78 ヤギの餌問題 2
「ヤギってこんなに食うのか…」
俺達3人は1階の土間でもう空になりかけている目の前の飼葉入れをじっと眺めていた。
俺は呆然として言葉が出てこなかった。
俺にヤギの餌が足りないと訴えたニュクスィーが夕食用として飼葉入れに入れた麦の量は6束。重さにして6キロ。大きめに作った飼葉入れに溢れんばかりに積まれた麦を見て、俺はまさかこんなにヤギたちは食べないだろうと半分呆れていた。
だが俺たちがパブで食事をしている間もヤギたちは小さい口で麦や大豆を食べ進め、今やもう底に僅かな麦が残るばかりだ。
完全に計算外だった。まさか人間よりも小さい体でこんなに食べるとは。牛のような大きな体ならともかく、ちょっと大きめの大型犬サイズのヤギがこんなに食欲旺盛とは思わなかった。
しかも飼葉入れが空になった途端に白ヤギが俺のところにやってきて鳴きながら餌を催促し始める。まだ足りないとでも言いたいのだろうか?嫌な汗が背中を伝った。
ここにきて俺は白ヤギを連れ帰ってきたことを激しく後悔した。どうせヤギを飼うなら1頭も2頭も変わらないだろうと高を括っていたのだ。カリウムの言う通りロットの肉屋に連れ込んで肉にしていれば、もう少し餌の事情はマシだっただろう。
自生する草木すら乏しい荒野でヤギを飼おうなど本当に酔狂だったと俺はようやく身に染みて理解した。
「よし、肉にしよう」
仕方ない。ヤギ2頭を飼いきれないなら俺が連れて帰ってきた白ヤギは肉にするというのはロットを旅立つ時に決めていたことだ。ロットで肉になるか、オレガノで肉になるかの差だ。大した差ではない。
「ダメだよ!?何言ってるの!?」
ニュクスィーが目を大きく見開いて抗議した。俺と黒ヤギとの間に立って両腕を広げ、信じられないという顔で俺を睨んでいる。
「あぁ、安心しろ。肉にするのはこっちの白いのだから。
黒ヤギはお前のヤギだからな。お前の責任で好きにするといい」
俺にまとわりついてくる白ヤギを撫でながら立ち上がるとぶつかってきたニュクスィーに胸倉を掴まれた。俺のシャツを握りながら睨め上げるニュクスィーの両目はそのへんのナイフよりずっと鋭かったと思う。
「なんで!?なんで歩はそんな酷いことを平気でしようとするのっ!?」
商隊からはぐれて途方に暮れていたヤギに同情し、身を切って飼う事を決意したニュクスィーらしい反応だった。
「別に平気ってわけじゃないが、最初から決めていたことだ。
白ヤギを潰して肉にしなきゃ黒ヤギが飢える。
同情だけで生き物は飼えないんだ」
しかし生き物を飼うには金がかかる。
小屋を用意し、水や餌を用意し、その動物が快適に過ごせるように環境を整えてやらないといけない。それを与えられずただ紐で繋がれ不自由を強要されるのは不幸だ。
いずれは肉にされる家畜だって成長するまでは飢えを知らずに育つだろう。肉にしなければ優しい飼い主というわけではない。
俺に掴みかかっているニュクスィーだって目の前の現実が見えていないわけじゃないだろう。
「でも…っ!だけど…っ!」
俺のシャツを握りしめる手を小刻みに震わせながらニュクスィーはまだ言葉を探していた。
その大きく開かれた目はあっという間に潤んで、涙が零れだす。けれど吊り上がった眉がその激情を物語っていた。
「そんな簡単に切り捨てるなら、最初から優しくしなければ良かったじゃないっ!」
何がそんなに悔しいのか、ニュクスィーは泣きながら拳で俺の胸を叩いた。
まだ治りかけの傷の上から衝撃を加えられたせいか、やけに痛かった。
「歩が中途半端に優しくして拾ってこなければ、この子はまだ生きていられたかもしれないのにっ…!」
そう言って泣きながらニュクスィーは俺の胸を叩き続ける。その震える両肩は小さく震えていた。
俺があの時この白ヤギを農村から買い取らなかったとしても、追い払われた白ヤギが翌日また畑に顔を出せば遅かれ早かれロットに連れていかれ肉にされていただろう。あるいは近くに巣を作るボーンウルフの群れに狩り殺されていたかもしれない。
だがニュクスィーはそんな事情は知らないし、わざわざ話して聞かせる気もない。この世界は弱者を無条件に生かし続けてくれるほど優しくはできていない。
「歩はひどいよ。優しくして懐いた子を、そんなに簡単に殺せるんだ。なんて残酷なの…」
力尽きたのか手が痛くなったのか、いつの間にかニュクスィーは俺の胸を殴るのをやめていた。代わりに涙で濡れた顔を隠すように俺の胸に額を押し付けてくる。言葉尻に残ったわずかな涙と震えが最後だった。
単純だとは思ってたけど、まさかニュクスィーがこんなにも情に脆いとはな。
この理不尽なクソ世界で育ったくせに、ちょっと現実見えなさすぎじゃないか?
そんなニュクスィーに呆れつつ、叩かれたせいでズキズキ痛む胸の奥には複雑な感情が絡まり合っていた。そしてそんな感情をニュクスィーが涙交じりに呟くように零した最後の言葉が突き刺し、そこに縫い留めている。
俺だって別に好き好んで白ヤギを肉にすると言っているわけじゃない。飼育できる環境さえ整っているなら肉にしようなんて言い出さない。
けれど情だけで動物は飼育できない。肉にしなければ飢えさせてもいいなんてヤギのほうも思わないだろう。現状、荒野が広がるオレガノ周辺でヤギを飼うのは困難だ。
餌が用意できないなら肉にするか、ヤギが飼える環境の人間に売り渡すしかない。だがどちらもニュクスィーは嫌がるに違いない。
「もういい…」
俺が言うべき言葉に迷っていると、小さく鼻をすすったニュクスィーが体を離した。
俯いていたせいでその表情は見えなかったが小さな背中は真っ直ぐに玄関を出ていった。
俺の足元にまとわりつく白ヤギだけがその沈黙を破っていた。
「あの女はなぜ怒っている?
家畜を肉にして食うのは当たり前だ」
「そうだな…」
風刃の村でも小規模ながら畜産をしている家があったという。そして秋には猪や兎を狩りに山に入っていたらしい。動物の命を肉にして暮らすのは風刃にとっては当たり前の日常だ。
やけに切ない声で鳴く白ヤギの頭を撫でながら、俺はニュクスィーが掴んでいたシャツの前を掌で整える。
この世界は理不尽が当たり前なんだ。
弱い奴から食われていくし、弱いまま自分より弱い存在を守ろうなんてただの自殺行為だ。
以前までの常識や価値観なんて捨てろ。
この世界で生き抜くには、この世界のルールに従わなきゃいけないんだ…。
追剥達に幾度となく打たれた痛み、俺を殺そうと振り上げられた錆びた鉄パイプ、血みどろのラプターが俺の体を食いちぎろうとした無数の跡。
全て肌の奥に刻みついているのに、それでも風刃の言葉に同意した俺の胸の奥には説明の難しい感情が燻ぶっていた。
俺の足元にしつこくまとわりつくヤギの体温がやけに胸を抉った。
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