第2話 本の中
目が、覚める。
目の前には北海道でも本州でも見たことのない木々が生い茂っていた。下草だけは、どこにでもある芝生のような感じである。
「起きましたか?」
声の方に目をやれば肩口までのさらりとした髪の、目のぱっちりとした女性。
久方ぶりに帰省したら、母親が「拾った」と言ってのけた、我が家の居候だと名乗る女性。
弟が「テレビが教育テレビに固定されることといっぱい食べること以外は大人しいよ」と言っていた女性。
「ああ」
思い出した。
帰ってきた息子とはマスクをつけて会話したくせに、マスクを取って会話をするほどに打ち解けていたこの『
いや、正確には「
うん、ムカついてきたぞ。
一家が突如行方不明になった事件が、車の三十分圏内で起こったくせに。「怖いねえ」と言ったくせに。帰省したての息子を秒で良くわからない女性と二人で家の外に放り出しやがって。
「ここがどこだかわかりますか?」
体を起こして、周りを見る。
起きるのに反応したかのように炎が下がっていった。この炎のせいであの暑い夏の記憶がよみがえったのか?
「とりあえず、北海道ではないことは確かだな。本州の高山地帯でもなさそうだ」
「またまたー」
うっざ。
これほどのまでのうざ絡み感満載の声は、中々に聴くことがない。人の名前を忘れたまま、近くもなく何か特徴を捉えたわけでもない名前を述べる奴のような感じだ。距離感の取り方が分かっていない人のような感じだ。
「植物に詳しいわけじゃないから見ただけじゃわからないし、気温はさっきの炎のせいでわからないし。後は、俺には判断できるものはないからな」
「でも、覚えはあるんじゃないですか? こんな、『現実に似た現実とは違う世界』に」
ふわ、と。
朱音の動きに合わせて自分の好きな『本をめくったような匂い』が漂ってきた。
「あるわけないだろ」
「じゃあそれは何ですか?」
朱音の指が差しているである方向は、先ほどまで自分が寝ていた位置。
今更何をとは思いつつも顔を動かす。
「え……」
目をやれば、あの時の、祠に飾られていた本が、目に入った。
「ゴケプゾ」
「は?」
意味不明な文字の羅列を言ったにもかかわらず、朱音の顔は何一つ変わっていない。
聞き間違いか?
「拾った方が良いよ」
理由も聞かずに従うことには抵抗もあったが、だからと言って拒否する理由もない。
それに、なんとなくだけど。
自分自身この本は持っていた方が良い気もしてきている。
「なんで」
質問の途中で、朱音をなんと呼べば良いのかわからなくて、言葉に詰まる。
そんな自分の感情に気が付いたのか。朱音が柏手を打って嬉しそうな顔をした。
「私のことは気兼ねなく『朱音さん』と呼んで良いのですよ。ママさんの息子さんですから。特別に認めてあげます」
「じゃあ、『朱音さん』さんはなんでこの本のことを知っているんですか?」
「ちょっと! そこは『朱音さん』だけで良いんですよ! 何ですか、その教育テレビに出てきそうな呼び方は! いや、太陽を呼ぶような言い方なので別にそこまで嫌じゃないですけど」
嫌じゃないのかい。
「そもそも教育テレビで「太陽さんさん」なんて言わないでしょ」
多分。いや、言うのか?
「太陽SUNSUN。いや、太陽はSUNですもんね」
なんて自分の疑問をよそに。
『朱音さん』は腹をよじって笑い出した。
とりあえず。喫緊に身の危機があるわけじゃないようだとは分かったけれども。
だからと言って、何かが好転したわけでもない。
「話を戻してもらって良いですかねえ」
「誠二(せいじ)さんがが朱音さんさんなんて言い出すからですよ」
はしたないと怒られそうな笑いを上げながら、朱音は近くにあった木をバシバシと、力強く叩き始めた。
本当に何なんですかね、この人は。
「誠二さんこそ覚えはありませんか?」
朱音が目じりの涙をぬぐうような仕草をする。
口元は未だに笑っているかのように吊り上がり、ひくひくとしているのがなんとも。
「俺が教育テレビを見ていたのは、部活引退後だけだ」
「いえいえ。ゴケプゾを手にした時の記憶ですよ。その時も、こんな異次元な森に行きませんでした?」
なぜ知っている?
「その」
名前が覚えられず、本を見る。
「ゴケプゾ?」
「そう。ゴケプゾってのはこれか?」
眉が寄るように力が入っていることは自覚しつつも、朱音から目を離さずに本を拾い上げた。
朱音が、こくこく、と二度頷く。それから、唇にほっそい手を当てた。
首も、やや倒れている。
「もしかして、誠二さんはその文字が読めていないのですか?」
「むしろどうやって読むんだよ」
割と。マジで。
こいつは何なんだ。
「なるほど。誠二さんはBoyと言うよりはBaby的な感じなんですね。同じBから始まる言葉でも大違いでしゅっ」
げらげらと笑いながら言ったためか。
朱音が盛大に舌を噛んで地面を転げ始めた。
何こいつ。
パッと見、和服の似合う、座右の銘が『立てば芍薬座れば牡丹。歩く姿は百合の花』とでも言うべき外見をしている分、この行動がばかばかしく見える。ただ、骨の髄から愚かな、と言うわけではなく、慣れれば愛すべき馬鹿さ加減になると容易に想像が付くモノではあるが。
とりあえず、異様な動きだ。外見年齢相応ではない。歩いても百合の花にはならない。
違うか。この場合、
「立てば芍薬座れば牡丹、動く姿は魑魅魍魎か」
「ちょっと! 酷くないですか?」
朱音が地面に思いっきり手を着いて、起き上がった。
不思議なことに、服には一切の汚れが着いていない。
「自分の動きを冷静に振り返ってみてくださいよ。ってか、結局質問に答えてもらってないんですけど」
ああ、と朱音がまた柏手を打った。
「端的に言えば、ここは本の中です」
はい?
「本の中です」
「…………警察よりも先に病院、行こうか……」
「ちょっと、可哀そうな者を見る目をしないでくださいよ!」
襟元を掴まれて、ぐらぐらと揺らされたけど。
うん、何か、もう、ね。
うん。
「誠二さんだって体験しましたよね。不思議な森を。体に何かが入ってくる感覚とか、作り替えられる感覚とか、変な空間とか。ほら、此処の『匂い』もどことなく似ていませんか? というか、誠二さんはその本をどう説明するんですか?」
「どうって……。まあ、どうとでも?」
神社の中にあった悪戯とも言えるし、あれだって夢だと言える。
……そうじゃないってのは、嫌でもわかりつつあるけれども。説明に無理があるのもわかるけれども。
でも、朱音の言い分にもまだ無理がある気はする。
ごほん、と咳払いがして、視線を朱音に戻した。
「ならば仕方ありませんね。証拠をお見せしましょう」
「証拠?」
朱音が距離を取り、口に軽く握った拳を当てる。
それから、咳ばらいをした。
朱音の瞼がゆっくりと持ちあがり、異形と言えるほどに澄んだ目が開かれる。
「どふぉのザゾ」
これ以上に清浄な声があるのかと言うほど、綺麗な声が鼓膜を揺らした。
同時に、炎が朱音の手の上に起こる。
「いやいやいやいや」
声の綺麗さに騙されかけたけどさ。何ですかその言葉は。その炎は。
「おかしいでしょ」
「おかしくないよ。分かったでしょ?」
「ちょっと近づかないで」
「なんで!」
近づいて来ようとした朱音を、両手を前に出して止める。
いや、腰は引けているから無様な格好をしているとは思うけどさ。
「は? 待って。何で?」
「種も仕掛けもないよ?」
「余計に悪いわ!」
種か仕掛けがあってほしかったよ!
朱音が、両手を広げた。
「ほら。ほら。ね。不思議な世界でしょ?」
そして、炎が湧き出てくる。朱音さんの掌の上に。目の前に。さっきまでと同じく囲うように。
火が植物についているのに、どんどんと延焼していく様子はない。意思によって抑えられているように、湧き出た位置でずっと揺らめいている。
いや、水気が多いから延焼しにくいの? あれ? そう?
「信じてくれた? ね。ルールが違うんだよ」
「いや、いや。いや。情報が多すぎるわ!」
「多くない。全然多くないですよ。もっと説明しなくちゃいけないことがあるんですから」
「あのですね。人間には脳のキャパがありましてね」
「大丈夫。何か知らない世界に入ったってことと、ここに私の探している人が居ることと、ゴケプゾを持っている誠二さんは一般人よりもこの世界に入る資格があることさえ覚えてもらえれば」
「無理でしょ!」
「怖くない怖くない。怖くないんだよー」
何で無駄にリズムを取って歌っているんですかねえ。
というか、怖くないと言われると逆に怖いことがあるのかと思ってしまうのですけど。
「おっけーおっけー。俺が主体で、一個ずつ片付けて行ってもいい?」
「良いよー」
どむざザゾ、とまた意味不明な言語を発し、朱音が玉座のような立派な椅子を出現させて座った。
混乱している頭から、言葉を絞り出す。
「とりあえず、ごけぷぞ? ってどういう意味」
「その本の名前だよ」
あー、うん。
とりあえず素数でも数えようかなあ。
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