『アナタのココロ、掃除します』

亜月 氷空

『アナタのココロ、掃除します』

 きっかけは、些細なことだった。気まぐれでもらった、駅前で配られていたティッシュ。その背に入っていた、不気味な色遣いの見慣れない広告。いつもならティッシュの広告なんて一瞥もせずに捨ててしまうのだが、それは妙な存在感を放っていて、ついまじまじと見てしまったのを覚えている。『アナタのココロ、掃除します』なんて胡散臭いキャッチコピーと共に、お世辞にも上手とは言い難いホウキを持ったウサギのイラストと、携帯電話と思しき電話番号が、薄黄土色のぺらぺらした紙に紫色で印刷されていた。

 心なんて不確かなものを「掃除」したら綺麗になる、とでもいうのだろうか。本当にそうなら願ったり叶ったりだが、生憎宗教や占いの類は信じないタチである。一瞬だけ気になったものの、結局その広告は捨ててしまった。



「ねえ、そこのおねーさん」

 その日の仕事を終え、自宅へと向かう足が自然と速まる午後六時。最近は日も伸びてきて、もうすぐ沈む太陽の橙色がまだ辺りを包んでいる。そんな時間帯に、こんな人通りの少ない公園で、ナンパを試みる人がいたとは驚きである。

「おねーさんってば、聞いてる?」

 しかも無視されてるし。ざまあみろ。

「もう、ちょっとは聞く耳持ってよ」

 そんなセリフと共に目の前に現れたのは、小柄な男性。派手な金髪とたくさんのピアスがよく目立つ。

「……え、わたし?」

「そうだよ! おねーさん以外誰がいんの?」

 周りを見渡しても、確かにお姉さんと呼称されそうな人物は自分以外いなかった。……いや、ごめんって。まさか声かけられるとは思わないじゃん。

 向き直ると、男性の後ろにはもう一人、背の高い黒髪の男性がいた。つばの広いソフトハットがお洒落で爽やかな印象を与えられる。どうやら二人は連れのようで、その男性もにっこりと笑いながらこちらへ近づいてきた。

「ええと、何の御用ですか?」

「ああ、いや、そんなに警戒しないでよ。ひとつ忠告しとこうと思ってさ」

 訝しげな視線を隠さずにそう問うと、金髪の方が人のよさそうな笑みを浮かべて言った。

「忠告?」

「そう。ねえ、おねーさん。——妖って、信じる?」

「……あやかし? なに、それ」

「妖怪とか、怪奇とかって呼ばれる類のやつだよ。俺たちはその中でも、人に憑いて心に影響を及ぼす奴らをそう呼んでる」

 何を言い出すのかと思ったら、そんなこと。

「そんなものいるわけないでしょ。生憎根拠のないものは信じないタチなの」

「……ふぅん、そっか。うん! まあ、そうだよね!」

 欠片も信じていない素振りを見せると、男はあっさりと引き下がった。

「実はね、おねーさんが妖を信じても信じなくてもどっちでもいいんだ。だってやつらは確実に、いるんだから」

 ふふ、と笑って男が私の背後を指さす。一瞬、悪寒がして振り返るも、案の定というべきかそこには何もない。

「ごめんごめん、驚かすつもりじゃないんだ。まあ、なんかあったら連絡してよ。おねーさんのココロ、掃除してあげる」

 それだけ言うと、黒髪の方もぺこりと会釈だけして、連れだってどこかへと歩いていく。気が付くと辺りはすっかり暗くなっていて、私も早く帰らなくちゃと小走りで駅に向かった。



 がちゃり、とドアを開けて、玄関に荷物を下ろす。靴を脱ぎながらふと顔を上げると、ドアを一枚隔てたリビングには明かりが灯っていて思わず顔がほころんだ。リビングに入ると、物音に気付いた彼女がくるりとこちらを振り向いて満面の笑みを見せた。

「おかえり、沙羅! 遅かったね、夕飯どうする? 出前とか頼む?」

『ただいま。今作る』

「ほんと! やった、沙羅のごはん大好き! いつもごめんね、任せちゃって。ありがと」

 返事の代わりにぽんぽんと頭を撫でると、彼女——雛は嬉しそうにえへへと笑った。

 雛は、現在同棲中の彼女である。女同士といえど、本当に好きで、何よりもかわいくて、彼女に危険が近づいたならこの身に代えても守ってやりたい、そんな存在。恋人の前だと甘えたになるタイプなのか、感情をストレートに表現してきて少々幼く見えるあたりもあざとくてかわいい。こうして私が彼女に夕飯を作っている間も、お気に入りの音楽を聴きながら上機嫌で鼻歌を歌っているのが見えて、それが愛しくてしょうがない。

「んーこの匂いは……わかった! 今日のご飯はハンバーグ!」

 冷蔵庫にあったひき肉と適当にみじん切りにした野菜を混ぜて、丸めて焼いていく。見た目はさほど良くないが、味は変わらないのでまあいいだろう。お皿に盛ってかたんとテーブルに置くと、それに気づいた雛がぱっと顔を上げた。時刻は午後八時半。少し遅めの夕食である。

 テーブルにつくと、いつも通り雛が向かいで口を開けるので、一口大に切ったハンバーグを少し冷ましてからその中に入れてやる。

「んーおいしい! あれ? ハンバーグなのにこれ玉ねぎじゃない……。あ、わかった! キャベツでしょ。おいしいけど、変なの」

 作っている時キャベツがちょうど目に止まったので入れてみたが、あっさりバレてしまった。

 ——視覚を失うと、他の五感が発達するというのはどうやら本当らしい。

 雛は数ヶ月前、ある不幸な事故によって視界を失った。一命を取りとめただけよかったのだが、生活に支障をきたすため、それ以降こうして私が家事や身の回りの世話をしている。

「ごちそうさま? そしたらお風呂いこ!」

 大変じゃないと言えば嘘になるが、雛のこの笑顔が見られるなら、少しも苦ではないと本気で思っている。



 朝起きて、顔を洗って、朝食を作って、雛を起こして、朝食を食べさせて、歯を磨いて。満員電車に揺られて、出勤して、仕事をして。そんないつも通りの生活の中で、気付かないふりをしていた綻びをつつくように、その不気味な広告は再び私の前に現れた。

 今日はティッシュなんて貰わなかったのに、昨日見た広告と全く同じものが、今度は仕事机の上に置いてあった。『アナタのココロ、掃除します』なんて胡散臭いキャッチコピーが、なんだか自分を見透かされているようで気味が悪い。

 結局それは見なかったことにして、早々に捨ててしまった。



「ねえ、そこのおねーさん」

 午後六時。いつも通り仕事を終えて帰宅する足を速めていたところに、またしてもナンパ師の登場らしい。

「なにか?」

 振り返ると、案の定昨日と同じ金髪と黒髪の二人組がいた。

「お、今日はちゃんと振り向いてくれんじゃん」

 辺りを見ると、他にもお姉さんと呼称されそうな赤い服を着た女性が歩いているのが見えたが、昨日の今日だ。まず返事くらいするだろう。

「で、何の御用ですか?」

「せっかく俺らがラブレター送ったのに、おねーさんってば捨てちゃうから」

「は? ラブレター? 捨てた?」

 全くもって心当たりがない。今日捨てたものといえば、終わった仕事の書類と、ミスプリントした紙と、あとは……。

「もしかして、あの広告?」

「そう! それだよ。おねーさんの心を掃除してあげようと思って、せーっかく送ったのにさ?」

『心を掃除する』——広告で見たことは覚えているが、そういえば昨日もそんなことを言っていた気がする。

「別に、貴方たちに頼むことは何もないから」

「つれないなぁ。そんなおねーさんにひとつ、いいこと教えてあげるよ」

 そう言うと、金髪の男は昨日と同じように背後を指さして薄く笑った。

「おねーさんには、妖がたくさん憑いてる。とーっても美味しそうな匂いがするんだって」

「はぁ? どういうこと?」

 妖が? 私に、憑いてる?

「そのまんまの意味だよ。おねーさんの背中に、たぶん見えないだろうけど、妖がたくさんいるの。だから、俺たちがそれ祓ってあげようか?」

 男の雰囲気は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。しかし、そんなこと言われただけで、はいそうですかと信じられるわけもない。

「そんなこと、信じろっていうの?」

「んーそっか。それじゃあしょうがない。なんかあったらいつでも連絡してよ。じゃあね」

 またしてもあっさりと身を引いたので少々面食らってしまったが、男たちがそのまま帰ってしまったので自分も帰路を急ぐことにした。



「ねえ沙羅、今週末どこか出かけない?」

 夕飯とお風呂を済ませて、雛の髪にドライヤーをかけていた時、雛から突然そう切り出された。今週末は何もなかったはずだが、雛からお誘いなんて珍しい。

「明日さ? 私たちにとって……ううん、私にとっては大事な日なんだけど、覚えてる、かな」

 鏡越しに、不安そうに眉が下がっているのが見える。……けど、私は。

『ごめん』

「そ、っか。……明日はね、私たちが初めて会った日だよ。だから、週末プチお祝い、したいなって」

 乾かし終わった髪を櫛で整えて、リビングのソファへと促す。しばらくしてから、雛はゆっくりと切り出した。

「大学に入ったばっかりで、まだあんまり友達もいなくて……それでさ、橙子が紹介してくれたんだよ」

 その名前を、雛から聞くのは随分と久しぶりだった。

「橙子と私が同じ高校で、最初は橙子と沙羅が仲良くなったんだよね。沙羅に初めて会った時は、すごい美人だけど怖そうだなーって思ったの。こんなに優しいのにね」

 懐かしそうな、どこか悲しそうな表情で雛は続ける。いたたまれなくなって、梳かしたばかりの頭を優しく撫でた。

「橙子、今どうしてるんだろ。海外転勤とか言ってたけど、全然連絡来ないんだもん。ね、沙羅も今度連絡してみて?」

 胸の奥がずきりと痛む。橙子と雛はとても仲が良かった。二人で遊びに行くこともしょっちゅうだったし、お互いを親友と呼びあっていた。そんな親友と連絡が取れないのは、寂しいに決まっている。

『わかった』

 胸を刺すような痛みを無視して、私はそのお願いを快く引き受けた。



 その翌日、またしてもあの広告は私の元に届いた。もうこれで三日目だ。一体どこからどうやって届けているかは知らないが、ますます不気味さを増しているように感じるのは気のせいだろうか。

 私の心は汚れてなんかないし、妖なんて憑いてないし、掃除される必要もない。そう自分に言い聞かせて、心の引っかかりを気づかなかったことにして、広告はぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。

 そして、例の男達は案の定、帰り際、夕暮れの公園にいた。

「三日も連続で、何がしたいんですか」

「だから言ってんじゃん、おねーさんの心を掃除してあげるって」

「そんなものは要りませんので帰ってください」

 なんだか本当に得体の知れない何かに囚われてしまうような気がして、一刻も早く雛の元へ帰りたかった。

「そうは言ってもさあ、俺たちも……」

「あんたさ、いつまで意地張るわけ?」

 金髪男の言葉を遮って、今まで一度も口を開かなかった黒髪の男が言葉を発した。

「あんたにはたくさんの妖が憑いてる。あんたには見えないだろうが、俺らには見える。こいつらはあんたの匂いに釣られてきてんだよ」

「なによ、その匂いって」

「あんたの、不幸、不安、孤独の感情。自分でも心当たりあんだろ」

 不幸? 不安? 孤独? ……私が? 違う、絶対に。

「……っ、私は不幸なんかじゃない、孤独なんかじゃない。あの子と暮らして、愛を受けて、幸せなの!」

 そうだ。私は決して不幸じゃない。仕事をして、帰ったら家には雛が待っていて、お世話をして、一緒に笑うこの生活が、私の全てだ。そこに不安も孤独もあるはずがない。

「だから、あなたたちには……」

「あれ? 橙子?」

「……っ!?」

 突然背後から聞こえてきたのは、紛れもない雛の声。振り向くと、少し離れた公園の入口に雛が立っていた。内心の焦りを無理やり鎮めて、急いでそちらへ駆け寄って雛の手を取る。

『どうしたの?』

「あれ、沙羅? ……ってもしかして、もう沙羅が帰ってくる時間!? やば、ごめん沙羅」

 時刻は午後六時過ぎ。いつもなら雛はとっくに家に帰っている時間だ。

『どうしてここに?』

「えーとね、今日はお仕事がちょっと早く終わったから、この辺りなら道も覚えてるし大丈夫かなーと思って、お散歩してた」

『危ないよ!?』

「えへへ、ごめん。でも沙羅に会えたし、大丈夫だったよ!」

 結果的にはそうかもしれないが、そういう問題ではない。いつも通る道ならまだしも、慣れない道で万が一迷ったり赤信号を渡ってしまったりしたらどうするつもりだったんだ。これは帰ったらきっちりお説教しないと。

「ていうか、今橙子の声が聞こえた気がしたんだけど。沙羅見なかった?」

『見てない。気のせいだよ』

「うーん、そうかな。おかしいなあ」

『早く帰ろ』

 不思議そうにする雛を公園の外へと促す。ふと振り返ると、いつの間にか男たちはいなくなっていた。



 翌日、またも広告は私の机の上にあった。しかし、私の頭はそれに構っている暇などなかった。今朝の自らの不可解な行動に、思考を支配されていた。……私は、今朝、何をしようとした?

 いつも通りの朝を迎え、出勤のために駅で電車を待っていた時。電車がホームに入ってくるのが見えた瞬間。——私の足は、何かに突き動かされたように、一歩前へと踏み出そうとしていた。

 幸い前を通ろうとしていたサラリーマンに気が付いて、この体がホームへと転落することはなかったが、それが無かったら今頃はバラバラ死体と化していたかもしれない。そう考えるとぞっとした。

 私は死にたいと思ったことなどない。ないはずだ。それとも、無意識のうちに自殺願望を抱いていたとでもいうのだろうか。今の雛との生活を捨てて? ……ありえない。

 もしくは、まさか本当に妖なるものが憑いていて、そいつの仕業だというのか。たしか最初に会った時、男たちは妖を『人の心に影響を及ぼすもの』と言っていた。そいつが私の心を操っているというのなら、一応の説明はつく。そんなもの、信じたくはないが。

 目に留まった例の広告は以前よりも一層不気味な色をしていて、ホウキを持ったウサギは『お前のことはすべてお見通しだ』とでも言っているように見えて、びりびりと破いて捨ててしまった。

 ——その日から、男たちは全く姿を現さなくなった。



「ねえ、沙羅最近元気なくない? なんかあった?」

 最初の自殺未遂から一週間。あれから私は自殺行為を繰り返すようになり、私の精神はすっかり疲弊していた。気づいたらロープを柱にかけていたり職場の屋上に向かっていたり、ネットショッピングサイトから購入した覚えのない練炭が届いた時はさすがに頭を抱えた。時間経過や他人の干渉ですぐに正気に返るものの、こう何度も繰り返されてはいつか本当に死んでしまう。相変わらず例の広告だけは律義に毎日届くし、ストレスは募る一方だった。……どうして、こんなことに。

「もう、ちゃんと聞いてる? 見えてなくても分かるんだからね。絶対なんかあったでしょ」

 こんなこと、雛に言えるわけない。一人で何とかしなきゃ、雛のために、私がやらなきゃ。

『大丈夫だよ』

「嘘! ちゃんと教えてよ。私は沙羅が心配なんだよ」

 ああ、もう、うるさいな。ちょっと黙れよ——

「……沙羅?」

 呼ばれて、はっと気が付いた。……私は、今、何をしようとした?

 目の前に伸ばした両手は輪の形を作って、雛の首元に伸びていた。このまま力を入れていたら、雛はどうなっていた?

 ひゅ、と歪な音がして、それが自分の呼吸音だと理解するのに数秒かかった。息が、上手くできない。そのまましゃがみ込んでしまった私の気配に気付いたのか、視界の端で雛が慌てているのがわかる。

「沙羅! どうしたの!?」

 しばらく不規則な呼吸を繰り返していたが、背中をさすってくれている雛の手に集中していると、少しずつ落ち着いてきた。……たった今私がやろうとしていたことは、消えないけれど。

「落ち着いた?」

 こんな私を心配してくれる雛は、少し優しすぎる。

『大丈夫。ありがとう』

「今日はもう無理しないで、休んで」

 ……もう、これ以上耐えることはできそうになかった。



「やっとその気になったんだね、おねーさん」

 翌日。私は、今まで毎回捨てていた例の広告を、初めて捨てなかった。今日も届いてくれたことに、これほど感謝することになろうとは。昼休みを利用して、私は初めてそこに書いてある電話番号に電話をかけた。

 そして……今、一週間ぶりに、夕方の公園で男たちと顔を合わせていた。

「藁にでも縋りたい気持ちなのよこっちは。貴方達の言うことを信じたわけじゃない」

「簡単に言うとね? おねーさんのそれを祓うには、不安の原因を取り除くのが一番手っ取り早い。つまり、おねーさんの抱えてるその秘密を、隠している本人に打ち明ければいい」

「……何を、言ってるの?」

 一瞬、相手の言っていることが理解できなかった。そんなことを手助けしてもらうために、私は電話をかけたわけじゃない。

「だからぁ、おねーさんの大事に隠してるつもりのそれを、隠すのをやめなって言ってるの」

「あんたに何が分かるのよ! 今のこの幸せを、私の人生の全てを手放せっていうの!?」

「しょうがないじゃん。そいつらはおねーさんの心の弱いところに付け込んで、惑わせてるんだから。そもそもの原因を取り除かないと、またすぐたくさん憑いちゃうよ?」

 打ち明けるくらいだったら、このまま自殺未遂を繰り返していつか本当に死んでしまった方がましだ。本気でそう思った。……でも、私が死んでしまったら雛はどうなる? これから先、一人で生きていかせるなんてできない。けど、それでも絶対に、あれだけは。

 夕日の逆光で男たちの顔がよく見えない。私のような秘密ひとつも打ち明けられない弱い人間を見て、彼らは笑うだろうか、呆れるだろうか。

「だが、まあ無理やり祓うこともできないわけじゃない」

今まで事の顛末を黙って眺めていた黒髪の男が、いきなりそんなことを言い出した。……なんだ。それができるなら、初めからそう言ってくれればいいのに。

「ただし、代償としてあんたに支払ってもらうもんがある」

「いいわ。今の生活が守れるなら、何だって差し出す」

 あの秘密を打ち明けるよりも、今の雛との生活が壊れることよりも怖いものなど何もない。

「……言ったな? それじゃあ明日、午後六時にここに来い。……あんたに憑いてるもん、きれいさっぱり祓ってやるよ」



「なーんでまた、余計なこと言っちゃうかなあ」

 隣に並んで歩く黒髪オシャレノッポ野郎——蓮を軽く睨みつけながら文句を垂れる。

「別にいいだろ。どう考えても、あの女に自分から根本を解決させんのは無理。それに、無理やり祓った方が面白いし」

「げ、趣味悪ゥ……。あれ結構疲れるんだからな? しかも今回あのサイズ、絶対やべーって」

 こちらに背を向けて自宅へと帰っていく彼女がいるであろう方向を眺める。しかし、そこに彼女の後ろ姿は見えない。……見えるのは、彼女の何倍も大きな異形の姿だけ。

「……さすがにでけぇな。うん、頑張って」

「お前も頑張るんだよ! あーもっと軽いときに祓っときゃよかった」

 最初に彼女を見た時、既に彼女に憑いた妖はそれなりに大きかったが、まだ楽に祓える範囲だった。これ以上巨大化する前になんとかしなければと思って、あの広告を忍ばせたのだが……もしかすると、逆効果だったのかもしれない。

 業務上、向こうから依頼されたという形をとらないと少々面倒である。そのため、あの手のタイプは危険を実感しないと動かない、との連の分析に従って一週間ほど放置してみたところ、三倍くらいに膨れ上がっていて正直引いた。どうせ無理に祓うのなら、もっと軽いうちに強行突破しておけば楽だったのに。妖掃除屋の仕事だって、楽ではないのだ。



 翌日、指定された時間に彼女は公園にやってきた。昨日よりもさらにやつれた顔をしていて、後ろの奴もまた大きくなっているように見えるのは気のせいではないだろう。

「よォ、元気か? あ、そうは見えねぇけど」

「早くして頂戴。……もう限界」

 時刻は午後六時。沈みかけた夕日の色が辺りを包んで、少しずつ辺りが見えづらくなってきて、誰が彼かわからなくなる時間。この世のものとあの世の者が入り混じる時間。誰そ彼時、またの名を逢魔が時。

「そんじゃおねーさん、ちょっと後ろ向いて?」

 さあ、掃除開始だ。

 よし、と気合いを入れて、彼女の背後に手を伸ばし、それをつかんで力任せに引っ張った。この逢魔が時に限って、俺はこいつらに触れられる。——掃除と称してはいるが、物理的に対象からこいつを引っぺがす、ただそれだけ。ところが、これが見た目より骨が折れるのだ。

 今回のように妖が大きければ、それだけ対象者との繋がりも強く、なかなか離れてはくれない。そこで俺の腕の見せどころ……だったらいいのだが、生憎大した特殊能力もないため、筋力に物を言わせる以外ない。なんとかして力づくで剥がしたところで、蓮に渡して、そいつの内部に塩を突っ込む。これで一丁上がり。

「はい! 終わったよ、おねーさん」

「……特に、変わった感じはないのだけど」

「今はそうかもだけど、そのうち実感すると思うよ」

 不思議そうな顔をする彼女を放って、俺は話を続ける。

「それじゃ、また一週間後に経過だけ見に来るから。代償はその時に貰うよ。まあ、おねーさんにはきっと必要ないものだから安心して」

 手短にそれだけ言って、彼女に帰宅を促す。帰っていく後ろ姿は、もうはっきりと視認することができた。……彼女の問題の根本は、欠片も解決してはいないが。

「なあ蓮。あの人、これからどうなると思う?」

「さァな、知らねえよ。また憑かれたら俺たちが祓うまでだろ」



「おかえり!」

 家に帰ると、雛が笑顔で迎えてくれる。明日であれから一週間が経つが、謎の自殺未遂もなくなり、心が晴れやかになったようだった。男たちの言っていたことは、どうやらあながち嘘でもなかったらしい。

 雛の幸せを壊さないことが私の幸せ。その言葉に偽りはない。

 いつものように雛の手を取って、その可愛らしい掌に指を走らせる。

『ただいま』



 その翌日、男たちに依頼をしてから一週間後。言っていた通り、彼らは再び夕方の公園に現れた。

「よォ、調子はどうだ? 顔色もいいし大丈夫そうだな」

 黒髪のほうが近づいてきて声をかけられる。ええ、おかげさまでね。そう返そうとして、口を開いて、音が発せないことに気付いた。

「あァ、もう声でねぇか。無理に妖を祓うってのはそれなりの代償がいるんだよ。こっちもビジネスなもんでね、タダで奴らを消滅させると色々と不都合なんだ、悪く思わないでくれよ。でもあんたにはもういらねぇだろ? なあ、沙羅さん……いや、橙子さん?」

 その名前で呼ばれるとは思ってもいなくて、思わず息を呑んだ。どうして、それを。

「どうしてそれを、って言いたげだな。妖掃除屋に知らないことなんてないんだよ」

「まぁたテキトーなこと言って……。おねーさんも、素直に話しておけばよかったのに。私はあなたの恋人の沙羅ではありませんって」

 それだけは、どうしてもできなかった。このままこの関係を続けていっても私の心の穴が広がっていくだけだってことも、いつかばれてしまうだろうことも、全部全部分かっていて、それでもこの関係の存続を望んだのは私だ。雛の前では『沙羅』として生きていくと決めたのも、私だ。雛のことが好きで好きでたまらなくて、沙羅と付き合い始めたと聞いたときは気が狂いそうだった。雛と会わせたことを後悔した。沙羅を殺してしまおうかとさえ思った。でも、それが雛の不幸や悲しみに繋がってはいけない。事故の知らせを聞いた時、雛の幸せを守るには、私が『沙羅』になるしかないと思った。……私に向けられるのが、偽りの愛であったとしても。

「まあせいぜい偽物の愛情ごっこを楽しむんだな。また何かあったらいつでも連絡しろよ。その都度代償はかかるが、お得意様だからな、割引で祓ってやる。じゃあな」

 そう言って、男たちは去っていった。私は呼び止めることもできなくて、その場で呆然と立ち尽くした。日が沈んだ空は橙色に紫色が混ざって、不気味な色をしている。まるで、この世の者ではない何者かが現れそうな、そんな色だった。



 病院で意識が戻った時、私の両目は開かなくなっていた。事故の時、車を運転していた最愛の恋人は、声と記憶の一部を失ったと聞いた。でも、そんなものはこれからいくらでも埋めていけばいい。私は貴方とまた一緒に生活ができるだけで幸せなの。そうでしょ? 沙羅。

 玄関の扉がガチャリと開く音がする。しばらくすると、部屋の中に誰かが入ってくる。そうしたら、私は振り返って、満面の笑みでこう声をかけるのだ。

「おかえり、沙羅!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『アナタのココロ、掃除します』 亜月 氷空 @azuki-sora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ