さすれば禁書を開きましょう

浅羽 信幸

第1話 とある夏の記憶

 それは、夏の暑い日だった。


 野球部の貴重な休みの一つであるテスト休み。僅か三日とテスト期間の一日であるが、盆と年の瀬ぐらいしか休みが無い中では長い休みである。


 その一日を使って、自分はひたすらに自転車を漕いだのだ。上からかんかんと照り付ける太陽は、七月半ばという北海道では最も暑い時季に違わず、自分の体力を風呂場からバケツで水を取るように汗に変えていった。


 そうまでして行ったのは山奥の神社で、今思えばくだらない理由だったと思う。


 ただただ、優しい国語の先生が、雑談で『祠の中を見たら、鏡が入っていた』という話をしたからだ。


 先生が言うには『自分を見つめろ』だの『いつでも貴方を見ている』だのと言う理由だったが、あの日の自分を刺激するには十分であった。


『本当にそうなのか』


 理由は無い。ただの好奇心だ。

 神頼みだってことあるごとにしているし、七夕に短冊だって括りつける。正月にはおみくじで一喜一憂もする。


 だから別に無神論者だったわけでもなく、自身の行いに所謂『神罰』と言うものが降り注ぐのではという恐怖もあった。


 ただ。

 それでも。


 穴の開いている姿の似合う祠に何が安置されているのか。気になって仕方がなかったのだ。


 然して、怖いもの知らずの男子中学生は手入れのされていない祠を開いた。御多分に漏れず、木陰にあって雰囲気のある、明らかに『あやかし』の出てきそうな祠を、である。


 開けた先にあったのは、一冊の本。

 古書だとは一瞬で分かったが、それにしては外装が綺麗だった。売り物の本と同じように、綺麗に開けそうだった。

 表紙に書いてある文字は見たことがなく。中学生程度の古文や漢文の知識があってもまったくの無駄。外国語でもわからない。日本語は絵みたいだという話も聞くが、その字の方がよっぽど絵に近いと思ったし、今でも思っている。


 ともかく、雰囲気と合わさって明らかに不審なその書と出会ったのだ。


 明らかに触れるなと言っているような物だし、触れる方がどうかしていただろう。


 だが、手を伸ばした。


 中学生の青い意地だっただろう。

 肝試しであり、煽られるからではない。

 

 逆だ。


 同級生と同じにされたくなかったからだ。貴重な経験のできる機会ですら、簡単に見逃す輩だったから、同じ行動をしたくなかったのだ。


 ナマコを触れる機会や、貴重な水族館の裏側を経験できる機会に動かない奴らと。授業中にわかるであろう質問に答えない奴らと。

 質問に関しては、どこでもそうだ。高校でも、大学でも。誰も何も言わない。出てくるのは文句か、人に指名されてから。本当にわからないだけかどうか判断付かないが、正直馬鹿すぎるとも思う。


 まあ、それは置いといて。


 中学校の奴らは成人式の打ち上げで同級生の親族の経営する店にひたすら値引き交渉をした末に、町役場が新成人のために用意してくれた酒を持ち込ませろと言うような奴らだ。


 正直、今でも自身の精神は幼いと思っているが、もっと幼い自分は、威勢の良いことを言っているくせに肝心なところで引く奴らと、人を馬鹿にすることにしか長けていない奴らと同じになりたくなかったのだ。


 あの時の自分は何を考えていたんだろうな。本当に。


 兎も角。どうしようもない馬鹿な意地によって自分は手を伸ばして、その古書に触れてしまった。


 直後。

 世界が変わる。


 文字通り世界が変わったのだ。現実のものではないとわかる景色があったのだ。


 熱帯や亜熱帯にありそうな木々に、しっかりとした土壌。

 植物の分解が早いため熱帯では土壌は発達しないはずだが、普通に見慣れたレベルの土壌があったのだ。


 もちろん、上記のは付け焼刃の知識でしかない上に聞いたばかりの知識だったが、疑問に思うには十分である。疑問には思いつつも、植物に手を伸ばしてしまった。今なら触れなかったであろうが、触れてしまったのだ。


 もちろん、好奇心ゆえに、である。

 瞬間。植物が伸びてくる。


 蔓が、とか、葉が、などという問題ではない。枝のような太い物が、硬い物が。自分の手首を巻き取り、首に巻き付き、胴体を引っ張ったのだ。


 自転車の長期運転で上手く力の入らない太ももによる抵抗をあざ笑うように。密かに自慢だった、部活で一番筋肉痛になりにくい肉体をあしらうように。


 引きずり倒され、景色が一変した。青いはずの空は昏い朱色で、紫に変色しつつ垂れてくるように。木の根が伸びて鼻の穴から入るように。耳に枝を張るように。


 この時の自分は裸一貫。着の身着のまま。

 中学生の時には携帯など持ってはおらず。


 死にたくはなかった。だが、抵抗など無意味だった。


 これが天罰か、と思った中学生の自分は、ここで抵抗を諦めたのである。今ならもっと暴れたかもしれないが、何故か、日ごろの疲れのような眠気が襲ってきたのだ。


 耳に無理矢理に入り込んでくるかさかさとした音。


 鼻に入り込んでくる細い糸。水気。


 口を割って、喉を擦る硬い繊維。


 抵抗を一切許さないほどに四肢に巻き付いた植物。


 不思議なことに、息苦しさはなかった。

 あったのは自分が作り替えられてしまうかのような感覚。目に根が張り付いたかのような圧迫感。視界の軋み。蜘蛛の巣のような木の根が、目の端から出てきて視界を埋めていく感覚。食道を、胃を、腸を。木の根が埋めていく圧迫感。

 意識だけが失えないまま、骨が幹に、欠陥が根に、肉体が葉に代わっていくような感覚。


 一切の抵抗を諦めたまま、紫色に変色しかけた昏い朱色の空が、文字通り顔面に落ちてきた。


 脳が揺らされ、体から引きずり出される様な感覚。宙に浮くような浮遊感。


 良くわからない、想像上の宇宙のような場所を、洗濯機の中の衣服のように回される感覚。



 そこで、自分は目が覚めた。


 映る景色は黄緑色の葉が太陽に透かされて輝いている姿と、水色の空。少量の雲。

 それから、夏の授業中の昼寝から覚めた時のような多量の汗。額をぬぐえばぐっしょりと手に汗がつき、起き上がっても何かに巻き付かれたような汚れも皺もなかった。


 家に帰って気づいたことだが、この時は寝っ転がっていた背中に汚れがついていただけである。

 嫌な夢だったような、読後感。


 中学時代の自分は人間関係も良好とは言えなかったし、何かに縛られているような、中学生特有の見えないレールとやらに覚えがなかったと言えば嘘になる。

 そう言った、現実世界への抑圧感があんな夢を見せたのではないかと思えるほどに、目覚めた後の視界には先ほどまでの世界を構成する要素は何もなかった。


 ただ一つ。


 起きた時に左手に握られていた、祠にあった本を除いて。


 なぜか持ち帰らなくてはいけない気がして、持ち帰った直後は本を読もうとしたこともあった。でも、何も読み解けなくて。読み解けないが内容が分かった気もして。


 不思議な本は暇を持て余していたテスト期間中のお供になったが、終われば部活が始まる。

 部活が始まれば、どんどん本のことは忘れていった。


 野球は楽しかったし、それに打ち込んでいる時間は幸せだったからだ。野球が終われば、夏期講習や冬期講習は塾に行ったが、後は遊び惚けていた。仲の良い友達とはいく高校が別々になることは分かり切っていたし、バスも違う。だからこそ、遊び惚けられる時間が中学の最後しかなかった。


 高校になれば朝早くから登校のために家に出て、遅くに帰ってくる。朝食は家族で一番早くて、夕食は一番遅かった。


 だからこそ、本の存在は薄れていた。夢にも出てこない。昔はCMで見たのに、もうスーパーには並んでいない商品のように。あったね、と言う物に成り下がっていた。


 でも、あの体験は、あの記憶は、現実だった気がする。


 証拠はないけれど、弱火のまま煮込まれ続けている鍋のように。それによって完成した煮つけのように。

 ふと、中身が垂れだすように思い出したのだった。

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