おつかいに行きましょう


 花模様の石畳の道を、並んで歩いて行く。隣を歩く少年は軽やかな足取りで、鼻歌交じりで楽しそうだ。トスティナはしっかりと鞄を抱えたまま、微笑みかけた。

「アグロア、ご機嫌ですね」

「へへっ、坊ちゃんは心配してンだろォけどなァ。オイラァ、ティナと出掛けられんのは楽しいサァ」

「わたしも楽しいです」

 以前に街に来たときは、例の物盗り騒ぎで慌ただしかった印象が強い。今日は今日で、出掛けるときにさんざんミズガルドからいろいろな諸注意を言い渡されたが、それでも、アグロアと二人で買い物を任されたのはなんとなく、嬉しい。

「でも、先生すごく心配してましたね」

「なァー。おかーさん、みたいになってたよなァ、ミズガルド」

 けけっ、と笑うアグロアに、トスティナは軽く首を傾げた。

「おかーさんってああいうカンジですか? 寄り道しちゃだめ、とか、知らない人についていくな、とか」

「ん? ああ。そっか。ティナ、かーちゃんいねェんだっけかァ?」

「覚えてないんです。おじいちゃんに拾われる前のこと、全然」

「へェ。そっかァ。ま、いろいろあるさァなァ」

 アグロアがひょい、と肩をすくめる。ふっと空を見上げる栗色の髪をしたアグロアの横顔が、いつもより少し大人びて見えた。

 雑多な街中を、アグロアはひょいひょいと人ごみを抜けていく。その背中を追いかけながら、ミズガルドの渡してくれた地図を手に薬剤店を目指す。日差しは強いが、街中を渡る風のお陰で、心地悪くはない。出掛けるにはいい日和だった。

「アグロアはご家族いらっしゃるんですね」

「うん。オイラんとこは、みーんな元気サァ」

「風の方々は、風の方々で住んでらっしゃるんですか?」

 周りに聞こえないように、少しだけ声を小さくして訊ねる。アグロアは、恥ずかしそうに鼻を鳴らしながら頷いた。

「ちっちェ村にねィ。ま、鬱陶しいけンど、いるのはいいことサァねィ」

 他愛ない言葉を交わしながらトスティナはアグロアと二人、地図を睨みながらなんとか目当ての店へとたどり着く。目当てのルーシャの実は、瓶詰めにして売られていた。赤く小さな、クランベリーのように見えるそれを購入し、ほっと息を吐く。帰りの道のりも、アグロアはご機嫌なようだった。

「それ、なんの歌なんですか?」

「ん? オイラが今歌ってたやつかィ?」

「です」

「民に伝わる伝承歌ってェのかなァ。民も人も今みてェにバンラバラじゃァなかった頃を、おもしろおかしく歌ってるやつさァ」

 なるほど確かに、アグロアの口ずさむ歌は、軽やかなメロディラインが華やかに心地よい。

「ティナは知ってるかなァとも思ったンだけどねィ」

「え? どうして?」

「そりゃあ」

 そこまで言った時、ふっとアグロアの表情が硬くなった。無造作に、トスティナの手を掴む。

「……同士だかンなァ」

「どう……?」

「ティナ」

 短く、強く。アグロアが囁いた。

「オイラを信じるかィ?」

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。何を、どういう事を、信じるのか。しかし、アグロアを、というのなら答えは簡単だった。

「信じます」

 にっと、アグロアが口の端に笑みを浮かべた。そのまま、細い路地へと入っていく。歩く速さは変わらない。角を幾つか曲がり、暗い路地の奥へ。

 行き止まりには、少し据えた匂いが染み付いていた。影になっていて陽射しもあまり差し込んでいない。そんな場所まで来てから、アグロアは唐突に足を止めた。トスティナの背中を押し、行き止まりの壁へと寄せる。そして、振り返る。

「え……」

 トスティナは思わず小さな声をあげていた。

 人がいた。二人。どちらも成人した男性のようだったが、逆光で顔はよく見えなかった。身に纏っているのは見慣れない洋装だが、それが地位の高い者の制服であることはすぐ知れた。襟元の印章に目を留める。それが何なのか。よく見る前に、アグロアの声が意識を遮った。

「御用でィ?」

「――失礼」

 低い声だった。

「以前、この街で起きた物盗りのことで、少々証言を頂きたく思いまして。そちらのお嬢様にお越し頂きたいのですが」

「わた……しです、か?」

「へっ」

 アグロアが一蹴した。ふんっ、と鼻を鳴らして、二人を見やる。

「おっかしィぜィ、アンタら。治安ケーサツとかじゃァなくって、すっとばしてイキナリ宮廷審理会がお出ましかィ?」

 宮廷審理会。その言葉に、トスティナは目を見開いた。詳しくは知らないが、国の重要案件を取り扱う、治安警察の上の組織だったはずだ。

 たしかに、ただの街中の物盗り案件に出てくる名前ではない。

「事情がありまして。お連れの方には申し訳ないですが、わたくしたちが用があるのは、そちらのお嬢様です」

「ジョーダンじゃァねェやァ。なンるほど? あのお坊ちゃんがティナを一人で街に行かせたくなかったわけかァ。大方アンタら、コイツが物知らずとでも思ってやってンだろ? 姑息だねィ」

 刺々しいアグロアの言葉に、空気がぴりぴりとしびれる気配がした。不安はあった。ただ、アグロアが強く手を握ってくれていたので、怖さはない。

「――何者だ」

 低く、冷たい声だった。

「オイラかィ? オイラは」

 アグロアがそっと、ティナの肩を抱いた。

「――風サァ!」


 たんっ――!


 軽やかな音と同時に、視界がぶれた。日陰から、日なたへと。眩しさが一気に目を刺し、風が頬を叩く。

「ひゃ……」

「しっかり捕まってろよォ、ティナ!」

 飛んでいた。アグロアに抱えられ、トスティナは空に浮かんでいた。眼下に見上げている二人の男が見え、それもやがて視界から消えた。石造りの街並みが離れていく。青い空に抱かれるようだった。

 街が、小さく見える。

「ティナ! 大丈夫かァ?」

「はっ、はいいっ……」

「そこに降りっぜィ」

 ふっと、心臓が揺れる感覚に襲われる。次の瞬間、トスティナはアグロアに抱えられたまま、どこかへと降り立っていた。とはいえ、まだ、高い。

「こ、ここは?」

「時計塔だァねィ。判るかィ?」

 尖塔の一部に当たるらしい。そっと降ろされて、トスティナはその場に座り込んだ。高くて、さすがに立ってはいられない。

 石で出来ている時計塔の端に腰をかける。背中を壁にもたせかけ、短く息を吐いた。アグロアは怖くはないらしい。飄々とした様子でその場で立っている。

 下は見ないほうがいい。自分で自分に言い聞かせ、顔を上げる。

「あ」

「ン?」

「アグロア、髪」

「あァ。解いちまった。まァ、そのほうが飛びやすいかンなァ。なァんか胡散臭くて、オイラあの場でいたくなかったんだァねィ。悪イねェ」

「いえ。ありがとうございました」

 ぺこり、と頭を下げる。白髪に戻ったアグロアは、服装もいつもどおりの軽やかなものとなっていた。

「大丈夫かァ、ティナ」

「あは……まだ、ドキドキいってます」

 胸を押さえて笑ってみせる。「でも」とトスティナは続けた。

「わたしも、なんか変だと思いました。……助けてくれてありがとう、アグロア」

 ゆるく微笑むと、アグロアは少し困ったように苦笑した。その顔を見上げ、トスティナは静かに切り出した。

「これ、持って。先生のところに行ってくれますか?」

 先ほど購入したばかりのルーシャの実が入った袋を差し出す。アグロアは戸惑った様子で受け取った。

「ティナ?」

「先生に、伝えに行ってください、アグロア」

「何言ってンだい、ティナ。それならオイラ、アンタ連れて行くさァ」

「でも、アグロア」トスティナは小さく笑った。

「飛ぶの、いつもよりずっとずっと、遅かったです。わたしを気遣ってくれたのでしょう?」

 抱いて空を飛んでいるとき、ゆっくりにすら感じたのはそのせいだろう。いつも、アグロアは一瞬でいなくなる。それほど、早い。

 アグロアがバツの悪そうな顔をしている。少し首を傾げ、トスティナは囁いた。

「風は身一つで吹くほうが早いです。大丈夫。ここなら誰も来ません。お願いできますか? アグロア。これを先生に届けてください。それから、お話ししてください。なんだかおかしいです、こんなの。先生にお話してください」

 アグロアは少しの間、迷ったようだった。だが、ややあってゆっくり頷いた。

「オイラ、すンぐ行ってすンぐ戻ってくっから、ティナ、絶対ここ動くなよ?」

「はい」

 頷く。アグロアはふっと短く息を吐いたかと思うと、その瞬間にはもうその場にはいなかった。

 空が青い。

 不安が胸の奥を押し上げてくるのを感じながら、トスティナはじっと空を見上げた。

 ――信じよう。

 きっと、大丈夫だと。

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