[新章まであと8話] 野球は?

レース開始30分前になり、とりあえずいろいろと実況の準備が整ったところで、椅子に座ってダラダラしながら、みのりんが買ってきてくれた豚汁うどんでお腹を満たしていると、なんだか見たことがある60過ぎのおじさんが現れた。




スタッフに連れられてやってきたおじさんは俺の顔を見て、軽く会釈をする。




「新井さん、こちらの方は元ジョッキーの吉川さんです」




スタッフがそう紹介してくれたところで、俺は、ああーっと声を上げた。





吉川孝二というこのおじさんは、宇都宮市出身の元地方ジョッキーだ。






デビューは今はなき宇都宮競馬で、ルーキーイヤーから目覚ましい活躍で宇都宮競馬の中心ジョッキーとしての地位を築いていたものの、宇都宮競馬は閉場。




しかしその後は活躍の場を南関東に移し、デビューから20年で2500勝をマーク。




中央競馬にも積極的に参戦し、2月のダートG1フェブラリーステークスなどを勝利するなど、G1レースを通算4勝。




1600メートル戦を得意にしていたことから、マイルの吉川と競馬ファンから愛されていたおじさんだ。




今は現役を引退して、競馬番組や全国各地の競馬イベントでたまにお見かけするおじさんだ。





宇都宮市郊外の豪邸に住んでいるのだとか。






羨ましい限りだ。








そんな元ジョッキーのおじさんがこのポニーレースの解説を務めるんだとさ。このレースは毎年行われているみたいだが、鬼怒川牧場のように実況はなしで行われていたみたい。



しかし、今年は地元の野球選手が何か出しゃばってくるらしいから、ダメ元でレジェンドジョッキーにオファーしてみたらすんなりオーケーをもらえたというそんな形らしい。





しかし、野球選手の実況と元ジョッキーの組み合わせは如何なものなのか。



俺がまあまあの競馬好きだから吉川さんのことを知っていたけども。



俺は鬼怒川の時みたいに、自由きままに実況出来るのかと思いきや、競馬のプロが隣に座るなんて。





全然話が変わってくる。





しかしそんな俺の醸し出した空気感を察したのか、吉川さんは俺を褒めるように話出した。





「いやー、君の活躍は凄かったね。私も結構野球は好きで見るんだけど、君のようなバッティングをする選手は好きだよ。家内と何度もビクトリーズスタジアムに行って応援させてもらったよ」






「あらー! そうでしたか、ありがとうございます。正直自分でも出来すぎなくらいでして、今年がどうなるのか怖くて………」





「あはははは! 大丈夫、大丈夫! 君なら十分にやれると思うよ。今年こそ打率4割を期待してるから頑張ってね」





「ういー」








「吉川さんは初めて勝ったG1レースが、あのフェブラリーステークスで逃げきったやつだったじゃないですか。……あれって、どの辺りで勝ったって確信したんですか?」





「あれはねぇ。後ろと差をつけられた割にはペースがそこまで速くなくて、4コーナー回った時にはまだ馬に余裕があったからね。残り200メートルを切ったところで、これはもらったなとは思ったよ」





このおじさんの初G1制覇は、2月のダート戦、フェブラリーステークス。乗り馬はデビュー当時から注目はされていたが、やんちゃな性格が災いしてなかなか芽が出ないお馬だった。



G1に初挑戦となる5歳にしてようやく地方の手薄なG3レースを勝っただけの人気のない馬だった。



他の有力馬が後方待機する中、好スタートから単騎で気分よく先頭で道中を進み、単勝オッズ80倍の穴馬と吉川さんがまんまとそのまま府中の直線を逃げ切ってしまったレース展開だった。





今でも、番狂わせのG1レースとして度々語られる1戦であった。




「案外そういう勝ち方をすると、その後勝てなくなるんだけどね……現に次の重賞勝つのに5年もかかったから」





「うわー。めっちゃ分かりますわ。俺もラッキーヒットが続いちゃうと、その後パッタリってよくあったんで。実力通り、調子通りの健康的な結果が結局は1番いいんですよね」





「そうそう。それ相応が1番だよ」








「吉川さん、新井さん。そろそろファンファーレが鳴りますのでよろしくお願いします!」




吉川のおじちゃんと話をしている間に時間がだいぶ進んでいたようで、すっかり準備が整った様子。



気付けばレース開始5分前になっていた。



気づけばコースの周りをたくさんのお客さんがびっしりと取り囲んでいる。





マンモス学校の運動会の最後の選抜リレーが始まりそうなそんなワクワクした雰囲気。



実況席があるテントの周りにも、面白がってやってきたギャラリーで賑やか。スマホ向けられているのか、あちらこちらでテロリン、テロリンと音がする。




俺と吉川さんは慌てて実況席のマイクの前に座り直し、ペットボトルの水で喉を潤す。




「そろそろ行くよー。みんな準備してー」




「「はーい」」



実況席の横では、トランペットやらラッパやらタイコやらを抱えた中学生達がスタンバイ。




顧問の女性教諭がタクトを振るうと、厳かで迫力のある生ファンファーレが鳴り響き、そこにお客さん達の手拍子が重なる。






パパパラ、パッパラ、ラッパラッパ、パパパラッパ、パーパ! パパパラ、パッパラ、ラッパラッパ、パパパパラッパー!




パーパッパラーパ! パーパッパラーパ! ラッパ、パーッパラパッパッ!





パパラパーー!!

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