第七話
第七話-①
□
自我の断裂。
躊躇いはなく。極太の麻縄で縛られた挙句、汚物のような液体を強引に臓腑に流し込まれる。
死への絶望と恐怖ではなく。理性と食道を焼灼されるおぞましさにこそ、顔半分に刺青を入れた男は絶叫する。自身の理性と肉体が、まな板の上の魚のようにぱっくりと綺麗に割れていく実感。
嗤いながら液体をびしゃびしゃとかけてくる人物を見て、彼の視界は、サイコロのように寸断された。
■
垂れ下がる無数の根の先端から染み出す樹液が、暗く狭い通路の空気を蜂蜜のように粘つかせている。そのような空間を息苦しく感じながら、ただひたすらに歩く。
焼け焦げた左上半身が悲鳴を上げる。
右手が本能的に焼けた左側を支えるために触れようとするが、それだけで気のほうが触れてしまいそうな激痛が走る。
行き場を失くした右手が蠢く。
顔半分に刺青を入れた男が痛みと苦悩に苛まれながら、ようやくたどり着く目的地。
正規経路から外れに外れた天然迷宮の端の端に、いつからか仕込まれていた秘密の転移道具。
激痛に耐えるたびに染み出す脂汗を流しながらも、刺青男はその道具を視界に入れ存在を認め、ただ歓喜に喘ぐ。
以後の思考は実に建設的だ。
まず、あのクソガキ二人組を殺す。見つけ出したら徹底的に殺す。次にどうやって殺すかの算段を立てる。手段だけは豊富だった。刺青男が、堅気の世界から離れて数十年。そういう手段の選択肢だけは豊富に取り揃えられるほど、頭の先まで浸かっている。
過ぎた危険信号は、思考の筋道さえ迷宮に変えた。滅裂した思考は、すでに助かり完全復活を果たした後のことしか見えていない。
暗闇に響く排気音は、まるで死者の呻き声のよう。
ひたひたと、救いを求める虫ように転移道具へ向かって歩く。
燻る左上半身の焼け焦げ痕が、そろそろ左足の膝にまでたどり着こうとしている。ざりざりと左足を引きずり、ようやく、復讐を果たすための転移に触れた。
「お帰りなさい。実に役に立ちませんでしたね」
出迎えの言葉はそんなもの。
失望の色さえ滲ませない、あまりに淡々とした他人ごと。精神への予防線でもなんでもなく、その声は真実、この刺青男は役に立たないと心から信じ切っていた。
しかし刺青男には届かない。当たり前だ。彼の脳は今、復讐を果たすことだけにすべてを燃やしている。
そんなところに何をくべたところで、炎は勢いよく燃え上がるだけ。
「ダメですねえ、これは。またずいぶんと半端に感染している。
自分の言葉が一切届いていないことなど分かり切った上で、その声は嗤うように囁く。くべられた言葉で火の粉が上がる。
「言葉まで失いましたか。まあ、これほどまでに動物に成り下がったのであれば、人間の言葉を使うほうがおこがましい。言葉を知った程度で人間を自称した報いですな」
違う。なにを言ってるんだ馬鹿野郎。俺はこうして言葉を理解しているし喋ることだってできる。そんなことに労力を使うよりも、あのクソガキどもへの報復を考えていたほうが正しいだろうが。
言葉を発しない理由を訴えながら、しかし刺青男は沈黙を貫く。当たり前だ。彼の精神はいま。言葉を聞き理解するという方向性を失っている。
外的刺激はすべてが燃料。
雑音が聞こえれば癪に障り、視線を感じれば癇癪を起こす。
突然視界がブレようものなら、何が起こったか分からないまま憤怒もしよう。
「嘆かわしさもここまで極まると、一周回って面白い。なるほど、環境が毒されていればそれでいい、というわけでもないようで」
視界の奥、白くぼやける世界の中で誰かが部屋の中央に立っている。見覚えはあった。妙な宗教にハマっているクソジジイ。なんだかイライラしたので、腹いせに、枯れ木のような腹に一撃入れてやろうと立ち上がり、再び世界が歪んだ。
刺青男はそこでようやく、自分が攻撃されていることを知る。
壁に背中を預けだらしなく床に座り込んでいる自分を自覚して、自身が歩んだこれまでの人生を連想する。
どれもこれも似たような絵面。
失敗しても成功しても、結局殴られ壁に横たわり。少々の成功を手に入れれば、ただの妬みでケンカを売られる。
黄金時代という言葉を、誰かが作った。クソくらえだと、燃える怒りの中で彼は思う。社会の下層で生まれた彼は誰かに手を差し伸べてもらうこともなく。特に輝くこともない灰色の人生。
彼を生んだ母親はクズの一言で、彼の父親は真正のひとでなし。底辺の裏側に潜むに相応しい人格者たち。
「濃度を高めたものを追加してみるのも一興ですかな。なに、加減の見極めは上手くなりましたから」
妙な言葉が追加されるが、彼は心底どうでもいい。なにしろ、意味を理解する前に音として耳を通過し、怒りの中にくべられるのだ。いちいち気にしている暇はない。
ぎちり、と腕が不自由になる。
なにかに座らせられる感触。
「…………あ?」
待て、それは。
声に出そうとして、声帯はすでに焦げ付いていた。
「あなたも感謝なさい。これほどの祝福、そう簡単には得られませんよ」
■
飛び散った何かの液体。
すえた臭いと、暴力のように燃え上がる自身の体温で彼はどうにか覚醒する。左半身が熱い。
なるほど、これは気分がいい。
一度ダウンした性能は、再起動を経ることで正しい人体運営を可能としている。腹の底で燻る憤怒は炎の舌を出しているが、食わせる餌はそこら中にある。
極上の餌はすでに定めてある。
その餌を、見せしめのために下品に食い散らかすための準備運動に見繕った相手は、自己の性能を確認するためにはまったく足りていなかった。
左半身が熱に疼く。
物足りない。これだけの不健全な肉体を相手にして、まったく付いてこられないとは情けない。立派なのは装備だけで、運動も反射も対応も、定められた階級にちっとも届いていない。
かつて人間だった残骸を踏み越え、一段上の化け物へ至る。
幸い、小娘が持っていた護符の影響はすでに憤怒の先に消え去った。熱はいまも湛えているが、むしろ性能は加速している。
――なるほど、これはいい、と血に錆びた唇が熱狂する。
腹を横断する分厚い肉膜から、強引に左腕を引きずり出す。
発熱によって爪は溶解し、火傷によって炭化し固まった皮膚が爪の代わりを務めている。その無様さと反動から、分泌できる回数は二回、方向は上下のみと判断し、熱に浮かされて冷笑する。
これで充分。凌辱するにはもってこいの威力だ。
近い未来を思い、感情が盛る。
勝手に口角が持ち上がるのを自覚しつつも放置しながら、水音を立てて肉の山を漁る。大きな塊や細長く硬いものを取り上げ、開いた穴を再確認。
「遥かなる星界からの旅人は、もう王樹宮だそうです。守りは堅い。突破は容易ではありませんが、道を均しておきましょうか?」
老人が雑音を放つ。
掠っただけでも効果充分と理解した彼は、くつくつと笑みを忍ばせながら王樹宮に視線を投げた。
咽るような充満する血の臭いのなか。
了承と受け取った老人は、爆ぜた肉片を回収しながら準備を整え始める。
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