お愉しみの時間

朝倉亜空

第1話

 気が置けない仲間と連れ立って、バカ騒ぎして盛り上がる時、恋人と久しぶりのデートをしている時、自分の趣味に没頭している時、楽しい時ほど人には時間が早く過ぎ去ってしまう、らしい。らしい、というのは、俺にはそれが分からないからなのだ。はじめてそのことに気づいたのは小学一年の時。クラスで一番仲のいい友達と、夕方遅くまで遊び、その別れ際に友達から「今日はあっという間に時間がたったね」と言われ、「う、うん……」と肯定的に答えたのだが、本当のところ自分はそうじゃなかった。実に長い時間、愉しさを感じていたのだ。

 逆に、やたら退屈なだけの授業時間や、クラブ活動中の苦しい十キロランニングなんかは、普通はなかなか時間が過ぎてくれないらしいが、それも自分とは正反対だ。もしかして自分には時の流れを感じる感覚において、特別な何か、才能のようなものがあるんじゃないか、という考えに至った。それで俺は体感的な時間速度を、意識して上げたり落としたり、トレーニングし始めた。何か楽しいことをしている時、または、嫌ぁーなことを味わわされている時に、頭の中で「時間の速度よ落ちろ」「時間よ、即行で過ぎ去れ」と念じるだけのそれは、中学一年から始まり、大学二年の現在にまで至っている。

「おはよう、美幸ちゃん」

 俺は今、大学校舎一階の廊下で一瞬すれ違うだけの女の子、広瀬美幸ちゃんに朝の挨拶をした。美幸ちゃんも優しい笑顔で「おはよう、木村君」と、返事を返してくれた。木村は俺のことだ。

 その美幸ちゃんは俺の意中の人で、とてもかわいく、とてもチャーミングで、とても俺なんかと釣り合わない、永遠の片思いの女の子なのだ。だが、俺はそれでもよかった。

 なぜなら、俺の永年のトレーニングの甲斐あって、今では時間の体感速度の上げ、落としは念じるとたちまちに効果が表れるまでになっていたからだ。しかも、美幸ちゃんを見た時だけは、念じる必要もなく、その瞬間に時間の体感速度がガックーンと落ちる。激落する。実際には一秒に満たないすれ違いが、三時間ほどに感じるのだ。好きな女の子の顔をじぃーっと、三時間見つめているのに等しい感覚。まさに、お愉しみの時間なのだ。まあ、見てるだけなんだけどね。おしゃべりしたり、手をつなぎ合ったりするわけじゃないんだけど、陰キャラの俺にとっては十分満足なのだ。

「よ、どうした。ぼおっとだらしない顔して」

 俺は背中をドン、と叩かれた。振り向くと声の主は宮本だった。「ははーん、美幸が好きなのか。やめとけ、お前じゃ無理だから」

 あー、嫌な奴だ。こいつはいつも俺を見下したような態度をとってくる。今もなぜ俺では美幸ちゃんと絶対に付き合えないのかをネチネチと嫌味っぽく説明してくるのだが、時間の体感速度を上げた中では、あまりに早く時が過ぎ去り、心のダメージは殆どなかった。

「まあ、美幸は俺にこそ相応しい、だろ」そう言って、嫌味な気障男はニヤッ、と笑った。そんなこと知るかい。


「おおっ、当たったんだ。マジかよ!」

 ある日、バイトを終え、下宿先のアパートに帰ってみると、俺宛に一通の封筒が届いていた。二か月ほど前にネットの懸賞サイトに応募していた、人気のミュージシャンのコンサートチケットがペア一組でその中に入っていた。結構なプラチナチケットである。

 美幸ちゃんがこのミュージシャンの大ファンであるのを知っている俺は、ダメもとで応募し、でも、もし当たったら、美幸ちゃんにデートを申し込もうと決めていた。それが当たったのだ!

 よしっ、善は急げ、だ。俺はこのまま美幸ちゃんの家へ向かうことにした。

 男なら誰でも、好きな女の子の家をいつの間にか探り当てているものだ。幸い、ここからそう遠くないところに美幸ちゃんは住んでいる。俺は走った。最後の十字路を勢い良く左に曲がった時! 「うわあああッ」

 信号を確認していなかった俺が悪いのだが、正面から真っ赤なスポーツカーがハイスピードで俺に向かってきていた。駄目だ! 当たる! 俺は死を悟った。

 ドーンというもの凄い音をさせて、スポーツカーが俺を跳ね飛ばした……。

 事故を起こしたスポーツカーの運転席から降りた男が言った。「なっ、なんだよ、急に飛び出してきやがって。手足があらぬ方向に曲がっちまって、グチャグチャだぜ」

「顔も身体も血だらけ……。ああ、私、めまいがするわ」助手席から降りて来た女が言った。

「あまり見ないほうがいい、トラウマになる。……あれ、こいつ、木村じゃないか!」運転手は宮本だった。「しかし、木村も一瞬のことだったから、恐怖や痛みを感じる暇もなかったろう。せめてもの救いだ。もしも、この内臓破裂や骨折が何時間もかけてなされていたら、地獄の苦しみだろう。美幸も今日のことは早く忘れるに越したことはない」

「ええ、そうね。でも、木村君が最後に私の目と目が合ったの。なんだか、いつまでもじっと見られている気がして、すぐには忘れられないわ」

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