第五話 守るべきもの 前編





 その日はマルクにとって大切な日であった。


 男が商人を探しに街へと旅立った日、マルクとオルフェの二人は見送りの為の準備をしていた。だが、子どもたちが想像していたよりも早く男は旅立ってしまった。


 街道へと続く森の入り口に子供たちがついた頃には、既に男の姿はなかった。


「兄ちゃんの出発に間に合わなかったね」

 オルフェはそう言いながら寂しげな表情のマルクを見るが、幼い少年には少女を元気づける方法がわからなかった。


「でもさ、一週間もしないうちに帰ってくるって言ってたし、兄ちゃんに何か用意して待っとこうぜ」

 何となく思いついた提案をしてから、オルフェはそれが案外良さげなんじゃないかと思った。

 男は物静かではあったが、子どもたちにいつも優しかった。

 この機会に何かお返しが出来るのなら、それはとても素敵なことである。


「……お兄ちゃんどんなものを貰ったら嬉しいかな」

 ずっと森の奥を見ていたマルクは、オルフェの提案に反応を示す。


「マルクの父ちゃんに聞きにいこうぜ」

 オルフェは男がテオのことを信頼している事を知っていたから、何気なくそう言う。


「お父さんかぁ。……あれ?」

 少し渋るようなしぐさを見せたマルクが、また森の奥へと視線を戻す。


「蝶々さん……お兄ちゃんがいる!」

 急に大声を出したマルクの言葉にオルフェは驚きながらも、マルクの見ている方へと視線を向ける。


 しかし、オルフェには何も見えない。

 それに、馬を連れている男がいればさすがのオルフェでも動物の気配で気づくことができるだろう。


「蝶々なんて見えないよ。マルク、帰ろう?」

 オルフェはそう言ってマルクの手を引こうとしたが、一瞬の合間にマルクの腕はするりと抜けてゆく。そのまま少女は軽快な足音を立てながら森の中へと消える。


「マルク、待って!」

 森の中へ走るマルクの背を追って、オルフェも慌てたようについていく。

 二人の足音をかき消すように、木々のざわめきだけがそこには残された。





 * * *





「いやはや、どうしたものか」


 サイ・ヒューレは悩んでいた。


 ベリオドンナの街を出てはや三日、サイ達は街の東にある森の最も深き場所にいた。

 サイの魔導を使い、自然に生み出されるものとは違う魔獣特有の淀みを辿っていたのだが、糸のように繋がっていた淀みは唐突にその場所で途絶えていた。


 いつもであれば淀みの先にいる何かしらの魔獣と出くわすのだが、今回は違うようだ。

 長期戦を見越したサイは、ディーとクルスの二人に野営の準備を頼んだ後、異常を探して淀みの途切れた周辺を歩いていた。

 事が起きたのはそんな矢先の事であった。


 その場所に一歩踏み込んだ瞬間、それまで魔導の力により感じ取れていたディーやクルスとの繋がりが一切感じられなくなった。


 元の場所へ一歩引こうとも、一度狂った感覚が戻ることはない。

 サイは暫く周囲を探ってみたが、時間が経っても状況が好転することはなかった。


「魔導蝶が多いな。魔導とともに自然の力が満ちているということか」


 虹色に輝く蝶を視界の端に留めながら、周囲の木々に短剣で目印を付けていく。


 サイの魔導による感知が妨げられているのにも、魔導蝶が影響しているのかもしれない。目に見えるほどの魔導の力が内なる魔導を狂わすというのも、考えてみれば存外道理であるとサイは思った。


「夜になるまでに合流出来ればよいのだがね」

 一人だという緊張感はあるが、その程度でサイの姿勢に揺らぎはない。


 時間をかけて慎重に探索を続けてもいいのだが、日が暮れてしまう。

 それに気になることもあり、サイは決断をする。


 サイはその場で全身の力を脱力させると、ゆっくりとへその下にある丹田へと意識を集中させる。力が集まったところで一気に魔導を練る。

 内より生まれ出たサイの魔導は赤色の輝きを放ちながら、徐々にサイの全身へと広がってゆく。


 技の名前を魔導強化と呼ぶ。

 意識的に魔導を全身に張り巡らせる事で、様々な恩恵を得る事が出来る魔導の技。

 この状態になれば、身体能力や頑強さ、知覚範囲が通常時の数倍になる為、奇襲にも強い。


 魔導強化を行えば内なる魔導の消費も早くなるのだが、魔導が満ちたこの空間においては補充も容易である。


「淀みを辿る糸が切れたということは、ここは森より隔絶された空間ということか。異常の根源たるぬしがどこかに居るはずなんだが」


 サイは目を凝らして周囲を見渡す。

 視界に入るのは、微かに揺れる木々とたゆたう魔導蝶。


 サイはさらに集中を高めながら歩く。

 何か違和感がある。


「音がない?」


 サイの魔導の発動により、周囲の大気が振動している。

 だが、その場所には植物が発するさざ波のような生命の音すらなかった。


 地に落ちた枯れ葉を踏みしめる。

 やはり音はしない。


「おかしな感じだな、時が止まってるわけでもないだろうに」


 黒い影が襲い来る。

 それは一つ目の緋眼魔獣。

 繰り出された巨大な爪は、サイの身体で止まっていた。


 いや、そうではない。

 サイの左腕が素手のまま魔獣の攻撃を払い、右手から抜き放たれた剣が魔獣の腕をサイの身体に届く前に真っ二つにしていた。


 体格差は二倍以上もあるのだが、単純な腕力においても個としての存在としても、その魔獣とサイとでは格が違った。


 縦一文字に線が引かれると、真紅の剣が軌跡を残して魔獣の身体を両断する。


「また外れか。そろそろ当たりが出てきても良さそうな状況なんだが、臆病な事だ」

 サイは溜め息をつく。


 ありとあらゆる条件で譲歩したのだ、そろそろ覚悟を決めて出てきてほしいものだ。

 大災害という大仰な呼び名とは程遠い、魔獣グアヌブの習性を知れば知るほどにあきれが来る。


「いや……、魔獣が警戒を覚えるほどの何かを、これまでに経験しているという事か。もしそうだとすれば厄介なことだ」


 森に入ってからずっとサイは視線を感じていた。

 確実にこの森のどこかにいる。


 目の前には有象無象たるグアヌブの残滓がサイを取り囲もうとしているが、それ以外の所からそいつはサイをめ付けている。


 場所はわからない。

 サイが感知できないギリギリの所からグアヌブは見ているようだ。


「全部斬ったら怒りもするんだろうか。しかし、自分は安全圏に居て高みの見物とは恐れ入るね」


 サイの全身を包んでいた赤い魔導がさらにぶ厚くなり、発光を強くする。

 一歩進むごとにサイの真紅の剣が魔獣を斬り捨てる。

 数はもはや意味をなさない。


「まあ、我慢比べと行こうか」

 サイは深く考えるのを止めた。


 いくら奴が魔獣を産み出そうとも、その全てを斬り捨てるだけだ。

 己以外音のない世界で、サイは笑う。





 * * *





 何か物音がした気がして、クルスは周囲を見渡した。

 目に見える範囲には木々があるだけで、音の小ささからして小動物の類かもしれない。


 森の最も深き場所、そこに二人はいた。


 サイと別行動を取っていたディーとクルスの二人は、野営の準備を手早く済ませると見廻りに出たサイを待っていた。


「サイ兄戻ってこないね」

 ディーになんのけなしに話し掛けるクルス。


「いつものことだがこの森でも変わらんな。しかし、どちらかと言えばこの場所では俺達のほうが危うい」

 魔導に通じる導師と、お供の二人ではその力に雲泥の差がある。

 それでも巡礼騎士として、様々な経験を経て現在に至る以上並の力量ではないのだが。


「今までと違って情報の出どころが怪しいんだけど、本当にいるのかな? それに街も大変そうだったけど」

「うむ。ベリオドンナの近くをクイン導師とヘムグラン老が回っているらしいから、向こうは任せよう。俺達は俺達にしかできないことをやるべきだ」


「クイン姉とヘム爺かあ。旅に出てこの一年会ってなかったから会いたいな」

「ここにもしくだんの魔獣がいるのなら、放っておけば後門の狼ともなりうる。その為にも俺達がしっかりせねばな」


 ミシリと鳴った音に気づいたクルスがディーに目配せをする。

 先ほどとは違って、聞こえてきたのは確実に何者かの足音だった。


「たすけてっ」

 木立の繁みより出てきたのは、獣の類ではなく人の子であった。


「どうした!」

 ディーの血相を変えたその声に、クルスはただ事ではない自体を感じ取る。

 弓を構えながらさらに周囲の気配を探る。

 およそ子供の足で来れるような場所ではないところに、子供が現れた。


「黒い怪物が……」

 震えるようにうずくまる子供、年の頃は十にも満たない程度か。

 しかしここは森の中でも最奥に位置する。

 サイが魔獣グアヌブの気配を探し当たりを付けた、最も深き場所。


「いる!」

 クルスの眼が蒼く光ると、森の暗闇に潜むものを視る。

 蠢くのは漆黒の体躯にぎらつく大きな緋眼。

 それも一つだけではない。


「ディー、魔獣が沢山いる!」


「クルス、この子を守るぞ! 時が経てばサイ導師が気付いてくれるはずだ」

 ディーは己の得物を手にして魔獣を通さぬよう子供の前に立つ。


「大丈夫だ坊主! 離れるなよ!」

 腹の底から生み出した声は森に轟く程の力がこもっていた。


 離れた場所に蠢く闇は数を増やしていく。

 ギシギシと擦れる音を出しながら、密集した状態で緋眼あかめが姿を現す。


 大きな緋色の単眼にクルスの放った矢が刺さる。


 痛みを感じていないのか、緋眼は群れとなって歩みを止めない。

 今までに幾度となく対処した魔獣と、今クルス達が相手にしている魔獣は明らかに習性が違ってみえる。


「必死になってる、やはりこの森が当たりだったようだな!」

 大きな槌を振るい、魔獣を吹き飛ばしながらディーは確信を得た。


 化物の行進は止まらない。

 だが、子供は絶対に守らねばならぬ。


 



 * * *





 マルクは長い時間森の中を歩いていた。

 少し疲れてきてはいたものの、それでも彼女が歩みを止めることはなかった。


 少し前に、虹色の蝶を追って森の中に一歩踏み出したマルク。

 だが、入った瞬間に見えた景色はいつもの見慣れた森ではなかった。

 その事を不思議に感じ、振り返ってみるマルク。


「オルフェ?」

 すぐ後ろにいたはずのオルフェの姿がない。

 不安に駆られ、何度か呼びかけてみたが返事は返ってこなかった。


 それどころか、確かに森の入り口部分にいたはずなのに外へと繋がる道もなくなっていた。


 マルクは森の奥深くまで入ったことがない。

 精々男がよく漁をしている小川のほとりまでだ。

 それにしても川を辿って少し歩けば村まで着くし、難しい事ではない。


──ザザッ


 木々の葉を擦り合わせながら間をすり抜ける風の音が、獣の唸り声のように聞こえて、マルクの内に恐怖が芽吹く。

 だが、そんな事もすぐに忘れる事となる。ふと気付くと、いつの間にか虹色の蝶がマルクの肩にとまっていた。


「綺麗……」

 その声に反応しているのか、ゆっくりと蝶は羽を動かす。

 見ているだけで不思議と不安が吸い込まれるような気がして、マルクは目を奪われる。

 さらに少し経つと、蝶は何かを探すように飛んでいこうとする。


 ゆらゆらと。

 ゆらゆらと。


 マルクをどこかへ導くように。


 大地には枯れ葉が落ちている。

 その枯れ葉は、少女を案内する道のようにも見えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る