嘘吐き教師と恋煩い

亜月 氷空

嘘吐き教師と恋煩い

 俺たちには、秘密がある。それは思慕であり、憧れであり、欲でもある。そしてそれは、これからも秘密であり続けるものだと、俺だけが思っていた。



 短すぎる冬休みが終わり、久々の通常授業の眠気に耐える六時間目。終業のチャイムが鳴るまであと十五分ほど。なんとなく停滞した教室の空気とは裏腹に、斜め前の方の席に座る彼女は実に楽しそうに、うっとりとした表情を浮かべていた。

 彼女の視線の先にいるのは、教卓で二次関数の例題を解説する伊月先生。赴任して三年目、未だ二十代にして生徒指導担当を任される、かなりやり手の教師だ。細めのフレームの眼鏡を時折上げながら寝ている生徒に注意を配る様子は、いかにもといったところだろう。しかし彼の魅力はここだけではとどまらない。どの生徒にも平等に接し、どんなことも受け入れる包容力があり、そして顔もよくとにかく理想的な人物だ、と彼女は言う。

 そう、彼女は伊月先生に、恋をしている。

 かくいう俺も、それは同じで。残り数分になった授業時間に、終わらないでと思っているであろう彼女と早く終われと思う俺。

 終業のチャイムが鳴ると、彼女はまっすぐに先生のもとへ走った。「先生、ここ質問したいんですけど、」「ん? どこですか?」なんて人のよさそうな笑みを浮かべているのを尻目に、俺は教室を出てある場所へ向かう。

「失礼しまーす。朝香先生?」

「はーい。あら、木嶋くん。どうしたの?」

 少々勢いよくドアを開けて入ったのは、ほのかに薬品のにおいが残る保健室。

「あ、えーと、その……腹が痛くて?」

 しまった、もはや通うのが日常化していて理由を考えるのを忘れていた。苦し紛れに嘘をつくと、それはあっさりばれたようで。

「……ふふ、嘘でしょ、それ。まあ何でもいいけど、毎日毎日よく来てくれるね」

 あなたと話がしたいからです、なんて言えるはずもなくて、苦笑いで誤魔化した。

 そう、俺は朝香先生に、恋をしている。

 今年初赴任で来たばかりだが、器量が良く接しやすくて、気づいたら好きになってしまっていた。ほぼ毎日のように押し掛ける俺に対して、「授業はさぼらずに出てるみたいだから、下手に追い返せないよねえ」なんて少し困ったように笑う顔が可愛くてたまらない。この気持ちは同じ境遇のあいつ以外は知らないが、案外察しの良すぎる人だから、もしかすると先生にもばれているかもしれない。

 冬休みに何があったとか、授業が眠いだとか、しばらくそんな他愛もない会話をして。俺の話にころころと笑ってくれる先生を見ながら、ああやっぱり可愛いなあなんて思っている俺は少々気持ち悪いだろうか。

「あ、ほら、そろそろ帰りなさい。先生この後会議だから、行かなくちゃ」

 時計を見ると、もう一時間ほど話していたようだ。毎度のことだが、先生は本当によく俺なんかにかまってくれるなと思う。

「はーい。話し込んじゃってごめんね。じゃあ朝香先生、また明日も来ます!」

「ふふ、そんな毎日来なくても大丈夫よ? 私は楽しいからいいけど。それじゃ、気を付けて帰ってね」

 お世辞だとしても楽しいと言ってくれたことに浮かれながら下駄箱へ向かうと、咲紀―――数学教師に恋する幼馴染にばったり会った。

「あれ、悠生。朝香先生は?」

「会議だってさ。そっちこそ、伊月先生は? ……あ、会議か」

「うん。まあいいや、今日は結構話せたし」

 お互いに教師に恋する同士、暴露してきたのは向こうからだった。幼馴染で異性である俺が相談相手として最適だったらしい。はじめこそ驚いたが、こちらも人のことは言えないので今では「誰にも共有できない先生の可愛かったこと」をシェアし合う謎の協力関係ということになっている。

 家の方角は当然一緒なので、そのまま連れ立って帰路についた。

「ねえ聞いてよ。今日アリサってば私に『木嶋君と咲紀って付き合ってるの!?』だって」

「他の人からはそう見えるのか? 咲紀はどう見ても伊月先生が好きです、って感じ出してるだろ」

「そうだよねー。悠生より先生の方が百倍くらいかっこいいもん」

「おまえな、そこかよ……」

「でね、さっき伊月先生が―――」

 咲紀のマイペースさに若干振り回されつつも、あまりにもきらきらした顔で語るものだから、つい振り回されてもいいかという気になってしまうのだ。

 学校から程遠くない自宅は、少し話していたらあっという間に着いてしまう。

「―――それでその時先生が……」

「おい、もう着くぞ? というかおまえ、俺にもちょっとは喋らせろよ」

 ずっと咲紀がしゃべり倒していて、なんだかんだ俺はほとんど話さないままだった。まあ、わりといつも通りなのでさほど問題はないのだが。

「あ、ごめん。いいよ、聞くよ?」

「……いや、そう言われるとなんか、やっぱいいわ。なんかきもくなりそう」

「あれ、そう? まあたしかにそうかもね」

「だからおまえな……」

「ねえ」

 またもからかわれたので言い返そうとすると、少し大きめの声で食うように話しかけられた。

「……? どうし」

「悠生はさ、告白する気、ある?」

 うつむき気味に言い放ったその言葉に、俺はすぐに返答することができなかった。

「……おまえは?」

「……わかんない」

「そ、っか」

 わからない。俺もそれが正解だった。

 先生のことは好きだ。しかし、関係性はあくまでも「教師と生徒」。いかにこちらからの好意でも、こちらはまだ十八歳未満なのだ。先生に迷惑はかけたくないし、まして犯罪になってしまえば教師が続けられなくなってしまう。そんなことにはなってほしくない。しかし、今の片思いのままで満足かと言われると、素直にうなずけなかった。

「ごめん、それだけ聞きたかっただけ。じゃあね、また明日」

「……おう」

 微妙な空気のまま、じゃあまた明日ねとお互いの家へと別れる。心に大きなわだかまりを残して。




 告白、告白かあ……。

 答えの出ない問題を解くように、自問自答を繰り返す。保考えれば考えるほど正解が分からなくて、気づけば数日が過ぎた。当然のように保健室には毎日通ったが、先生といくら話していても答えは出ないままだった。

 今日も斜め前の方で、伊月先生の授業を楽しそうに聞く咲紀が見える。その時、先生が黒板の方を向いた隙に、前の席の男子が俺に話しかけてきた。

「なあおまえさ、伊月先生が婚約したって噂、知ってる?」

「……は?」

 そんなもの、初耳だ。じゃあ、咲紀の想いは、

「それがよ、お相手は保健の朝香先生だって話だぜ?」

 ……今、なんて? 誰が、誰と婚約?

「おい、聞いてんのかよ。だから、伊月先生と朝香先生が、ってぇ」

「高坂君。そんなに数学は余裕なんですね?」

「げ。い、いやあ……」

 堂々と後ろを向いて喋っていたためか、生徒名簿で頭をはたかれて怒られたようだ。しかし俺には、今はそれどころではなかった。

 よりによって、その二人が、婚約? ……嘘、だろ?

 たしかに二人ともこの上なく魅力的だし、言われればお似合いである。

 でも。だからといって、こちらだって、本気で恋してきたのだ。噂程度で「はい、そうですか」なんて諦められるわけ、ない。

 鐘が鳴ると、俺は真っ先に保健室へ走った。

「朝香先生!!」

 音がなるほど勢いよく扉を開けると、先生はいつものように机に向かって作業をしていた。

「あれ、木嶋君。今日は」

「先生」

 言葉の続きも待たず、三十センチもないくらいの距離まで詰め寄った。

「伊月先生と婚約したって……本当ですか」

 絞り出した言葉に先生は驚いたように目を見開くと、観念したように笑って、言った。

「……うん、本当」

「……っ」

「だからこの学校とも、今年度いっぱいでお別れ。ほんとはギリギリまで隠しておこうと思ったんだけど……。案外、ばれちゃうの早かったな」

 そう言って微笑む先生の指には、きらりと光るものがはまっていた。

 どうして今まで気づかなかったんだ。幸せそうな表情を浮かべる先生に、きりりと胸が痛む。

 ―――『告白する気、ある?』

 数日前の会話が蘇る。もっと前に想いを打ち明けていたら? もっと前に出会えていたら? 俺がもっと早く、生まれていたら?

 いろいろな思いが駆け巡って、気づけば口を開いていた。

「先生、……ずっと、好きでした。優しい声が、気遣ってくれる心が、笑った顔が、好きでした。……もう、とっくに気づかれていたかもしれませんけど」

「……うん。ありがとう。……ごめんね」

 不思議と、涙は出なかった。先生の前で、最後にかっこ悪いところは見せられない。

「……もう、保健室に通うのはやめます。ご婚約、おめでとうございます」

 やっとのことでそれだけ言うと、俺は保健室をあとにした。

 最後の言葉は、少し震えてしまった。上手く笑えて、いただろうか。

 明日からはもう来ないであろうその場所を、振り返ることはできなかった。



 しばらく歩いてある程度そこから離れると、少し頭が冷えてきた。大きく一つ深呼吸をして、かといってこのまま帰る気にもならないのでとりあえず一人になろうとまた適当な場所へ歩きだす。

 勢いで想いを打ち明けて、そのまま玉砕して。先生、迷惑だったよな。困ったように笑う顔は好きだったけれど、本当に困らせたいわけじゃない。最後こそかっこつけてみたりなんかしても、そんなにすぐにはこの想いを処理できそうもないや。

 そういえば、この話を咲紀は知っているんだろうか。幼馴染としては応援したい気持ちはあるが、さすがに婚約までされては勝ち目が薄すぎる。自分の気持ちに整理もつかないまま人の心配をするのもおかしな話だが、同じ想いを分かち合う同士、秘密はなしだと約束した。

 さてどうしたものかと悩み始めたところで、ちょうどよく彼女が向こうの廊下を通り過ぎるのが見えて、とりあえず知ってそうかどうか探ってみようと声を掛ける。

「あ、おい咲紀」

「先生!」

 俺には全く気付かず、さらに奥の方へ駆け出してしまった。

 彼女が声をかけた先を見ると、案の定というべきかそこには伊月先生。今は顔を合わせたくなかった存在で、思わず目を逸らす。すると二人はそのまま、さらに人の少ない方へと向かう。あまり使われないこんな場所で二人で待ち合わせをして、どこへ行くんだろう。野次馬的な視線ではあるが二人の様子がどうも普段とは違う気がして、追いかけてみることにした。



 ついた場所は生徒指導室。先生が咲紀を中に促して、そのままドアを閉めた。

 生徒指導室は基本的に生徒指導担当である伊月先生だけが使えることになっており、そこに呼び出された者は悪夢を見るとか見ないとか、好き放題噂されて怖がられている場所である。

 しかし、咲紀は普段からまじめで生徒指導されるようなことをするやつではない。どうにも様子というか雰囲気がおかしかったし、興味本位で近づいて耳をそばだてる。

「……は…ので……ですよ」

「…い……んせい……ん」

 ところどころは聞こえるものの、肝心の会話の内容は不明瞭でわからない。もうしばらく聞いていると、彼女の声に異変があることに気づいた。

 変に高いというか、途切れているというか。もしかして、泣いてる? いや、でもこれは……?

 そこまで考えて、俺はある一つの解答にたどり着いた。それはにわかに信じがたくて、でもこの状況にぴったりとあてはまってしまうもの。そんなわけないと否定したくても、聞けば聞くほど彼女の声はそうとしか思えなくなってきて。

 しばらくしたら顔の方に血が上ってきたので、俺は急いでその場から離れた。今は校内に残って咲紀や先生に会うのが嫌で、そのまま逃げるように家に帰る。

 ええとつまり、俺は朝香先生が好きだったけど朝香先生は伊月先生と婚約してて、咲紀は伊月先生が好きで伊月先生と付き合っている? ということは伊月先生には婚約者と恋人がいて、片方が婚約な以上咲紀は遊ばれている……?

 そんなこと、許されるわけがあるのか。俺の恥ずかしい勘違いであってほしいと願うが、俺の頭はそのことを否定してはくれなかった。




 ガタリ、と外で音がして、驚いてそちらを見る。誰かに見られたかと思ったが、誰もこの部屋に入ってくる気配はなかった。

「何か物が落ちたんでしょう。こんな時になによそ見をしているんですか?」

 すぐ近くから声がして、頬に手を添えて先生の方を向かされる。すると視界のすべてが彼一人になって、その瞳に私は捕らえられて離れることができない。

「……ごめんなさい」

「分かればいいんですよ」

 そういって優しく微笑んだ先生の眼に映るのは、今は私一人だけ。あの人じゃなく、私だけが映っている。そのことがまた、私を酔わせる要因となる。

 先生とこうして会うのはこれが初めてではない。悠生に『告白するかはわからない』なんて言っておいて、私の気持ちはもうとっくに相手に知られてしまっているのだ。

 しばらくして、彼は満足したのか私のもとから離れていった。

「そろそろ時間だから、帰りなさい。明日も同じ時間に来られますか?」

 見るともう最終下校時刻まであと十分。このあたりの時間は何があってもきっちり守る人なのだ、少し寂しい気がするがその壁を超えるのは至難の業だ。

「明日も、ですか」

「……不都合でも? それとも、もうこうして会うのは嫌になりましたか?」

「っそんなこと! わかりました、明日も同じ時間に」

「それでは、さようなら」

 にっこりと笑ってから机に向かって書類整理を始める先生。その様子はもう先ほどまでの彼とは違った、事務的な誰にでも向ける表情だった。

「……先生」

「なんですか?」

 一度呼び掛けてから側に行き、距離を詰める。

「好き、好きです、好きなんです」

 もう何度目か分からない告白。まだ二人でいるんだから、そんな目をしないで。

「……知ってますよ」

 また優しい顔で微笑む。言葉に乗せた切実な思いは、届いているようで届いてはいない。

 先生は、一度も私に『好き』と言ってくれたことがない。

「先生」

 私を見てよ。好きって言って。先生は私のことが嫌いなの?

「ほら、早く帰らないと下校時刻を過ぎますよ?」

 そうやって、今日もはぐらかされる。

「……はい」

「じゃあ、また明日」

「……さようなら」

 今日も、あの人のところへ行くんでしょう? 私がまだ子供だから、お子様じゃ物足りないから。

 本気になんてなってくれないと分かっていても、先生から離れることなんてできないくらい、私は彼に溺れていた。




 翌日、ざわつくホームルーム前の教室。昨日はあれから一晩中悩み続け、母親に「なに、恋の悩み? なんてね」などと言われる始末だった。当たらずとも遠からずといったところだが、そんな純粋なものだったらどんなに良かっただろうか。

 そして今日も、斜め前の方に彼女が見える。一人で荷物の整理でもしているようだが、意を決して彼女に話しかけた。

「なあ、今日の放課後、空いてる? ……話があるんだけど」

 普段はあまり学校で話しかけることはないためか、少し驚いた顔をしてこちらを見た後、何やら気まずそうな表情を見せた。

「えっと、ごめん、放課後はちょっと」

 その様子から、その理由の主を推測するのは簡単だった。

「……先生?」

「……うん」

「そっか。じゃあ終わるまで待ってるから。昇降口のとこね」

「え、」

 まだ何か言いたげな彼女に気づかないふりをして、自席に戻る。今日中に話をしないといけない。根拠もなく、そんな気がした。



 放課後、俺の方をちらちらと気にしながら彼女は教室を出て行った。きっとまた生徒指導室に向かうのだろう。俺はそれを気にせず帰り支度をし、宣言通り昇降口で咲紀を待った。

 結局、咲紀が来たのは最終下校時刻を過ぎたころ。姿が見えると軽く片手をあげてこちらに気づかせる。

「ほんとにずっと待ってたんだ」

「まあね」

 そしてそのまま連れ立って帰る。咲紀はいつもより沈黙が多くて、いくつか世間話を振ってみたが、どうにもはっきりとした返事がこない。どこか上の空で、何かを考えこんでいるようにも見えた。

 これは先生との間に何かあったとしか考えられない。本題を切り出そうと一瞬立ち止まって声をかける。

「なあ」

「ん? どうしたの?」

「咲紀、お前俺に何か隠してること、ないか?」

「……なんで? ないよ?」

 揺さぶりをかけてみるも、しばしの沈黙の後彼女はあっさりこれを否定した。それを言い放った彼女の眼は、光を失って虚ろに揺れていた。

「嘘つけよ、お前今日ちょっとおかしいぞ。先生とのことで何かあったんだろ」

「……っ、ないって言ってるでしょ!」

「ああそうかよ。じゃあ俺は何かあったから聞けよ。お前、知ってるか? ……伊月先生と朝香先生が婚約してるって話」

 息を呑む気配がした。

「……知ってるけど」

「な……お前なんで、それ知ってて、」

「だから何!? あの時だけは先生が私を見てくれる。あの人じゃない、私だけを求めてくれるんだからそれだけで十分、十分なの!」

 狂ってる。こんなの、とても正気じゃない。それと同時に、現実を知りながらも認めたくない、必死に否定しようとする苦しみが見えた。

「お前、やっぱり……」

 先生と関係を持ってるのか。

 どこまで、とは聞かなかったが、彼女の沈黙は肯定を意味していた。

「自分が何やってんのか、分かってんのかよ」

「分かってる、よ」

 苦しそうに、絞り出すように答えが返ってきた。

「お前、先生が好きなんだろ? だったら相手の幸せくらい、考えてやれよ!」

「そんなこと言ったって、あんただって素直に諦めきれるの!?」

 ……そんなこと、ずるい。

 あんな風に別れを告げた今でも、みっともないくらいに引きずっている。俺だって、今先生に迫られたら拒否できるとは思えない。でも、それでも。

「諦められなくても、諦めなきゃいけないことだってあんだよ!」

「……っ」

 これが俺の、今の本音だった。

「……ちょっと一回頭冷やせよ。じゃあな」

 まだ家まで少しあったが、自分も頭を冷やしたくて咲紀を置いて帰る。気づくと、もうすっかり日は沈んでしまっていた。




 あれから一週間ほどが経った。あれ以来、彼女は学校に来ていない。伊月はというといつもと何ら変わった様子もなく、やっぱりと思う反面、咲紀に対して本気だった様子を見せることをどこか期待していた自分に驚いた。

 さすがに一週間も来ていないのは心配になる。少々言いすぎてしまっただろうか。

 反省して、帰り際に彼女の家へ寄った。幼馴染であるため昔はお互いの家をよく行き来していたが、ここ数年はほとんどなかったので久しぶりの訪問に少し緊張する。

 インターホンを鳴らすと、お母さんが出迎えてくれた。悠生くん久しぶりねえ。元気にしてた? なんて会話も咲紀と早く話がしたくて右から左へと抜けていく。

「ええと、すいません咲紀は」

「……それがね、ほとんど部屋から出てこないの。私には理由も教えてくれないから、心配で心配で。悠生くん、何か知ってるの?」

「あー、ええ、まあ。話がしたいんですけどいいですか?」

「いいわよ。せめて部屋から出るか、私に理由を教えてちょうだいって伝えてくれる?」

「わかりました」

 咲紀の部屋の場所はよくわかっている。かわいらしいプレートの下がったドアをコンコン、とノックするが、中からは反応がなく、ドア越しに話しかける。

「……咲紀? 悠生だけど」

 すると、やっとか細い声で返事が来た。

「……悠生?」

「この前は、きついこと言って、ごめん。……そろそろ学校来いよ。俺だってお前がいないと寂しいんだよ」

 この呼びかけにはまた反応がなくなってしまったけれど、きっと伝わっているだろう。長年一緒にいる勘みたいなものである。

「じゃあな、また明日」

 お母さんに「お邪魔しました」と声をかけて、家をあとにする。お茶でも飲んでいきなさいよと言われたけれど、それは丁重にお断りした。お母さんの伝言を正確には伝えていないし、ただ咲紀に謝りたかっただけなのだ、居座るようなものでもない。

明日はきっと咲紀は来る。根拠もなく、そんな予感がした。




「おはよ。ちゃんと来てくれたな」

「……悠生が来いって言ったんでしょ」

 翌日、ちゃんと彼女は来た。ほら、俺の勘は当たるんだなんて自慢をしたら、馬鹿じゃないのと一蹴されてしまった。いくらか近況報告と称して学校の様子を伝え、後でノートを貸す約束をしたところでホームルームが始まる。

 軽い業務連絡の後、先生は急に改まって「みんな聞いてくれ」と呼び掛けた。

「数学科の伊月先生が昨日をもって学校から退任された。しばらくは臨時体制をとるが、数学科と生徒指導担当には新しい先生が入る予定だ。……いろいろと話が回ると思うが、余計な噂は広めないように」

 途端にざわつく教室内。こんな伝えられ方で、余計な噂が広まらないわけがないと思うが。しかし俺は、この話がされた直後保健室に向かって走り出していた。

「朝香先生!!」

「あれ、木嶋君。今日はどうしたの?」

 一週間ぶりくらいに入った保健室は相変わらず薬品のにおいがして、先生は机で作業をしていた。そして俺はあの時と同じように先生に詰め寄って言った。

「伊月先生が退任したって……どういうことですか」

 それを聞いても先生は表情一つ変えず、にこにことしながら口を開いた。

「ああ、その話。もう担任からされたんだ?」

「え、いや先生! 伊月先生は先生の婚約者って」

「あら、私の心配してくれてるの?」

 そう言って先生は以前と同じようにころころと笑う。俺は彼女の態度が理解できなくて、ひたすらに混乱していた。

「伊月先生がどうしていなくなったか、聞いた?」

「いえ、聞いてないです」

「そっか。じゃあ木嶋君にだけ、特別に教えてあげる。簡単に言うと、何人かの生徒と肉体関係を持ったってことで解雇されたの。もしかしてそのうち逮捕もされるかもねえ」

「え……!?」

 咲紀と朝香先生だけじゃなくまだ他の人ともということにも驚いたし、それを実に楽しそうに話す先生にも驚いた。逮捕なんてことになればニュースになって学校中にも知れ渡るし、世間的にも学校はダメージを受けるだろう。それをどうしてこんなに楽しそうに。

「ああ、あの人との婚約はとっくに解消されてるから問題ないわよ?」

「……は?」

「あ、でも学校は今年度いっぱいでお別れかな。結婚するし、できちゃってるからしばらく教師もお休み」

 何でもないように笑って爆弾ばかり置いていく先生の発言に、俺の脳はさっきから思考を放棄している。

「ふふ、混乱してるね?」

「あたりまえです」

 誰のせいだと思って、と軽く睨むと、先生はまた楽しそうにころころと笑った。

「ほら、私じゃなくて、木嶋君には行かなきゃいけないところがあるんじゃないの?」

「あ……」

 本当に、なんでも見透かしてしまうからこの人にはかなわない。

「君は、私みたいに詐欺師な女に引っかかっちゃだめよ? なんて、いらない心配かもしれないけど」

 普段はおおらかな先生の、初めて見る妖艶な笑顔に彼女の本性を垣間見たような気がした。




 保健室を出て、行かなきゃいけないところである彼女の姿を探す。教室にはいなかったから、となると行きそうな場所は一つしかない。

 走ってたどり着いた場所は、生徒指導室。普段は鍵がかかっているはずだが、伊月先生がいなくなったことにより管理がなおざりになったのかうっすらと扉が開いていた。中を覗くと、そこには思った通り、呆然と立ち尽くす咲紀がいた。

「咲紀」

「……悠生」

 ゆっくりとこちらを振り向いた顔は涙に濡れていた。

「あたしの、せいかなあ……っ? あたしが、先生に伝えたりなんか、したから……っ」

 その姿があまりにも弱々しくて、頼りなさげに震えていて、思わずその細い体を抱きしめた。そのままあやすように背中をたたいてやると、彼女は堰を切ったように泣き出した。何度も何度も、先生の名前を叫びながら。




 泣きながら思い出していた。最後に先生と会った日、私は先生に言ったのだ。

「私のこと、好きだとは言ってくれないんですか。私ばっかり先生のこと好きで、ばかみたい」

 そのとき先生はこう言い放った。

『あなたを好きと言わないのが、忘れているだけだと思ったんですか?』

 つまりは、最初から私は先生に愛されてなどいなかった。絶望の気持ちはあったが、それでも先生を嫌いになれない自分が嫌になった。

 こうして何度も会ったこの場所に来ても、思い出すのは好きだった先生の事ばかり。黙って慰めてくれている悠生に心の中で感謝をして、遠慮なく気が済むまで泣かせてもらうことにした。


 ねえ、悠生。

 私が立ち直るまで、そばにいて慰めてくれる?

 こんなわがままな幼馴染でも、許してくれますか?

 きっと悠生は、しょうがないなって困ったように笑うのだろう。君はすごく、優しいから。

 私、何回も助けられちゃってるね。


 私の中で悠生の存在が少しずつ大きくなっていること、今はまだ教えてあげない。



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嘘吐き教師と恋煩い 亜月 氷空 @azuki-sora

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