第8話 ずるい男2
まだまだ太陽が中天まで上りきらない午前。図書室での二人きりの時間は続いていた。
何を考えているのかよくわからない公爵は、図書室から立ち去る気配はない。まだチャンスは残っている。目撃者も邪魔者もいないこのシチュエーション。なんとしてでもモノにしなくては。
「カイン様、実はお願いがあるのですが」
「ん?」
私は胸に殺意を秘めつつ、公爵に微笑んでみせた。実はさっき辞書を探してる時に、あるものを見つけたのだ。あれを使えば、簡単に公爵を事故に見せかけて殺すことができる。
「向こうの書棚に読みたい本があるのですが、私の背じゃ届かなくて……」
私は閲覧席から少し離れた、これまた死角になっている場所を指さす。意外にも公爵は私の後を素直についてきた。
「……どこだ?」
「こちらでございます」
陽の差さない狭いコーナーにある本棚は三段になっていて、一番上の棚は天井に届くほどの高さだ。最上段の本を取るためには、高さ2メートルほどある巨大脚立に上らなくてはならない。
「あの本を読みたいのですが……」
「どれだ?」
「あのオレンジ色の背表紙の本でございます」
私は最上段にある、一番目につきやすい本を適当に指さした。すると公爵は特別疑う素振りもなく、カツン、カツンと脚立を上り始める。
(ふっ、まんまと罠にかかったわね。これであんたもおしまいよ!)
私は脚立に上る公爵を見上げながらほくそ笑んだ。最上段まで上りきったところで脚立を倒せば、公爵はバランスを崩して落下するに違いない。
さすがの公爵も2メートル+自分の身長分の高さから真っ逆さまに落ちれば、無事では済まないだろう。運よく頭から落ちてくれれば即死の可能性だってある。
さぁ、公爵、覚悟なさい。今そこから落として差し上げますわ。私はゴクリと息を呑んで、いざ脚立を倒そうと手を伸ばしかけた。
「――なぁ」
「は、はいぃ!?」
が、脚立を上っていた公爵が、突然私を振り返った。慌てて手を引っ込め、作り笑いを浮かべる。
「本当にこの本でいいのか?」
「は?」
「『筋肉は裏切らない。今日からできる3分間マッスル体操』」
「え、ええっ! その本が読みたいのです! ホホホホ……!」
適当に選んだ本のタイトルは最悪だった。だけどもう引っ込みが付かない。貴族が好んで読む本とは到底思えないけど、ここはゴリ押ししなければ。
「ついでにその右隣の本も取ってくださるとありがたいです」
「『ヴァルバンダ伝奇・妖怪ケタケタと愉快な仲間たち』」
「ええ、その本も前からずっと読みたかったのです!!」
私としたことが選ぶ本のチョイスをことごとく間違えてしまった気がするが、そこは気合でカバー。公爵は「フーン」と興味なさげに、本をとってくれる。
ホッ、よかった、公爵の警戒心がゼロで。案外この人、ズボラなのね。
(さあ、今よ、デボラ! この脚立をドーンと力いっぱい倒すのよ!)
公爵の視線が逸れた瞬間、私は腰を落とし、脚立を倒すタイミングを見計らった。
だけどいざ倒すだけとなったその時、ふと『ここから落ちたら痛いんだろうなぁ』などという、当たり前のことが気になった。
(このままバランスを崩して落ちたら、頭がぱっくりと割れて血だらけになるわね。即死できるならまだラッキー、逆に中途半端に落ちて、首や足やらが変な方向にぐにゃりと折れたら目も当てられない。こんな奴だけど、きっと死んだら泣く家族や友人もいるだろうし。いやいや、ここで躊躇ってどうするの、私……)
私は絶好のチャンスだというのに逡巡してしまった。心なしか手もわずかに震えている。
だって仕方ないじゃない。人を殺したことなんて、前世も含めて一度もないんだもの。
誰だって最初は怖気づくわ。それが例え憎い仇であろうとも。
「――なぁ、おい」
「ぎゃあっ!?」
あれこれ考えている内に、公爵にまた声をかけられ焦ってしまった。
つるつるとよく滑る大理石の床に足元をすくわれ、私はバランスを崩す。
「あっ!」
「!」
気づいた時には、目の前の脚立にドンッと勢いよく体当たりしてた。
ぐらりと大きく揺れる脚立。
その上に乗っていた公爵は、真っ逆さまに床へと落ちていく。
「カイン様!」
「―――!」
私は思わず反射的に公爵を助けようと両手を伸ばした。
ごめんなさい、今のはわざとじゃないの! いや、落下を狙っていたのは事実だけど、そもそもタイミングが悪かったっていうか!
意味のない言い訳ばかりが走馬灯のように脳内を駆け巡る。
矛盾してるわ。目の前の男に死んでほしいのに、いざとなったら助けようとしてしまうなんて。私は一体何がしたいのかしら。
そしてそのまま公爵が床に打ち付けられて……ジ・エンド――となるはずだった。
けれど公爵は空中に放り投げだされても、表情一つ変えず、それどころか恐るべき瞬発力で体をひねる。
黒くて長いケープが、まるで悪魔の羽根のように広がった。
あ、これ、昔テレビで見たことあるわ。
確かオリンピックの体操競技で、内村選手が決めてたムーンサルト。
そんなことを錯覚してしまうほど、公爵はなんてことないという風に、すとんと危なげなく床に着地した。
「デボラ」
「!」
それどころか、着地してすぐに私の腕を引き、倒れる脚立から庇ってくれた。
ガシャンッと派手な音が、図書室中に響き渡る。轟音を聞きつけて、エヴァやレベッカ達が駆けつけてきた。
「デボラ様、いかがなさいました!?」
「カイン様――!」
エヴァ達と共に、どこかに控えていたらしいヴェインも、血相を変えて走ってきた。巨大な脚立が床に倒れ、その衝撃のせいで本が何冊か散らばっている。
ちなみに私はと言えば、倒れる脚立から庇ってもらうだけでは足りず、そのまま前のめりに転びかけたところを、逆に公爵に受け止めてもらうという大失態を犯していた。
「ケガはないか」
「……………っ!」
そう、つまり私は今公爵の腕の中ということだ。
エヴァは「まぁ、ご夫婦仲がおよろしいことで……」などと、頬を赤く染めている。
いやいや、違いますから。これは抱擁じゃなくて、いわゆる木から落ちたくなくて母親にしがみつく赤ちゃんコアラみたいなもんだから!
べ、別に真っ赤になんてなってないわよ! これは事故。全て不慮の事故ですから!
「カイン様、何があったのです」
「別に。問題ない」
ヴェインの質問に、公爵は本当に何事もなかったかのように、しれっと答えた。
うーん、恐るべき身体能力。まさかあんな高い脚立から落ちて、無傷で済むとは思わなかった。
でもそれも納得してしまうほど、公爵の体はしなやかで男らしい。
だ、だからってドキドキなんてしてない! そんなんじゃないったら。
「問題ない、ですか……。本当に?」
「………」
ヴェインの鋭い視線が私の背中に突き刺さった。
うーん、こりゃ明らかに疑われてるわね。実際公爵を死角に誘い込んで、脚立から落下死させようとしたのは私。それに私は昨日嫁いできたばかりの、いわば余所者。警戒されるのは仕方ないかもしれない。
「ごめんなさい、ヴェイン、私の不注意のせいでカイン様を危険な目に遭わせてしまいました」
「……」
今後のことも考えると、今ここで屋敷の者達に不審がられることは避けたい。私は従順なふりをしてみるが、ヴェインの視線は相変わらず鋭いままだ。
だけど意外にも助け船を出してくれたのは、公爵その人だった。
「そう怖がらせるなヴェイン。お前とデボラ、案外趣味が合うかもしれないぞ?」
「は?」
「え?」
公爵が取り出したのは、私がさっき頼んだ『筋肉は裏切らない。今日からできる3分間マッスル体操』の本。それを見たヴェインの瞳が、突然輝きだす。
「おおおっ、これは伝説の剣士マークス=キストナーの幻の著作ではないですか!!」
「そうだ、お前がずっと探していた本だ。デボラがこの広い図書室の中から見つけ出してくれたんだぞ」
「なんと! 奥方も筋肉に興味をお持ちで!?」
んなわきゃないでしょーがっ!
と、思いっきり否定したいところだけど、ここは多分このウェーヴに乗るのが正解。
「ええ、筋肉は素晴らしいわ。私も体を鍛え、公爵夫人としての務めをきっちり果たしたいと思っておりますの。丈夫な子を産むためには、丈夫な母体を育まなくてはね。ホホホ……」
「なんと……」
「その本を探していたなら、あなたがお持ちなさい。私はまだ他に借りたい本があるから、遠慮しなくていいのよ」
「……」
コホン、と一つ咳払いしつつ心にもないことを流々と述べれば、鬼のようだったヴェインの眼光が少し和らいだ。ヴェインは私に一礼し、
「ではお言葉に甘えて、この本はお借りいたします。ですがカイン様、吾輩ども護衛の目を盗んで、お一人になるのはお控え下さい」
「はいはい」
と、非難の矛先を公爵に変えた。公爵はヴェインの忠言を軽く聞き流しながら、私に視線を落とす。
「それにしても……デボラ」
「はい?」
「いつまでそうしているつもりだ?」
「!!」
指摘され、私は慌ててて公爵のそばから飛びのいた。
あらやだ、私としたことが。ついつい緊張のあまり公爵にしがみついたままだったわ。別にあんたとずっとくっついていたいとか、思ったわけじゃありませんから。そこは誤解しないでほしいわ。ホホホホ……。
「も、申し訳ございません、カイン様にはご迷惑ばかり……と、わわっ!」
だけど焦り過ぎたのがよくなかったのか、またまた足元がふらついてしまう。
体の重心が斜めに傾いだ――刹那、
――ふわり
突然私の体は羽根のように軽く宙に浮いた。
気ヅイタラ 公爵様ニ オ姫様抱ッコ サレテマシタ
「(くぁwせdrftgyふじこlp~~~………っ!!) カ、カイン様ッ!?」
「もしかしたらさっきの衝撃で足首を捻ったのかもしれない。念のため医者を」
「は、はい、かしこまりました!」
「(こくこくっ)」
カインが視線で合図を送ると同時に、エヴァとレベッカが慌てて図書室から出ていった。
いやいや、待って待って。なんでいきなりお姫様抱っこ?
さすがにこの展開には私も冷や汗をダラダラ流してしまう。
「だ、大丈夫です、自分で歩けます! 下ろしてください、カイン様!」
「念のため部屋まで運ぶ。ヴェイン、ついて来い」
「はっ」
「……っ!」
だけど公爵は有無を言わさずそのまま廊下へと出た。すれ違う使用人達から「あらまぁ」「おやおや」など色んな囁きが聞こえてくる。
私はお姫抱っこされている間も両手で顔を覆い、羞恥プレイにひたすら耐えた。
(ずるい、ずるい。何なのこのフラグクラッシャー! 冷たくするなら徹底的に冷たくしてくれれば、私だって迷いなく殺してあげるのに!)
助けてもらっておいて逆恨みするなと言われればそれまでだけど、昨日の放置プレイから一転、このラブラブイベント連発展開にはついていけない。
大体お姫様抱っこなんて、好感度が80以上ないと起きないレアイベントでしょうに!
それがなんで好感度-100の状態で起きてしまうのよ!?
(いいこと? どんなに親切にしてくれてもあんたは私の敵! それだけは絶対譲れない! 境界線だけはきっちり張らせてもらうから!!)
指の隙間から公爵の顔を盗み見ながら、私は改めて心に誓う。
変だ。なんだか胸が痛い。
疼くように、締め付けられるように。
それは腹立たしくもあるし、けれど切なくも感じる。
この気持ちを一体なんて呼んだらいいんだろう?
自分の中で芽生え始めた感情に、私は戸惑いを隠せなかった。
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