線香が消えるまでに

天川累

線香が消えるまでに

やたら色鮮やかな和服を身にまとった、絵に描いたようなつるつるとした坊主頭のお坊さんが、まるでドラムでも叩いているかのようにリズミカルに木魚を鳴らし、無機質な眠そうな声で低くお経を唱えている。こんなに眠そうに脱力感のあるお経なんかで本当に成仏できるのか疑問を抱いてしまう。いや、逆にハキハキと喝を入れるようにお経を唱えられてもあの世に行く身になってみればうるさくてたまらない、静かにしてくれと思うのかもしれない。そう考えると眠気を誘う唱え方も死者が眠るようにあの世にいけるための工夫だったりするのかな。


「オショウコウお願いいたします、、、」


先ほどまでの低く唸るような重低音のお経と木魚が一瞬でピタリと止んで、数秒静寂が訪れる。そうかと思ったら次は蚊の鳴くようなか細い声でオショウコウという謎の単語が聞こえてきた。オショウコウってなんだろう、お願いするってことは何かをするのかな。頭の中をハテナマークがぐるぐると回りだした頃、一番前に座っていた黒服の男が席を立ち、おもむろにお坊さんの後ろにある変な台の前に向かった。前に座る大きな男の背中でよく見えない。オショウコウとはなんなのかすごく気になって少し体をよじって大きな背中の隙間から目を細めて覗いてみる。その男は台の前に立つと突然前方の僕らに向かってお辞儀をしだした。あまりにいきなりのことに戸惑っていると周りの大人が一斉にお辞儀をし返したものだから訳も分からず周りに合わせてお辞儀をする。頭をあげると、男はカップのような容器に入った砂のようなものを親指と人差し指でつまんで自分のこめかみの前に掲げた。そしてその謎の動作を2回ほど繰り返した後、線香を指してまた僕らにお辞儀をして席に戻っていった。これがオショウコウというのだろうか。次に先ほどの男の隣の女が立ち上がりまた男と同じ行動をして席に戻っていく。そして次、次、次と規則的に同じ動きを繰り返していている。恐らくこれは順番に回ってくるのだろう。きっと僕もこの後大人たちと同じように澄ました顔で、いたって冷静にオショウコウを済ませないといけないのだと察する。そう気が付くとなんだか焦ってきてより大人の動きを観察してしまう。砂をつかむ動作は2回、線香は1本、あ、その前にお辞儀をしないと。焦れば焦るほど単純であるはずのその動きを頭に入れることができなくなる。大人は瞬時に他の人の動きを真似できるのだろうか、はたまた「常識」として当たり前にできることなのだろうか。大人ってやっぱりすごいな。


「アキラ、あれはオショウコウって言ってお香を焚いて亡くなった人に感謝を伝えるものなの。遺影の前に立ってお辞儀を1回して、お香をつまんで顔の前に持ってくる。それを2回して、最後に手を合わせて戻ってくるのよ。あなたは子どもだからうまくできなくても大丈夫、ほら、行っておいで。」


僕の順番になる直前でお母さんは耳元でそう教えてくれた。お坊さんのお経にうまく掻き消されて、尚且つ僕の耳にしっかり聞こえるくらいの声量で聞こえたその声は僕の不安を取り除いてくれた。お焼香、謎に包まれていたその単語の意味が今の僕にははっきりとわかる。恐る恐る席を立ち、台の前で立ち止まる。遺影には3年ほど前の少しだけ若い祖父の幸せそうな笑顔が映っている。棺桶に入っている祖父は遺影ほどニコやかではないものの口元が緩まっているように感じられて、僕にはとても幸せそうに見えた。


 2日前の午後8時過ぎ、リビングで宿題をしていた僕の耳に1本の電話の着信音が聞こえてきた。静まり返ったリビングに響いたその甲高い電子音はなぜかいつもより悲しみを含んでいるような、泣いているように聞こえてその時からなんとなく嫌な予感がしていた。お母さんが電話に出て、他所行の少し明るい声色で話し始める。はい、はい、そうですか、はい。その相槌の数だけ段々と母の声色が低くなっていくのを鮮明に感じる。2日後の夜ですね、わかりました。明日の朝からすぐそちらに向かいます。そう言って電話の切れた音がしてこちらに向かってくる足音。涙ぐんだ母の口から予想していた、わかっていた言葉が放たれる。


「おじいちゃん、さっき亡くなったって。明日の朝からおじいちゃん家に向かいましょう。」


僕の大好きだった祖父が亡くなったのだ。

昔からおじいちゃん子だといわれるほど祖父に可愛がられてきた。女手一つで僕を育て、毎日仕事に追われていた母に変わって箸の持ち方、自転車の乗り方、切符の買い方、日常生活で必要な知識のほとんどを祖父から教わっていたような気がする。小学校が終わると祖父がいつも近くの駄菓子屋に迎えにきてくれていて、そこで少しだけ駄菓子を買って、右手に祖父の手を、左手に小さなお菓子の袋を持って家まで帰っていた。家の近くに来ると祖母の作る美味しい夕食の匂いが玄関前まで漂っていてその匂いで今晩の夕食を祖父と当て合ったりしていた。母の仕事先がこちらに移る時に祖父の家から引っ越して以来なかなか会う機会は減ってしまったものの週に1回は必ずあの木の香りが強い古びた家に通っていた。

しかし、1年ほど前の朝、祖父は散歩中に神社の階段から転落してそのまま意識不明の重体となってしまった。相当打ちどころが悪かったらしい。あんなに健康で元気だった祖父が病院に通う度に痩せ細っていく姿は正直見たくなかった。僕の思い出の中に生きているあの元気で優しい祖父の姿を、医療器具に体を支配され、今にも息を引き取ってしまいそうな苦しそうな姿で上書きしたくなかった。そんな理由で病院を避けていたある日、祖父が亡くなってしまった。もっと病院に行っていれば、もっとベッドで横たわる祖父に声をかけてあげていれば長生きできたかもしれない。せめて最期に、ありがとうと一言いうことはできなかったのだろうか。そんな後悔だけを今日まで引きずってしまっている。


 お香を2回ほど焚いて手を合わせる。おじいちゃん、今までありがとう。おじいちゃんは幸せでしたか、僕はおじいちゃんといた時間がすごく好きでした。最後にお礼を言えなくてごめんなさい。死ぬってどんな感じなんですか、苦しいですか、楽でしたか、僕はあなたのいない世界でどう生きればいいですか。

少し合掌の時間が長かった。慌てて目を開けるとちょうど祖父の遺影と目が合った。笑顔の多かった祖父の最高の笑み。さっきも見たはずのその顔が今だけ少し違って見えた。祖父の顔と見比べてもやっぱり遺影と同じくらい幸せそうな顔してる。よかった。幸せだったんだね。そう思った瞬間、今まで感じていなかった喪失感と現実が強くこみあげてくる。もう祖父はこの世にいないんだという現実、一番僕の近くにいたはずの人が急に僕より一番遠くに行ってしまった寂しさ、それらすべてが胸をきつく締め付け、涙腺の門をたたいて、溢れて、止まらない。今日まで一度も涙なんて流さなかったのに、気づいたら涙が流れていて自分でも驚くくらい大きな声で年甲斐もなく肩を揺らしながら泣いていた。お坊さんのお経が半分くらい掻き消されるくらいの声量で泣きわめき、それに気づいた母が僕の肩を優しく抱えて席まで連れ戻す。もう涙でぐちゃぐちゃになって前すらしっかり見えなかったけど時折参列している黒服が涙をハンカチで拭う動作をしているのがわかる。早く泣き止まなくちゃ、大人にならなくちゃ。そう思っても気持ちに反して止まらない涙がさらに顔をぐちゃぐちゃにして、恥ずかしくて、顔をうずくめて隠した。



お葬式が終わると今度は火葬場に向かうために親族が大広間に集められた。止まらなかった涙は葬式が終わるにつれて涙腺に戻っていき真っ赤になった顔だけが証としてそこに残った。参列者はたくさんいたけれど親族となると少なくて広間に残ったのは十数人ほど。みんな顔を真っ赤にした僕を見かけては、ちゃんと別れの挨拶はできたかいと言葉をかけてくれた。それが嬉しくて、でも少し恥ずかしくてただただ無言でうなずくことしかできなかった。


「アキラ、久しぶり。大きくなったなぁ。」


聞き覚えのある低くたくましい不思議と安心感を感じる声。その声は耳から入り体内を巡って心臓の中にある閉ざされた小さな心の中にすんなりと入ってくる。この声の主は間違いない、おじさんだ。

振り返った途端、その大きな腕で全身を優しく包み込まれた。化学カイロよりもぬるいほのかな体温に温められ、言葉は交わさなくてもそれが大好きな祖父を亡くした少年に対する慰めの行動であることはすぐにわかった。


 昔からおじさんの声が、体温が好きだった。おじさん、と言ってもまだ年齢は20代後半くらい。でも僕にとって叔父さんだからおじさんと呼んでいる。母親と同世代の親戚が多い中で唯一比較的年が近かったのがおじさんだけだった。おじさんにも僕にも兄弟がいなかったから弟のようにかわいがってくれたし、僕もまた本当の兄のようにおじさんを慕っていた。キャッチボールをしたり、庭で駆けまわったり、父親や兄弟でやるであろう一通りの遊びをおじさんと共に経験した。会うたびに大きくなっている背中に早く追いつきたくて、早くおじさんみたいな大人になりたくて、必死に背伸びをしている。

大きな腕から僕を離した後、頭をポンと軽く叩いて他の親戚の元へ挨拶に回った。ひどくよそよそしい態度で相手の顔色をうかがう親戚たち。それもそのはず、普段は顔を合わせることなんて滅多にない。今日初めて顔をみた親戚も多い。身内が不幸になった時だけ顔を合わせるなんてなんだか変な感じだ。


「アキラくんは、、どうする。連れていきますか。」


すぐ近くで多くの雑音の中から自分の名前を呼ばれてまるでアンテナでも張っているかのようにピンポイントでその言葉だけを受信した。父方の親戚のおばさんと母親がなにやら話をしている。


「でも、アキラ君お葬式であんなに泣いていたし、きっと骨になったおじいちゃんを見るのは酷なんじゃないかなあ。」


母がそうですね、と伏目がちに相槌を打つ。これが一体何の話をしているのか僕にはわからなかった。しかし、大人だけの会話。居間で大人だけがお酒を囲んで集まって、あなたたちは隣の部屋で遊んでいなさいと強引に襖を閉められた時のような疎外感を感じる会話。きっとこの話は僕の意志を介さずに行われている。それが僕にとってとても重要なことにも関わらず恐らく僕の意思は尊重されない。ただ、何かしらの方法で自分の意思を伝えないといけないような気がして二人の元へ近づく。しかし、周りに大人がいすぎて大きく遠回りを強いられる。早くしないと、早く。


「アキラも連れていきましょう。最期の別れをさせてあげるべきです。」


大人の足をかき分け二人の元へ辿り着いた時、低く安心感のある声がそう答えた。おじさんだ。


「でも、、ショック大きすぎるんじゃない。」


「大丈夫です。アキラは強い子ですから。」


そう言ってもう一度、僕の頭をポンと叩いた。なんのことかはわからない。ただ、おじさんだけが僕を信頼して、見ていてくれている気がして嬉しかった。




火葬場に到着すると、ひどく焼き焦げた灰の臭いが刺激的に体内に入ってきて不快だった。なるべく鼻で息をしない様に口で呼吸してみたり、鼻をふさいでみたりしてうまくやり過ごす。待合室に入って親戚同士が談笑しているのをしばらく眺めていると、順番が呼ばれてまた大人数で移動をする。そこには台車のようなものに乗ったおじいちゃんが横たわっていた。説明によると、これからおじいちゃんは燃やされるらしい。その時はじめて、人は亡くなったらそのまま埋められるのではなく燃やされ、骨と灰になって埋められることを知った。大きなイタリアンのピザ窯のような鉄の塊におじいちゃんが吸い込まれていく。これで最後だからと言ってお母さんがおじいちゃんの手を握らせてくれた。その手は血が通っていないことを強調するように冷たくて硬かった。せめて最後、人のぬくもりの中で眠ってほしいと思い自分自身の体温で、できるだけ手を温めた。

大きな鉄の扉が閉じる。

その瞬間、またこみあげてきた悲しみの象徴をのどの奥で力一杯堪えるのに必死だった。



長い時間を冷たい待合室でよそよそしく居心地の悪い時間を過ごしていたら火葬場の人が再度順番を呼んだ。黒服を着た大きな大人たちの背中を追い続けるとそこには白い骨だけが置物のように残っていた。理科室に飾ってある骸骨よりは少し不格好で、バランスも悪い。その姿には祖父の面影をどこにも感じなくて悲しくなった。大きな箸のようなものを渡されて、骨をつかんで壺に入れる作業に入った。これを「ノウコツ」というらしい。まるで大きな食べ物を持ち運ぶように二人や三人で箸を使って壺に入れていく。お食事をする時に複数人が同じ食べ物を箸でつかむことがお行儀が悪いとされているのはこれが由来だとお母さんが教えてくれた。しかし時折壺に入りきらなくて火葬屋のおじさんが骨をくだく音がすごく痛ましくてとても聞いていられなかった。もう死んでしまったら人でないという実感、ほしいぬくもりもうどこにもないんだという現実。ダメだ、またこみあげてくる。何度歯を食いしばればいいのだろう。耐えなくちゃ。大人にならなくちゃ。僕だけが泣きわめくわけにはいかないんだ。自分が泣けば泣くほど周りのみんなも釣られて悲しくなる。それがわかっているからこそ誰一人涙を流さないのだ。でも、心に反して目から溢れてくる悲しさと喪失感を必死に隠す。しかし、一度崩壊したダムは流れが加速していき、ついには声にまで出てしまった。親戚のおばさんらしき声が「だから言ったのに。」と呟いたのが意識の片隅で聞こえる。そうか、僕はきっと今おじさんの信頼を裏切ってしまったのだ。大人であってほしいというおじさんの期待に応えることができなかった。


「アキラ、一回外に出ようか。」


おじさんに背中を押されながら近くの自動販売機まで移動した。顔を隠すのに必死な僕に対しておじさんは何も言わず、ただ隣にいてくれ。おじさんだって悲しいはずなのになぜ涙を堪えることができているのか。大人だから、強いから。きっとそうだ僕はまだ弱いんだ。子供なんだ。どうしたらおじさんみたいになれるんだろう。追い続けても、追い続けても決して追いつくことのできない背中をどうやったら超すことができるのだろう。


「おじさん、どうしたら大人になれるの。」


僕がそう聞くとおじさんは驚きと困惑を合わせたような顔をしてうーんと唸った。


「泣きたいときに我慢するのが大人ってわけじゃないぞ。大人は嘘をついているんだ。ほんとは泣きたくてしょうがないのにいろんな物が邪魔して泣けなくなっている。だからアキラの方が正しいんだよ。」


僕の質問の意味をおじさんは正確に理解してくれた。大人は嘘をついている。だったら僕はいつか嘘をつかなければならないのだろうか。

「それに、」


「大人になるってことは、それだけ失敗するってことだからな。」


そういうと自販機に硬貨を数枚入れ、リンゴジュースのボタンを押してそれを渡してくれた。無理して大きくなろうとしなくていいんだよ。そうつぶやきまた僕の頭をポンと叩いた。正直おじさんの言葉の意味をよくわかっていない。しかし、きっとこれは重要なことだ。将来、本当の意味で大人になる時、僕はこの言葉の意味を正確に理解するだろう。それまでは、まだ焦ることはないのかもしれない。急に泣き顔が恥ずかしくなってきて、それを隠すように大きく立ち上がる。



祖母の家にあるおじいちゃんの仏壇。葬式の時とは違う控えめな線香に火をつけ、手で仰ぐ。誕生日ケーキのようにフーと吹き消してしまいたくなるが先につけた炎が全体を包むまで火が消えることはない。じりじりと線香の色が白く変わっていくのを見るのがちょっと好きかもしれない。

火が真ん中あたりに差し掛かった。おじさんは僕に無理に大きくならなくていいと言った。しかし、早く大人になりたい。どんなに失敗してもいいからおじさんのような強い大人に。

この線香が消えるまでに、僕は大人になれるのだろうか。


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線香が消えるまでに 天川累 @huujinseima

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