6話 ピンクのマスク


やがて前半の会議が終わったので、休憩になった。姫野と蘭と美紀は会議室へワゴンを押しながら入って行った。



「これは……社長のウーロン茶です」


「熱いので気をつけて下さい」


二人は小花が淹れたお茶を次々と所長達に配って行った。


「お?美味い!社長、さすが最高級の茶葉ですな」


「帯広所長。感想を言うのが早過ぎですよ。もっと味わって飲んで下さいよ」



若社長の屈託ない突っ込みに、一同はどっと笑った。他の所長達も必死に食レポを始めた。


「少し、薬臭いですかね」


「これを焼酎と割って呑みたいもんですな」


若社長の夏山慎也の手土産。これで緊張していた会議が一杯のお茶でリラックスムードになっていた中、蘭と美紀は慎也に話し掛けられた。



「それにしても君達。急に頼んで済まなかったね。専用の茶器も無かっただろうに……とても美味しいよ、これ」


イケメン社長の微笑みに、総務部の二人は頬を染めた。


「あ、ありがとうございます」


「はい。良かったです?」


急に社長に褒められた二人は固まってしまった。



「しかし。嬉しいな。うちの女子社員はこんなに美味しいお茶を淹れる事ができるのだから。あ、今度から大事な会議は二人に頼もうかな」


そこへ二人を隠すように姫野が間に入った。


「……すみません社長。お茶くみは各部の当番制なんです。他の者のマナー指導も兼ねていますので。専属はちょっと」



「そうなの?」


「はい、残念ですが」


「お気持ちは有り難いのですが……」


姫野のフォローにうんうんと頷く二人を見て、社長は残念そうに溜息を付いた。



「では社長、我々はこれで失礼します」


「「失礼しました」」



こうして二人を逃がした姫野は一緒に会議室を出た。



「はあ……心臓が止まるかと思った。私、社長をあんな近くで見たの初めて……」


「すごい良い匂いしたし?あれ?さっきの彼女は?」



見渡すとフロアには誰もいなかった。この様子に姫野はそっと呟いた。


「業務に戻ったんだろう。礼を言いたければ清掃している時に言えばいいさ」


こうして彼女達は姫野に礼を言うとワゴンを押し、帰って行った。


この後、会議が終える頃には、昼食用のうなぎ弁当が届き、うなぎ屋の方で配膳作業をして行った。


そして全員が食べ終え参加者は退席した。会議室に誰も居なくなるのを見届けた姫野は、昼下がりの大会議室の鍵を掛け、卸センタービルを後にした。



「姫野係長。お疲れ様です」


中央第一営業所は、営業担当者や所長達が全員集合し、学校の休み時間のように賑やかだった。



「先輩。昼飯は?」


風間のテーブルの上にはヒレカツサンドの箱があったが中は空っぽだった。


「要らん」


胃袋には小花のウーロン茶が入っただけだったが姫野は自分のデスクに向かった。松田はあ!という顔で姫野に尋ねた。


「係長。さっきの電話なんだったんですか?小花ちゃん飛び出して行ったんですけど戻って来ませんでしたよ」


「ああ。ちょっとな」


本当はちょっとどころじゃなく滅茶苦茶助かったところだった。


だが姫野はこの後得意先の接待が入っており忙しかった。小花への御礼は明日にしようと思っていた。



翌日。


姫野が出社するといつも彼女が清掃している箇所をもう一人の清掃員の吉田がモップを掛けていた。



「おはようございます。あの、彼女は?」


「全く。あんたまで小花ちゃんかい?ここの社員は若い娘が好きだね……」


吉田の冷たい視線に姫野は負けずに一歩前に進めた。



「違います!昨日、自分は世話になったので」



すると吉田ははあ、とため息をついて彼を向いた。


「……今日は休み。礼なら、出て来た時でいいさ」


「そう、ですか」


そういって姫野を背にして吉田はモップを掛けたがその冷たい態度に違和感を憶える姫野だった。



そんな事が合った彼は次回逢った時に彼女に礼を言えば良いと思っていたが、その翌日も彼女は休みだった。



そんな彼女を心配した蘭と美樹は姫野の元にやってきた。



「姫野さん。彼女、あの時、雨で濡れていたじゃないですか?もしかして風邪引いたんじゃないですか」


「……」


彼の傷をえぐるように蘭はもっとも想像したくない事を指摘し、美樹もこれに続いた。


「どうしよう?今、熱が出る風邪が流行っているものね」


二人は散々姫野の心に釘を刺すうような言葉を残して去って行った。この様子を風間は仕事もせずに見ていた。


「……あの責任感の強い小花ちゃんが二日も休むとは。やはりこれは確かめるしかありませんね」


「お前は連絡先を知っているのか」


「いいえ。でもやっぱり吉田婆ちゃんに聞いてきます」


「誰が吉田婆ちゃんだ」


「うわ?」


風間の背後にはゴミ箱を持った吉田が立っていた。


「二日も小花ちゃんがいないから。私もくたくただよ?腰に張る湿布は無いかい」


「はいはい。どうぞこちらへ」


これを見た松田はすっと立ち、吉田をソファへ誘った。


「これは試供品ですけど。良ければ貼りましょうか?」


「お願い。自分では貼れないんだよ」


松田は吉田を座らせると、がばと上着と婆シャツをめくり、湿布を貼った。それが終った時に今度は彼が話しかけた。


「……吉田さん。これ、飲む美白の薬の試供品です。どうぞ」


「おいおい風間の坊っちゃん?六十過ぎの私にそんなの飲ませてどうすんの?」


「退け!風間」


姫野は風間を突き飛ばして、吉田に向かった。


「吉田さん。この風間が代わりに清掃しますので。ほら!ホウキだ。持て」


「ひどい!?先輩がやって下さいよ」


「黙れ。あの、本当のところ、彼女は?」


ホウキを片手に不貞腐れている風間をそっと微笑んだ吉田は、松田の入れた麦茶をぐっと飲んだ。


「熱で寝込んでる」


「はあ……やはり」


自身を責める姫野は頭を抱えた。



「でもさっきのメールだと食欲が出て来たみたいで買い物を頼まれたから、今日は帰りに家に寄ってみるさ。はい、どうもごちそうさま」


「待って下さい!?」


姫野は背後のキャビネットを開いた。


「……滋養強壮ドリンク、喉の痛みに聞くトローチ……あと、ビタミン剤、他にもこれもいいか」


彼は一通り選んだものを紙袋に入れた。


「これ、良ければ彼女にお願いします。こちらの湿布は吉田さんのものです」


「OK、伝言は無いのかい?」


「……待っていると、それだけを」


風間にヒュー♪と口笛を吹かれた姫野は、うるさいと言わんばかりに彼をにらみながら自分はゴミ箱のゴミを集めて行った。この後、紙袋を持った吉田をドアまで見送った姫野は、なぜか胸がドキドキしていた。



そして翌朝の快晴の札幌。


それに反して心がうっすらしていた姫野は玄関を見渡し彼女の姿を探した。


……もしかして今日も休みか。


そんな彼はがっかりして営業所に入って行った。



「おはようございます!」


「お、おはよう」


彼が顔を上げると、その窓辺にはいつもの清掃員姿の彼女がいた。


雑巾で窓を拭いていた彼女は、自分があげたピンクのマスクをしていた。


「差し入れありがとうございました」


「いやこちらこそ。世話になっておいて礼もせずに済まなかった」


すると彼女は首を横に振った。


「いいえ。私の方こそ。差出がましい真似をして罰が当たったと自宅で反省しておりましたの」


「そんな事はない!」


済まなそうな顔をしている彼女の瞳を見て、つい大声を出した姫野は、驚き顔の小花を見て、どきとした。


「いや、その……。つまりだな」


本当はとても助かったと言おうとした時、誰かが営業所に入ってきた。


「あ?小花ちゃんおはよう!元気になったんだね。良かった!」


「はい!お陰さまで」


「おはようございます。まあ、小花ちゃん、もう大丈夫なの」


「はい。今日からまた頑張ります!」


しかし、そんな彼女の持つ白い雑巾を彼はさっと奪った。



「あの?」


「君は病み上がりなんだから無理するな。これは……俺がやる」


「ずるいです!先輩!彼女がいる時だけそんな事言って。俺が、やります」


「あ。こら、ひっぱるな!」


「まあ、みなさん!雑巾ならまだありますわ」


「そう?じゃ私もやるわ」



北の街札幌の夏の朝。


復帰した彼女の清掃する夏山愛生堂ビルは、こうしてキラキラと輝いていたのだった。



つづく

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