5話 雨に濡れないで
北海道には梅雨が無いと言われているけれど、近年の六月は雨が多い。清掃員の小花すずは今日も朝から濡れた玄関の床をひたすらモップで拭いていた。
「おはよう。小花ちゃん」
「おはようございます風間さん。これから得意先へご挨拶ですか?」
「そ。うるさい人と営業に行ってくるから。あ、何か食べたいもの無い?俺買ってくる、って、痛?」
営業所から出てきた背後の姫野は、風間の右耳を掴んでいた。
「そんな暇あるわけないだろう。さあ、行くぞ。俺はパソコンを持っているからお前は玄関まで車を回せ」
「ふあーい」
風間は傘を広げ、隣接する駐車場へ向かった。
彼を待っている間スマホをチェクしていた姫野はふと顔をあげると、彼女がモップ片手にじっと自分を見ている事に気が付いた。
「何だ?」
「いえ、あのその……」
「何だか言え!」
「ごめん下さいませ、えい!」
すると小花はいきなり姫野の背にシャーとスプレーを掛けた。
「おい、何をするんだ?」
驚く姫野に動じず、無表情の彼女は彼の全身や靴に煙を吹きつけた。
「これで、いいわ。……濡れるといけませんから。さあ、これでOKです」
「これは一体?」
すると外から車のクラクションがしたので、二人は外の方を見た。
「風間さんがお呼びですわ。さ、行ってらっしゃいませ。水たまりに入らないように」
「もちろん。そうするよ」
小花にお手振りで見送ってもらた姫野は、小雨の中を走って行った。
「くそ……一体、何なんだ?あの女。いきなり俺にスプレーを掛けやがった」
「アハハハ!先輩から加齢臭がしたから消臭スプレーを掛けたんじゃないですか」
今日の営業先はテレビ塔クリニック。ここ札幌は医者の名前よりも地名や建物の名が付くクリニックが多い。テレビ塔クリニックは、大通り公園にあるテレビ塔の地下にあった。
風間が運転する車は大通り公園の地下駐車場にやってきた。駐車した彼らは地下街オーロラタウンへ進んだ。
「あ、『花園団子』だ。帰りに小花ちゃんにゴマ団子買って行こうっと」
地下街には飲食店は並んでおり、買い物客が行き来していた。目移りしている風間に姫野は小さく尋ねた。
「……お前な。本気であの娘と付き合うつもりか」
風間は夏山生堂の得意先の薬局の跡取り息子である。風間社長から彼を預かっている姫野は女対策も頼まれていた。
「別に、お土産くいらい普通じゃないですか?それに向こうだってそんな気無さそうですし」
「そう言われればそうだな。お前なんか相手にされてないもんな……」
そう口角を上げた姫野に、風間は歩きながら眉をひそめた。
「……へえ。意外。先輩は小花ちゃんの事が気になるんですか」
「ならない。お前の仕事ぶりの方が気になるだけだ」
「本当に?」
「ふん!行くぞ」
こうして顔を背けた姫野は足早にクリニックを目指した。
午前中は地下街のクリニックに新薬を紹介した二人は、カレー屋で昼食を済ませ車を停めた駐車場に戻ってきた。
「先輩。さっきの先生が欲しがっていた増毛シャンプーはうちの薬局で取り寄せるんで。今日は無理して買いに行かなくていいですよ」
「そうか。これはお前に任せるか」
「じゃ、まっすぐ営業所に帰りますか……」
先を歩いていた風間は駐車場へと続く扉を開けた。強い風が吹き込む扉。これを押さえているのに姫野は来ようとしないので、風間は姫野を振り返った。
「先輩?どうしたんですか?」
「……いいのか、団子は」
立ち止まる姫野は小首をかしげて親指をすっと店に指した。
「おっと忘れてた!……て、先輩?ずいぶん親切じゃないですか」
「うるさい。お前がまた戻るといったら面倒だからな、早く買え」
こうして団子を買った二人は、雨の中、会社へと戻ってきた。
帰りの運転をした姫野は、玄関横に車を停め団子とパソコンを風間に持たせ、自分は道路の対面にある駐車場へ向かった。この時、傘をさすのが面倒なので姫野はダッシュで玄関まで戻ってきた。
そして一階にある第一中央営業所に戻ると、風間はさっそく団子を事務員の松田に渡していた。
「お疲れ様でした。係長。雨は止んだんですか?」
「いや。結構降ってますよ」
松田にそう言うと姫野は上着を脱ぎ椅子の背もたれにそっと掛けた。
「そうですか。でも、濡れてないから」
見ると姫野のスーツは、水をはじいていた。
「そのスーツ。防水なんですか。すげえ」
「そんなわけない。これは……あ?今朝のスプレー。あれは防水か、しまった……」
自分が濡れないようという彼女の配慮を知った彼は、そんな心優しい彼女に冷たくしてしまった自分を呪っていた。
「そんな事よりも先輩。俺、小花ちゃんに『団子』渡して来ます」
「そ、そんな事とは何だ。それに、わざわざ出向かなくてもそろそろ清掃の時間だろう。お、お前は今日の売り上げを、チェックしろ」
「くそう」
「くそとはなんだ?風間、言っておくが、お前はセールスマンなんだぞ」
全くもう、とぼやいた姫野は、思い出した用事を松田に向かった。
「ところで松田さん。パッチワークキルトって興味ありますか」
姫野と風間は得意先の塩川クリニックの院長夫人が今度キルトの展覧会に出展するので見て来て欲しいと頼まれたばかりだった。
「あるわけないでしょ」
「失礼しました」
見た目はセクシー女子、中身は男気溢れる事務員の松田優子。そんな彼女に女らしい趣味を聞いた俺がバカだったと姫野が反省していた時、ドアをノックする音が聞こえて来た。
「清掃員です。失礼します」
「あ、小花ちゃん。渡したいものがあるんだ」
「風間さん。私はまだ勤務中です」
「ちぇ」
笑顔の小花に優しくたしなめられた風間は、わざと口を尖らせた。そんな仲良さそうな二人に姫野は勇気を出して声を掛けた。
「君。手を止めずに聞いてくれ。今朝、私に掛けたのは防水スプレーか」
「左様でございます」
「なぜそのような親切を」
「姫野さんが濡れたままでは会社も汚れますので。予防です」
「汚れの予防……?」
想定外の理由に動揺した姫野は、思わず見ていたキルト展覧会の招待状をパラリと落としてしまった。
「落ちましたわ。まあ、全日空ホテルでキルト展ですか。このハワイアンキルト……素敵ですね」
招待状に載っているキルト作品をしみじみ眺めた彼女は、はい、と姫野にこれを返した。
「ありがとう、君はこれに興味があるのか?」
「はい。祖母がやっていましたので。私も好きで小物を作ったりします」
この返事に姫野は、彼女をじっと見つめながら言った。
「松田さん。彼女にお茶をお願いします。君に話があるんだ。ここに座って団子を食べなさい」
「え?」
眼をパチクリさせた小花は、ホウキを握りながら姫野に応えた。
「仕事中なのでそれはできませんの」
「そう来たか……」
気真面目な娘に、姫野は目を細めたが、風間は姫野を制した。
「先輩、それじゃダメですよ!小花ちゃん。これは休憩じゃないよ。お皿の清掃だよ。ほら、食べて皿を空にしてよ」
「お皿の清掃……」
「なるほど、風間の言う通りだ」
すると姫野は彼女からホウキを奪い、風間にひょい、と渡した。
「ほら。風間は代わりに掃除をしろ!いいから君はここに座れ。松田さん!お茶」
「はいはい。どうぞ。あのね、係長の相談を聞いてあげて?」
姫野に肩を抱かれソファに座った小花は、不思議そうに小首を傾げながら、対面に座る様子の姫野をじっと見た。
「実は我々はこのキルト展に行かねばならないのだが、俺はこういうものに行ったことが無い。これは、ただ飾ってある作品を褒めちぎれば良いのか?」
姫野はそう言うと、団子の乗った皿をすっと小花の前に置いた。
「……ありがとうございます。あの、感想を言うのは良いと思います。しかしながら親しい方が出展されている場合は、その方が在席される日時に伺いますね。そして、その際はお花をお持ちし、来た証拠に方名帳に名前を記したりしますわ」
彼女はきちんと足を閉じ、手を膝の上に重ねて背筋をピンとした姿勢で彼の質問に答えてくれた。
「花はどんなものだ?」
そんな姫野は大きく足を組み、小花をじっと見つめた。
「花束だと花瓶が必要で面倒ですわ。なのでフラワーアレンジメントが便利ですね。これはこの方の作品のそばに置かれます。それにお持ちするなら、初日がよろしいですね。開催期間中に作品に花を添えられるのは誉になりますもの」
そういって小花は松田の出した麦茶を一口に飲んだ。
「花は大きい方がいいわけだ」
「いいえ。作品によりますわ。お財布くらいの作品に大きなお花は、反って恥ずかしいですもの。その方は何を制作されたのですか?」
「ええと。何だったかな。おい!風間」
姫野はソファに背持たれて、背後でホウキを振るう風間に声を掛けると、彼は面倒臭そうに答えた。
「……ベビーキルトって言ってましたよ」
「それは赤ちゃんのおくるみです。サイズは……バスタオル半分くらいでしょうか」
「そうか」
姫野は眼をつぶり腕組みをした。
「……あの、私、そろそろ」
「そうか?呼び止めて済まない。その団子は持ち帰ってくれ」
「ありがとうございます。風間さん。松田さん、失礼致しました」
彼女はホウキと団子を受け取りお辞儀をし、そっと部屋を後にした。中央一営業所の窓には冷たい雨が打ち付けていた。
◇◇◇
翌朝の雨。
会社の玄関には『どうぞお使いください』と、たくさんタオルが置いてあったがこれは親切ではなく小花の汚れ予防対策であると言う事を知っていた姫野は、そんな彼女の策も知らず社員達がこの親切に心から感動をしているのを横目に見ていた。
今朝は全道の支店から所長が本社夏山ビル集まる月に一度の所長会議の日だった。
営業職係長の姫野は本来出番が無いはず。だが、会議を行うのがここ本社であり、会議運営は中央第一営業所が行うのが通例だった。
ここ夏山愛生堂本社ビルは、札幌駅東にある札幌卸売りセンター内にあり、並ぶ他業種の会社はみな卸売り会社だ。
全てのビルは地下でつながっており、共同で使用している卸センター総合ビルの大会議室は本日、夏山で貸し切りだった。
十時の会議の前に時間を持て余している所長達は、中央第一営業所で時間を潰していた。
「なあ姫野。今夜俺をススキノに連れて行ってくれよ」
「生憎ですが、今夜は得意先の接待がありまして」
「なんだよ、付き合い悪いな」
出来る男はここで話を終えずに続けた。
「良ければ店を予約しておきますか?うちの新人の風間は、ススキノ育ちですので、ご希望の店を紹介できますよ」
「頼むよ!」
「俺もだ。三人で」
道南地方の所長達も手を挙げた。すかさずキャッチした風間が立ち上がった。
「では、みなさんのご要望をお聞かせ下さい!えーとまずは釧路所長ですね、バニーガールの店、稚内所長はモノマネパブ、滝川所長はコスプレレストラン……」
スマホを片手に一人一人からオーダーを取る風間を札幌西営業所長は感心していた。
「これが聞きしに勝る『ススキノプリンス』か。……風間君。本気でうちの営業所に来ないか?そういうやる気のある人材を私は求めているんだよ」
札幌市内の西営業所長は彼がいれば大変便利なので本気で風間を口説いていた。
「ありがとうございます。でも俺、親父の薬局があるんで。ここじゃないと駄目なんすよ」
「……まったく。うちに来れば営業トップにしてやるのにな」
こんな会議の緊張感がまるでない所長達にすっかり慣れた姫野は、彼らに会議室へ移動を促した。
「本日は雨ですので。地下から参りましょう」
エレベーターで地下二階まで下りた彼らは、配達用の車が行き来する冷たい地下通路を歩きセンタービルを目指した。
大会議室には全道の所長と執行役員と社長が出席だった。
医薬品卸の夏山愛生堂。社長が急死したため専務であった社長の弟が担っていたが、体調が優れず職務をこなせずにいた。これにより今年から社長の息子の夏山慎也が務めていた。
慎也社長は二十七歳とまだ若く、最近までフランスで薬学の研究をしていた人物。
現場の人間に言わせれば何も分からない世間知らずのお坊ちゃん扱いをされていたが、介護用品の輸入や、看護師になる学生への助成金制度のなどを実施するなど業界の先駆けであり、医療雑誌にコラムを載せる程の知識人だった。
やがて各所長が席に着いたので、姫野は社長ら執行部員を呼びに隣接のドアをノックした。
こうして所長会議が開始された。
会議の始まりを見届けた姫野は、会議室の外の椅子に座った。
終えるまでの一時間はこうして待機だ。
……疲れた。
仕事ではなく付き合いにだった。そんな彼がじっとしていると廊下の奥から足音が近づいて来た。
「姫野さーん。お疲れ様です」
「あ、ああ」
彼が眼を開けると、お茶を淹れにきた総務部の事務員、高橋蘭と青柳美樹が目を輝かせていた。
夏山愛生堂は男女差別を無くす取り組みをしている。お茶を出すのは女子に限らないが、お茶くみは各部の担当制であり、総務部は女性ばかりなので今回はこの女子2名になっていた。
「ああ。お疲れ様」
ふと姫野は彼女達にバレンタインのチョコをもらった過去を思い出したので非常に気まずくなりすっと立ち上がった。しかし。蘭に捕まった。
「お茶を出すのは休憩の時だから、まだ時間ありますよね?姫野さんは何をしていたんですか?」
笑顔でぐいぐい来るタイプの女子は姫野は苦手だったので彼は思わず後ずさりした。
「ああ。ちょっと考え事を」
「いつも休みの日は何をしているんですか?ゴルフが上手ってきいたんですけど」
肯定すると今度連れて行って下さい、というセリフが聞こえて来そうだったので彼はしっ!と人差し指を立てた。
「会議中だ。静に頼むよ」
「「すみません……」」
彼女達を指一本で黙らせた姫野は、この場を彼女達に任せ、自分は廊下の隅に移動し、スマホで売り上げをチェックしていた。
その時、女子社員の足音が響いてきた。
「姫野さん!あの」
「どうした?」
「……これなんです」
彼女達の話によると、いきなりドアが開いて、社長のお土産のウーロン茶を淹れるように茶葉を渡されたという。
「お湯はあるんだろう。淹れてみれば良いじゃないか」
「無理ですよ?これ本格的な感じじゃないですか」
「慌てるな。スマホで検索してみろ」
「あ。そうか!ええと、ウーロン茶の淹れ方……」
頼りない彼女達の様子に危険を察した姫野は、中央第一営業所に電話をした。
「もしもし。姫野です」
『……あの。すみません。私、清掃員なんです』
聞き覚えのあるか鈴の音が転がるような声に思わず姫野は眼を瞑った。
「……どうして君がこの電話に出るんだ?うちの社員はどうした!」
『風間さんは得意先から呼び出しされて出かけました。松田さんは東京から第二製薬さんんがいらして、所長さんの代わりに話を聞いておいでです。他の方もいらしたんですが、市立病院へ緊急のお薬を届けに、今お出かけになりました』
「それは分かるが、なぜ君が」
小花は少し考えた。
『あの。たまたま受話器を拭いておりまして。何かボタンに触ったんですね、私」
「はあ……しかし。松田さんはまだか?」
『先方のお話しは息次の時しか止まりませんわ。あ?松田さんから伝言を聞くように合図されましたけど』
「これは伝言じゃダメなんだ!俺はウーロン茶を淹れに来てもらいたんだ」
『ウーロン茶?それでしたら私が参ります!』
「え?いや、君は」
ピッと切れた会話に呆れてスマホを見た姫野の肩を誰かが叩いた。
「あの姫野さん……。なんか専用のお茶セットが無いと駄目っぽいです」
「これはうちらには無理だわ」
腰に手を置いた彼女達からは試合に負けた選手のような悲壮感が漂っていた。そこに階段を駆け上がってきた音が響いた。
「姫野さん!お待たせしました!」
肩でハアハアと息をする彼女の身体は雨で濡れていた。
「……走って来たのか」
「地上を突っ切る方が早いですから。それで御茶は?」
怪訝そうな女子社員二名は、小花にワゴンに用意したお茶セットを指さした。
「……この茶葉ですね。大丈夫です。給湯室へ参りましょう」
ワゴンを押す小花の勇ましい姿。姫野には緊急患者をのせたストレッチャーを押す外科医のように見えたのだった。
つづく
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