今宵、ロレンツィ家で甘美なる忠誠を【その後のお話】
深見アキ
もう一人の後継者 編
新米構成員、あるいは恋人①
手拍子、口笛、笑い声。
広場の方では、アコーディオンの軽妙な音に合わせて
「賑やかだろう? この時期はロザーナ祭が近いから観光客も多い。あと数日もすれば街にもっと人が増えるよ」
街の様子をリストランテの二階席から眺めていたリタは、穏やかな青年の声に意識を引き戻された。目の前に置かれたグラスにウエイターが食前酒を注ぐ。
しゅわっと泡の立つロゼピンクのシャンパン。
窓の外と同じ、淡い夕焼け色だ。
そこからさらに視線を上げると、黒髪にダークグリーンの瞳、そして整った顔立ちの青年――アルバートが甘い微笑みを浮かべてこちらを見ていた。シャンパングラスを持ち上げ、乾杯を促してくる。
「忙しくなる前にデートの時間が取れて良かった。きみは仕事にかまけてばかりいるし、こうして二人きりで過ごすのも大切なことだと思わない? 恋人同士なんだから」
恋人。
やたらと強調された単語にリタは戸惑ってしまう。
(……恋人……だったっけ、わたしたち……)
リタの表情を読んだアルバートはさわやかに訂正した。
「ごめん。婚約者だったね」
いや、ただ単に言い回しの問題だけではないような。
わたしたちの関係はもっと――ビジネスパートナーのようなドライな関係ではなかっただろうか。困ったような顔をしながらアルバートとグラスを合わせたリタは、ここ数か月ほどの記憶を辿った。
彼はリタに衣食住を保証する代わりに、縁談
はじめはリタもアルバートの言うことを従順に聞こうとしたものの、幾度もの命の危険に晒されたせいで堪忍袋の緒が切れた。……高貴な身なりのアルバートはただの金持ちではなく、カルディア島を取り仕切っているマフィアのボス。にこにこ優しい笑顔と上辺の愛想に騙され、訳が分からないままに死ぬのなんてまっぴらごめんだ。
そうして紆余曲折の末にアルバートと血の掟を結び、正式なロレンツィ家の一員に――つまりはマフィアの構成員として生きる道を選んだのだけれど……。
◇
「……それで大切なご婚約者様を私にお預けになる、と」
血の掟を結んだ後にリタが引き合わされたのは、経理や事務を総括する長――ハロルドという名の三十代半ばの男だった。
整髪料で後ろに撫でつけられた金髪に、一分の隙も無く着こなされた高級感のあるスーツ。
一見すると銀行の頭取のような男は、切れ長のアイスブルーの瞳を動かし、面白そうにリタとアルバートを見比べた。
「リタを任せるならきみが適任だろう。僕だって自分の婚約者に銃を持って戦えとは言いたくないよ」
「そもそも、彼女を働かせる必要などないのではありませんか? 掃除や厨房の手伝いなどをされていらっしゃるということは聞き及んでいましたが、人手不足というわけでもありませんし……、習い事や社交に精を出されてはいかがです?」
同じことをアルバートに言われたことがある。
もちろん、リタだって自分が銃を取り扱えるような荒事に向いているとは思わないし、率先して危険な仕事を手伝いたいわけではない。
だが、アルバートの立場上、いつまでもリタを家政婦もどきとして働かせるわけにはいかないということも理解していた。お飾り婚約者にされていることへの反抗として、掃除や雑用をこなす程度ならともかく、ボスの婚約者が毎日せっせと床磨きをしているようでは他の構成員たちに示しがつかない。
リタはスケッチブックにペンを走らせた。
《アルバートの婚約者としてではなく、
ハロルドはおかしそうに微笑む。
「一構成員としてですか。なるほど。つまり、アルバート様と結婚するまでの間の一時的なお手伝いさんとしてではなく、一から、びしばしと、仕事を教え込んでいいと。そういうことですね?」
アルバートが何かを言いたげにしていたがリタはしっかりと頷いた。
《よろしくお願いします》
◇
「どう? ハロルドは厳しい?」
運ばれてきた前菜を口にしながら、アルバートが心配そうに問う。
リタは苦笑と肯定の中間のような顔で頷いた。
ハロルドが一番初めにリタに命じたのは、帳簿の読み方でもなく資料作りでもなく、『護衛を伴って街中の店に片っ端から行って来い』だったのだ。
『失礼ですが、貴女は私が今使っているティーカップにどのくらいの価値があるかわかりますか? 小麦粉の最安値はご存じで? ヴェローナ鉱山で採れたサファイアは時価いくらだと思います?』
そのどれもにリタは答えられなかった。
生まれてこの方、市場で値切った経験もなければ、高級品を買ってくれとねだった経験もないからだ。
『まずは物の適正価格を学んできてください。ロレンツィ家では困った人にお金を貸す仕事もしていますからね。いくらなら返済できるのか、差し出された担保にどのくらいの価値があるのか、いくらあれば人は生きていけるのか――そこから始めていきましょう。ついでに地理や地形も学びましょうね』
ほんの二言、三言の間にぽんぽんと課題を出されていく。
おかげでリタはアルバートが連れてきてくれたこのリストランテが人気店だということも知っていた。手ごろな価格で広場からも近く、通りを歩けば劇場もある。デートにぴったりの店だ。サラダに入っていたフルーツトマトを脇にどけたアルバートは苦笑する。
「ハロルドの仕事は信用できる。彼はきみのことを、お茶汲みや使いっ走りとしてではなく、長期的な目できちんと育ててくれるだろうと思っているからね。……けど、僕としては少し複雑なんだよね」
複雑?
首を傾けるリタにアルバートは微笑む。
「きみの様子を見に行ったら、『仕事中ですから』と何度も追い返されたよ。ちょっとひどくない? おまけに街の案内も『自分たちが責任を持ってやるから要らない』とか言うしさ……。あいつ、きみを案内した店のリストまで作って僕に提出してくるんだ。厭味ったらしいったらないよ」
文句を言うアルバートにリタは少し笑ってしまった。
(だから、今日はアルバートらしくない店なのね)
このリストランテはどちらかというと庶民的な店だ。
あいにく、個室があるような高級店はハロルドに勉強と称して連れまわされているため、アルバートからしたらデートスポットを先回りされているようで面白くないのだろう。
ハロルドといるときは筆談は必須だ。
けれど今は――耳を傾ければ楽しげな音楽が聞こえてきて、食事中に文字が書けないリタの代わりに話をしてくれるアルバートがいて、ロザーナ祭用のおしゃれなメニューは目でも楽しませてくれる。リタにとっては少しだけ肩の力を抜ける時間だ。楽しい、と素直に思える。
(もっといろんなことを勉強して、ロレンツィ家の役に立てるようになりたいな)
アルバートの支えになれるようなパートナーになることが今のリタの目標だ。
メインの皿が来る前に、リタは手帳にサッとペンを走らせてアルバートに渡した。
《誘ってくれてありがとう。素敵なお店に来られて嬉しい》
「どういたしまして。きみさえ良ければ、またデートに誘っても構わない?」
ええ、もちろん。
素直に頷くと、手帳を返すタイミングで手を握られた。
「本当にわかって頷いてる? デートなんだから、きみと手を繋いだり、キスをしたいって意味で言ってるんだよ?」
びっくりして固まるリタの手をアルバートは離す。
「……恋人なんだから当然じゃない? 仕事を頑張るのもいいけど、僕との時間も大切にしてね?」
念押しのように言われ、リタはそろそろと手帳を自分の方に引き寄せた。メインの料理が運ばれてきてほっとしてしまう。
(アルバートは……、わたしとそういうことがしたいのかな?)
これまでも婚約者だの恋人だのと調子のいいことを言われ続けてきたが、ここ最近は特に顕著だ。やけに色恋めいたことを言われて困ってしまう。愛情表現をされて戸惑っているというよりも、むしろ……。
(本当はわたしのことを働かせたくなかった?)
リタが組織の仕事をすることを表立って反対しないけれど、本心ではさっさと結婚して大人しくしてほしいと思っているような節がありそうだ。
「ほら見て、リタ。聖ロザーナの冠だ」
こんがり焼けた鴨肉に、細いパスタを冠の形に編んで揚げたものが添えてある。青と黄色の花びらも散らされていた。食用の花らしく華やかだ。
(今の時期の特別メニューなのね。可愛い……)
リタの表情を見たアルバートも嬉しそうににこにこと笑う。
端から見たら、わたしたちは恋人らしく見えているのだろうか?
一緒に過ごす時間が増え、アルバートとの距離は縮まってきたかのように思うものの――彼との間に気持ちのズレがあるような気がしてならない。それが、最近のリタの悩みでもあった。
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