101 不思議な茉莉花茶


 司教に促された役人は懐から丸めた羊皮紙みたいな紙を取り出し、仰々しく巻かれたリボンを解いて紙を広げる。

 俺は一瞬膝まづくべきか迷ったが、やらないよりはと片膝をつき左胸に手を当てて役人の言葉を待った。


「今日という栄えある日に新たな兄弟を迎え入れられたことはローレン教の信徒として喜ばしいことである。聖リネイション王国は偉大なローレン神の加護を受け…」


 役人は紙に書かれているであろう長い文章をとうとうと読み上げる。

 宗教用語尽くしの内容を要約すると、“敬虔な信徒である兄弟を信徒こくみんとして認める”“神の召使として一生ローレン神にお仕えするように”“信徒である以上、聖王国へのお布施のうぜいは怠るな。もし神への恩を忘れることがあれば厳罰な”というようなことだった。

 おおむね俺の予想からは外れていない。

 最後に読み上げられた名前が聖王国の現王っぽかったので、頭を下げて聞いていて正解だった。


「若輩者ではありますが信徒として変わらぬ信仰と敬愛をローレン神に捧げます。

 生涯を通じて誠心誠意ローレン神のご加護に報いるとここに誓います」


 声に出しながらなんて薄っぺらい誓いだと思う。

 きっと運動会の開幕式で聞く宣誓のほうが10倍はマシだろう。

 でも歪んだ思想で人々を虐げる宗教に心から頭を下げる気なんてないのだから仕方ない。

 俺が頭を下げるのは俺が守りたいと思ったものを守るためだけだ。


「新たな兄弟に祝福をお授けください、偉大なるローレン神」


 役人は短く祈りを捧げると再び丸め直された紙を俺に差し出してきた。

 ここまでは全て形式的な事なんだろう。

 俺も頭を下げ仰々しくそれを受け取る。


「慈悲深いローレン神に感謝いたします」


 渡された紙をそっと懐に忍ばせる。

 掌で押せば簡単に潰れてしまうそれが、今はとても心強く思えた。


「ところで兄弟、先ほどのお茶はどこから仕入れたのですか?」


 立ち上がった俺に向かって役人がちょっとそわそわしながら笑みを浮かべて尋ねてきた。

 どこか空気が柔らかいのは、よほどお茶が気に入ったのだろうか?


「あれは南のラッシュからやってきた行商人から仕入れたものです。

 オレガノを出て東に向かうと言っていたので、ディゴ方面に向かったのかもしれません」


 茶葉を野バラのマスターから受け取る時、もし尋ねられることがあったらそう答えるようにと言われていた。その時は特に何も考えることなく頷いたのだが…。


 まさか本当に良からぬものを調合したんじゃないよな、あの魔女マスター…?


 浮かべた笑みの下で冷や汗をかく。

 横目に司教の顔を見てみるとふわふわと気持ち良さそうな笑みを浮かべている。

 目の前に幻の花畑と蝶を見ているような…いや、気のせいだと思いたいけど。


「ディゴ…あぁ野蛮なディゴ族がこの優雅なお茶を嗜むと?なんてことだ。

 いいかね、兄弟?次にその商人を見かけたら、次は必ず聖王国に向かう様に伝えたまえ。

 いいかね、必ずだよ?」

「あ…はい」


 信じられないと言いたげな顔で嘆いた役人は俺の二の腕を掴んで念を押してきた。

 素直に頷くとようやく解放される。そしておかわりを催促された。


 本当に大丈夫だろうな、あのお茶…?


 俺は空になったコップを手に慌てて階段を降りたのだった。





「マスター、いますか!?」


 銅を採掘している風刃の背後を駆け抜けて野バラのドアをくぐる。

 息を切らして駆け込むと美人マスターは警備員以外誰もいない店内で優雅にハーブティを楽しんでいた。


「あら、もう役人さん達は帰ったのかしら?」

「はい。オレガノ内の巡回を終えて帰っていきましたけど」


 のんびり笑って答えられるとつい勢いを削がれてしまう。

 乱れた呼吸を整えながらカウンター席に座ると笑顔を浮かべて“どうぞ”とハーブティを出された。

 別に注文したわけではないのでサービスなんだろう。

 が、俺はそれをじっと見つめながら手を出さなかった。


「あのお茶、何が混ざってたんですか?」

「何って茉莉花ジャスミンよ?」


 “教えたのに忘れちゃったの?”と赤い唇が笑う。底が見えない蠱惑的な笑みだった。


「他にも何か混ぜたでしょう?

 次に行商人に出会ったら必ず聖王国に向かわせろって帰り際まですごかったんですから」

「ふふっ。ローレン教の信徒様たちは本当に強欲ねぇ」


 楽しげに笑うマスターの横顔を見て俺の不安は確信に変わった。

 薄く開いた唇の間からのぞいた舌先が赤い唇を舐めるが、小さな命を丸ごと屠る獣のそれだ。


「いったい何を…」

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。

 聖王国に帰り着くまでには体から抜けているでしょうから」

「やっぱり何か混ぜたんじゃないですか!」


 思わずカウンターを叩いて立ち上がると、マスターの人差し指が俺の唇に触れた。


「でも素直に帰ったでしょう?

 歩くんの望みだってすんなり聞いてくれたんじゃないかしら?」

「それは…まぁ」


 司教は白ヤギの使徒認定をほとんど確約してくれたし、役人も変な難癖をつけることなく兵士たちを連れて町から引き上げてくれた。

 盗賊ギルドのイオレットさんやパブのマスター達が拍子抜けしていたくらいだ。


「で、でも薬を盛るのはどうかと…」


 物事は怖いくらいスムーズに進んだのだが、それとこれとは話は別だ。


「じゃあ彼らがずっと町に居座ってくれた方が良かった?

 役人さん達が小さなミスを一つずつ指摘してみんなが困るのを見たかったのかしら?」

「そういうわけじゃないですけど…」


 それは困る。

 …というかあのお茶を飲ませなければ、もしかするとそういうことになっていたのかもしれない。


「悪事を誤魔化すのに使ったんじゃないんですもの。

 痛くもない腹を待ち針で突かれるのを自衛しただけ。

 お互いに気持ちよく別れられたのだから、これ以上ない成果じゃないかしら?」

「……」


 マスターの言い分も分かるが納得はできない。


「むしろ正気に戻って彼らが何か勘づいたらまずくないですか?

 それこそ毒を盛られたって怒鳴り込んでくるかも」

「あら。それはないわよ」

「どうして言い切れるんです?」

「中毒性はないから。

 彼らはきっと違法薬物を警戒しているんでしょうけど、あれは中毒性がある上に廃人にしてしまうから禁じられているのよ。

 その症状がでない、ただのお茶だもの。

 もっと飲みたいと思うことはあっても、禁断症状を起こすほどの飢餓感はない。

 せいぜい以前食べた美味しい料理を恋しく思う程度よ。

 彼らもおいそれと王都を出られないでしょうし。

 だから大丈夫よ」


 ふふふっと軽やかにマスターが笑う。元が美人だからかとても絵になる。

 だが美しい花には棘があるものだ。


「もし彼らが行商人を探し始めたらどうするんですか?」

「あら、歩くんは行商人の旅がそんなに安全なものだと思っているのかしら?」

「え…?」

「旅の途中で命を落とす人だって多いのよ?

 もう二度と姿を現わさなかったとしても、全然不思議じゃないのよ?」


 にこやかなマスターが紡いだ言葉がぐるぐると頭の中を回る。

 まだお茶を飲んでいないというのにこれ以上どう問題点を指摘すればいいのかわからない。


 ここまでキッチリ考えられて調整された茶葉に隙はないんだろうな。

 俺がどれだけ考えてもボロなんか出てこないのかもしれない…。


 ボロが出なけばいいのかという話にもなるが、だってそれで誰も傷ついていないし迷惑もかけていないのだ。

 被害者がいなければ訴訟は起きない。検出できない毒では罪に問えない。

 本当に隙がなかった。


「冷めないうちにどうぞ、歩くん」

「…いただきます」


 薔薇のような笑みを浮かべるマスターに勧められたお茶を俺はもう断れなかった。




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