物盗り

「わっ、なに……」

 トスティナが驚いた声を上げて振り返る。咄嗟にトスティナの腕を掴みながらカーラも振り返った。まっすぐに伸びる道。転んだのか、道に座り込んでいる老婆。遠巻きに見ている通行人。走り去っていく先ほどの少年たちの背中。一瞬でカーラは状況を把握した。

 物盗りだ。

 悲鳴を上げたのは通行人の誰かだろう。盗られた張本人と見られる老婆は小さく震えたまま、事態を理解出来ないでいるのか呆然と座り込んでいる。

「面倒な」

 小さく舌打ちし、カーラは駆け出した。実際のところ、街の治安に関しては宮廷魔法師の出る幕ではない。自警団か、あるいは治安警察の仕事だ。しかしこう目の前でやられてしまっては、義務ではないとはいえ宮廷魔法師として見過ごすわけにもいかない。まずは老婆の下へ駆け寄る。トスティナもついてきた。

「お怪我は」

「あ、ああ。宮廷魔法師さま……いえ、怪我はありませんが、鞄が……」

 呆然と答える老婆の肩に手をかけた瞬間、ふっと小さく風が流れた。顔を上げる。一瞬、血の気が引くのが判った。トスティナが、あの少年たちに向かって駆け出していた。

「――ティナ、待ちなさい!」



 何が起きたのか。正直、トスティナは理解していたとは言えない。ただ、カーラの険しい表情と周りの空気、掛けていく背中を見て追いかけなければ、と身体が勝手に動いていただけだ。

 見た目はトロいとよく言われたが、足は村の中でも一番速かった。すぐに、前を行く少年たちの背中が迫ってくる。三人。前にふたり、少し遅れてひとり。そして、その頃になってようやく、トスティナは先頭の少年が似つかわしくない鞄を持っているのに気づいた。

「そ、それ、盗ったんですか!?」

「は!?」

 怪訝な顔で、少年の一人が振り返ってきた。事実だ、と何となく理解した。理解した瞬間、トスティナはかっと頭に血が上るのが判った。

「――返してください!」

 叫んだ。同時に、手近にいた一番近い背の低い少年へ飛び掛る。どっ、とトスティナは少年と一緒にもんどりうって地面に倒れた。

「な、にすんだよこのアマ!」

「たっ、倒れました!」

「そうじゃねえよ!」

 怒鳴られる。トスティナは少年にしがみつきながら何とか顔を上げた。ただただ背中を見て走ってきたせいでよく判らなかったが、いつの間にか知らない道に出ていたらしい。石畳の道から、ちいさな水路を渡る橋の近くまで来ているようだ。遠巻きに、人が見ている。

「何で盗るんですか? 返してあげてください!」

「バカかてめぇ、殴られたいのか」

「いやです!」

 断言する。同時に、トスティナは乱暴に振り払われて身を崩した。腕の間をすり抜けて、少年がまた駆けて行く。気づくと、先を走っていた残りの二人はもう見えなくなっていた。今、この少年を見失えば追いつくことはもう出来ない。石畳で擦った手のひらを気にも留めず、トスティナは無理やり立ち上がった。もう一度走り出し、何とか追いすがろうと手を伸ばす。

「待っ……」

「邪魔なんだよ!」

 強く胸を押された。それはすぐに判った。自分の足がもつれて、何かにひどく腰をぶつけたというのも判った。ただ、そこから先がトスティナには良く判らなかった。急に、身体が軽くなったのだ。

(え?)

 思考がまとまらないまま、視界はくるりと回った。自身の金色の髪が、視界の中で大きく揺れる。少年の顔が離れて見えて、そこで、理解った。橋だ。橋から、落ちている。

 下は水路だったはずだが、その脇にはきっと地面もある。落ちたら痛いだろうか。冷たいのだろうか。

(夏だから大丈夫かなぁ)

 そんなとりとめのない思考が一瞬のうちに浮かんでは消えて、そして、視界の中で少年が走り出すのが見えた。トスティナは思わず、心の中で叫んでいた。


(――行っちゃ、ダメ!)



 カーラはその光景を目にして、こくりと一度喉を乗らした。短い前髪をそっと上にかきあげてから、橋の脇にあるちいさな階段から水路へと降りていく。

「ティナ!」

「あ……カーラさん」

 水路の脇。ささやかな土手になっている場所で、緑の絨毯の上にトスティナは仰向けになっていた。よろよろと身を起こす彼女の背に手を回す。

「怪我は!」

「わたしは大丈夫です。あの、さっきの男の子たち!」

 カーラの腕に、きゅっとトスティナの爪が食い込んだ。すがるように、こちらを見上げてくる緑玉の瞳。

「追いかけて、捕まえてください」

「でも、貴女怪我」

「してないです、大丈夫。だから、お願い、カーラさん!」

 真摯に想いだけをぶつけられて、カーラははっと短く早く息を吐いた。立ち上がる。

「判ったわ。宮廷魔法師の名にかけて」

 小さく囁く。そして、カーラは意識の中で理を展開する。魔法式と呼ばれる手順。世界の理を、ひとときだけ自分の理想とする理と同期させる術。

 それこそが――魔法だ。

「――跳べ」

 一言。同時にカーラは地面を強く蹴った。空気が耳元で鳴り、視界の中の景色が一瞬にして変わる。階段も使わず、もとの道に戻る。地面。触れた。また、蹴る。

(――あれは)

 二度目。すぐだった。空中から見下ろした景色の中に異質なものを見つけ、カーラは眉根を寄せた。地面に降り立つと同時に理を解除し、異質な光景へと走り寄る。

 そして、カーラは息を呑んだ。

 少年たちが三人。いずれも先ほどの彼らだ。鞄もある。それは間違いはなかった。だが、目の前の光景にいまひとつ理解が及ばなかった。

 通りの脇にある一本の大木。その根が絡んだかのように揃って地面に転んでいたのだ。それぞれがそれぞれ、抜け出そうともがいている。

 カーラは水色の目を細め、そっと口を手で覆った。

(これ……は)



 険しい顔をしたカーラが鞄を手に戻ってきて、少年たちも治安警察に引っ張っていかれ、これでようやく落ち着けるかと思ったのもつかの間、トスティナはそのままカーラに腕を引かれて早足で道を進んでいた。

「カ、カーラさん?」

 最初のうちはこちらに怪我がないか心配してくれてゆっくりと進んでくれたのだが、怪我が一切――擦り傷や打撲ほども――ないのが確かだと判ると、カーラの歩みは早くなった。橋をいくつか渡り、通りを何度も曲がり、やがてお洒落な煉瓦造りの建物の前へと出る。

 大きさはそれほどでもない。診療所、の看板がかかっていたが、その言葉から受ける冷たい印象は欠片もない、あたたかな雰囲気の建物だった。それは診療所の周りに植えられている花々が、どれもきちんと手入れされているように見えるからだろうか。

 その診療所の扉を、カーラは無造作に開けた。

「ネロ、いる?」

「あ、いらっしゃい、カーラさん。奥ですよ。今はお暇なので大丈夫」

「ありがと」

 受付台から向けられた女性の笑顔に、トスティナはきょときょとした。しかしカーラはまたトスティナの腕を掴んで奥の扉へと進んでいく。深い緑色の落ち着いた扉。診察室、と札が掛かっていたが、こちらもカーラは合図すらせず無遠慮に開けた。

「ネロ!」

「毎回毎回少しくらい合図してくれたっていいでしょうに」

 呻くような言葉とともに、その部屋の中、椅子に座っていた男性が苦笑した。トスティナは状況を理解出来ないまま部屋に入り、呆然とその男性を見上げた。

 背が高く、細身の男性だ。整った洋装の上から、白衣を羽織っている。眼鏡、というものだったか、丸い硝子の装飾品を顔につけていた。柔らかそうなふわふわとした茶色の髪が、この建物に良く似合っているようにトスティナには思えた。

 男性はカーラから視線を外し、こちらに目を止めた。眼鏡の奥の細い目が、少しだけ丸くなる。

「カーラ、この子は?」

「スレヴィの天災」

 短い言葉。だが、それだけで男性の表情が険しくなった。

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