第3話
蕾は仕事の話があるからと言って、その後すぐに去っていった。
そして再び入れ替わるように、咲也が水筒を二つ持って戻ってきた。中は冷たいスポーツドリンクだった。今は十一月下旬で、肌寒くなってきているのだが、激しい運動をした後なので、むしろ冷たい方がちょうど良かった。
「お前、昨日なんかあったのか?」
咲也がそう切り出したのは、水筒を半分くらい飲み干した後だった。
「・・・今日調子が悪かったから?」
葉子がそう言うと、咲也は首を振る。
「まあ、今日もそうだけど・・・昨日の夕方から、なんかおかしかっただろ。夕飯ん時も、ずっと沈んだ顔してたし」
「・・・ずっと見てたの?」
葉子が訝しげに顔を顰めて言うと、咲也は声を張り上げた。
「嫌でも目に入ったんだよ、鬱陶しい沈んだ顔が!・・・そんで、何かあったのか?」
――もしかしたら、この話をする為に訓練誘ってくれたのかな?――
咲也は既に、福の巣内で拮抗する実力の相手がいない。それでも、男性戦闘員の中には、葉子より高い実力の者がいる。咲也と葉子は、そこまで頻繁に対人戦闘訓練をやるわけではなかったのだ。
そう思い至った葉子は軽く笑みを浮かべ、咲也に昨日の依頼の話をした。
「・・・まあ、なんつーか」
葉子の話を一通り聞き終えた咲也が、頭をガシガシと掻きながら言う。
「お前が不要になった、とか、そういうわけじゃねーと思うんだけどな・・・白木さん、そんな人じゃねぇし」
葉子は頷いた。彼女自身も、白木の人柄は理解している。でも。
「でも、白木さんだって、裏世界の――日陰の住人なんだよ。心では私たちの事を大切に思ってくれてても、梟会を運営する上で、必要ないと判断したものは切り捨てるよ」
「でも、白木さんは退所後にフリーになった奴らの相談も乗ってるっぽいし、白木さんがうちの担当になってからは、護衛として売られることも無くなったじゃねえか」
咲也は言ってから失言に気づき、弱々しく付け足した。
「・・・その、お前の依頼までは」
葉子は失笑した。この人は相変わらず戦闘以外は色々抜けているな、と思ったのだ。そして、微笑みながら言う。
「いいんだよ、別に。私は梟会に逆らうつもりはないし、それが梟会の方針なら、従うだけだよ」
葉子は、昨日からそう自分に言い聞かせてきた。彼女は、親の顔を知らない。恐らく、福の巣にいる大勢と同じように、堅気でない者の間に生まれた、不要な子だったのだろう。もし梟会がなければ、自分は既にこの世にいなかったかもしれない。結局梟会にとっても、自分は不要な子だったようだが、それで自分が生きていけなくなるわけではない。ガラクタのように捨てられるわけではない。
故に葉子は、清崎の養子として最後の任務を全うしようと、そう思うことにしたのだ。
十二月、某日。
葉子は旅行鞄を持って、豪邸の前に立っていた。
十一月の下旬から十二月になるまでの僅かな日数のうちに、葉子の買い上げは終わった。梟会から護衛を一定期間貸し出す場合は里子として、護衛を貸すのでなく与えてしまう場合には養子として、多額の寄付金と引き換えに、差し上げることになっている。勿論、後者の方がより多額になるのだが、それでも腕の良いフクロウの場合は、梟会でずっと働かせた方が利益になるだろう。
この時には既に、葉子は梟会の方針に従うことに異議は無かったのだが、それでも、御曹司の我が儘で、貴重なフクロウに人員を割くだろうかという疑問と、御曹司の身の安全が確保されたら自分はここでも不要な存在になるのではないか、という不安があった。
インターホンで名前を告げると、葉子は中に通された。門から屋敷まで車で移動するという体験をさせられて、葉子は「まるでドラマや映画だな」と心の中で呆れた。・・・自分の事を棚に上げて。
目眩がするほど煌びやかな屋敷の中に通され、そのまたさらに豪華な部屋へ、葉子は連れられた。恐らく、応接間だろうか。中には、清崎財閥の現当主が待ち構えていた。
「やあ、葉子ちゃん、いらっしゃい」
当主の清崎は、作り笑いには見えない完璧な笑顔で葉子を出迎えた――実際作り笑いなのかどうかは、葉子には分からなかった――。
それから気兼ねなく、清崎は話し掛けてくる。その振る舞いには、畏まらなければいけない立場の葉子が思わず気を緩めてしまいそうになる、不思議な力があった。そして清崎は、「畏まらなくていいよ、もう家族みたいなものだろう?」と暖かい笑顔で言い、葉子は苦笑した。厳密には、まだ養子になったわけではない。実際に養子になるには、もう少し年月が掛かる。なお、養子縁組手続きに携わっている機関には、全て梟会の息がかかっている為、養子になることはほぼ決定事項だった。本来ならば、こうして養親のもとへ行くのも、こんなに早くないだろう。
清崎は、そうやって一通り葉子を口説いたあと、ようやく本題に入った。
「それで、私の息子・・・
清崎涼太。護衛対象の御曹司の名前だ。
「もう聞いていると思うけどね、最近、涼太を狙う不審な動きがあるんだ。変な奴が涼太の周りをうろちょろしてたり、妙な車が後をつけてたり・・・。それでも、涼太は車の送迎も護衛もいらないと頑なに言い張るんだ。本当に困った子でね」
苦笑する清崎に、葉子も苦笑で返した。内心で「全くです」と言いながら。
「だから君には、涼太と同じ『
葉子は頷く。その話は既に白木の口から聞いていたからだ。しかし、続く清崎の言葉は、完全に初耳だった。
「それと、襲ってきた相手は、絶対に殺さないこと」
「・・・は?」
葉子は思わず、礼に欠けた返答をしてしまう。それでも、清崎は特に気にした様子もなく、にっこりと微笑みながら、その難題を決定事項にした。
「相手は絶対に殺さない。・・・いいね?」
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