらいだろう、小さなそれは、しかし見た目にそぐわない艶やかな声で続ける。

『貴女の単独行動については後で叱るとして……その子は、貴女が助けたのね?』

「……あァ」

 どうやらあたしのことまで把握しているらしい。であるからには、どこからか見ているものだと思ったのだが……首を巡らせど、依然玩具のような天秤を揺らしている小さな妖精以外に、それらしきものはいなかった。鮮、と呼ばれた女の子は一つ頷き、ゆっくりと立ち上がる。

「分かってる。私が助けたんだ、責任は私が取るよ。だから姐御」

『ええ、もちろんでしてよ。そこから北東に五百ほどのところにはるか艫居ともいがいるわ、二人と合流して頂戴』

「了解」

 女の子が短く返答すると、妖精はにこりと微笑みを残して空気に融けるようにして消えていった。現れる時も唐突だったが、去っていく時もいきなりだ。不思議な出来事の連続にぱちりと目を瞬かせれば、女の子がずいとこちらに手を突きだしてくる。

 一瞬だけ意図を判じかね、自分が座り込んでしまっていたのを理解して慌ててその手を掴む。思いのほか強い力でぐい、と引き上げられると、彼女はその青い瞳で真っ直ぐにこちらを見つめた。

「オマエ、名前は?」

 名前。「あたし」という自己を指し示す言葉。ただ一つ、あたしが唯一持っている記憶。正直なところ、これが本当にあたしの名前であるのかどうかすらも自信は無い。

 ただ、寄る辺なき非力な人間には、そこに縋らない選択肢は存在しなかった。同様に、目の前に無愛想に差し出された掌を取らないという選択肢も。

 握ったからには、覚悟を決めなければならなかった。

 あたしは、


「あたしは、……御津みと。御津っていうの」

 突き抜けるように澄んだ青空の如く、透明な瞳を真正面から見据える。そうして口に出した名前は、怯えていたよりもすんなりと自分の舌に馴染んだ。


 そしてこれが、あたしと彼らの────《カルテット》と呼ばれる四人組との、最初の出会いだった。

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